盟約
蒼王丸はさらわれた桔梗を怪しい忍者達から助けることが出来た
深山の川原。姫は語りだす……。
遥か昔、武士の時代。山の幸、海の幸に恵まれた豊かな国があった。
彼の国には、代々仏の加護を受けた美しい姫が生まれ、古の盟約により、
山の主である狼の王が守護獣として生涯仕えるという。
その国の名は結城藩。
聳え立つ城は美しく荘厳で、天守閣の欄干に散りばめた螺旋細工が、月光を受け、綺羅めき輝く所から、月光城と呼ばれていた。
だがしかし、その天守閣に君臨するのは最早、人間ではなかった。
早雲の命を受け、月光城の姫君である結城桔梗を、同じく結城藩の忍より奪還した蒼王丸と狼たち。
蒼王丸が紅蓮の背に乗せてきた姫を川原の大岩に寝かすと、狼達は静かに川に入ってゆく。
そうして二頭はしばらく川面を見つめていたかと思うと、紅蓮が勢い良く水中に口を刺し込み丸々と太った岩魚を銜えて川原へと放った。
雪白はというと、前足で同じく岩魚を捕らえて川原へ打ち上げる。
「相変わらずうめぇもんだなぁ、おふたりさん。よ~し、火の準備は万全だぜ……ん~どれどれ? おぉ、紅蓮の採った岩魚の方が、ちぃとばかりでけぇなぁ」
打ち上げられてビチビチと跳ねている岩魚を拾いながら、蒼王丸がニヤニヤと二頭の狼を見る。
紅蓮は得意そうに鼻を上げ、雪白は猛然と水飛沫を上げながら水面を叩き出した。
「おいおいっ。それじゃ魚がみんな、逃げちまう。雪白はまだまだガキだなぁ。っはっはっは」
言われて雪白が、今度は蒼王丸に後ろ足で水を浴びせかける。
「わかった、わかったって。っこのぉ、黙っていればいい気になりやがって!」
蒼王丸もバシャバシャと川に入り雪白に飛び掛る、紅蓮も混ざりはしゃぎまわる様は、ただの子犬同士のじゃれ合いにしか見えない。
確かに蒼王丸は紅蓮や雪白と同じ狼王遮那王の子、二頭の兄弟であった。
七月も末の蒸し暑い夜に、若い狼の兄弟がじゃれ合う川原で、桔梗は静かに目を覚ました。
「此処……は……?」
「よう、気がついたか。そろそろ魚も焼けるからなぁっ。美味いぞ? 此処の岩魚は」
「っ……! 貴方は……?」
「あぁ? 俺か? 俺はな、蒼王丸様だ。アンタ、桔梗様だろ?」
「そうおうまる……さま……?どうして、わたくしの名を?」
「結城の里の姫の名前を、知らねぇ奴ぁいねぇよ。爺さんも心配していたぜ」
「爺さん……早雲様、早雲様のことですね……! 良かった、ご無事だった、本当に良かった……其れでは、貴方が……遮那王の養い子」
遮那王と、その名を聞いて火の側にいた雪白が起き上がった。
傍で、まどろんでいた紅蓮が顔を上げてじっと見つめる。
その視線に気づいて紅蓮に向かい、にっこりと花の様に微笑む。
そしてそっと手を伸ばすと、優しく紅蓮の鬣を撫でる。
「凄い、まるで紅く染まった紅葉ですね……そしてあちらは初雪のように純白……遮那王の子供達…本当に綺麗……」
「こいつは驚きだ、紅蓮が頭を預けてやがる」
「狼は、古より結城の姫の守護獣。わたくしは、巫女姫である母上のお腹に宿っていたときから遮那王と一緒でしたもの。本当に綺麗……良い子ね……」
そう言って愛おしそうに紅蓮の首を撫でている姫の名は桔梗。
流れるような美しい黒髪に、大きな瞳はまるで磨かれた玉の様に艶やかに光る。
透けるような白い肌が、どこかその名の如く、谷に咲く白い桔梗を思わせる。
蒼王丸は、焼けた魚を一つ取ると、桔梗の傍にしゃがみ、差し出す。
「紅蓮がスンナリなつくとはなぁ……狼の守護を得ているって言うのは、巫女姫だけじゃねぇんだなぁ…いやぁてぇしたもんだ」
そういって姫の横にどっかりと腰を下ろす。
大きな体躯の隣で、より一層華奢に見える細い身体に紅蓮がその身を寄せる。
「確かに俺は、遮那王の養い子だ。此の山の観音堂に捨てられてたのを赤子の時に拾われて、子供として遮那王の乳を飲んで育った。そいつは、遮那王の娘、紅蓮だ。あっちは弟の雪白。俺の乳兄妹だ。さてっと。自己紹介はもういいだろう、お姫さん。今度はアンタの番だ…。いってぇ何があった。そして、遮那王はどこだ?」
「そうでしたか……此の子達も遮那王の子供達……名前の通り凛として美しい…遮那王に良く似て優しい目をしてる……」
桔梗の瞳を見つめて、クゥンと鼻を鳴らす紅蓮。親を思う子、子を思う親の繋がりは、人でなくとも伝わりあう。
その首をぎゅっと抱きしめ、姫もまた、涙する。
「ごめんなさい……! 遮那王は、わたくしを助けてくれたのに……!」
「山中を一番鼻の効く雪白が探したが、遮那王の血、一滴はおろか、争った後も爺さんの小屋以外見つからねぇ。なによりお姫さん。狼の王、遮那王が、護っている大事な姫さんをあんな腐れ忍にむざむざ奪われるとは、どうしても思えねぇ」
「遮那の背に揺られ、やっと早雲様の所にたどり着いたのですが、追っ手はすぐにやって参りました……すぐさま小屋を出たわたくし達でしたが……追いつかれて……遮那王は構え……その時わたくしの首に何か…、気がついたら此処でした。貴方が…助けてくださったのですか? それとも遮那王が?」
「俺達がアンタを見つけたときには、遮那王の姿はなかった。気色の悪い忍びたちがアンタを担いでいただけだったんだ。……解せねぇな……」
「遮那王……遮那王もわたくしのように眠らされたのでしょうか……。」
「さあな……だが、あんな忍びの一匹や二匹、倒せぬわけがねぇ。アンタの首にあった傷痕は、恐らく吹き矢かなんかだろう。それにしたってよ、そんじょそこ等の薬が遮那王に効くとも思えねぇしなぁ。だが何かがあった、そいつは確かだ。そうでもなきゃ、むざむざ姫さんを敵の手に渡すはずがねぇ」
「……結城に生まれた姫は古の盟約により、此の山の主である狼と共に結城の民を護ってまいりました。父上だって観音様のご守護のもと、山の恵みと海の塩、自然の恵みを受けて平和で豊かな国であった結城を……あんなに愛して護っていたもの。遮那王の事もあれ程可愛がっていたのに……どうして…あんな……父上は、まるで人が変わった様になってしまわれた……」
「そうらしいな……アンタの父君…地割れがあった一月前からご乱心だって?」
「長雨の後、里外れの村に大きな地割れがありました。狙ったかのようにその辺り一帯だけ大きな地震があったといいます。さぞ人々が難儀をしているだろう、と…直ぐに出向いて検分し、元気付けてやらねば、と父上が。身体の弱い母上が、それではわたくしもと言われて一緒に……夕刻には父上が数名の用人と戻られのですが……地割れの縁で足元が崩れ、転落した母上はそのまま行方知れずになられたまま……」
「行方知れず?」
零れ落ちそうになる涙を堪えようと、桔梗がぐっと拳を握り締める。それでも大粒の涙が、一つまた一つとその膝を濡らす。
震える肩は、消え入るように細い。だが姫は、凜とあれという母の、父の、教えを護ろうと懸命に言葉を紡ぐ。
我が身におきた数奇な運命を、今、目の前の青年に全て語るために。
此の健気な姫には、もう他に頼れる物は誰一人としていないのだ。
「母上は死んだ……と聞かされても、わたくしと遮那王は信じる事ができませんでした……遮那王は城を抜け出て、何度も探しに行っていたようでした……母を庇ったときに受けた傷がもとで、父上はお部屋に篭りきりになられたまま……そして突然、人が変わったかのような、お振舞いをされるようになられたのです」
「ほう…人なんてそんなに突然変わるもん…なのか?」
「地割れより戻られて以来…父上に我が子同然に可愛がられていた遮那王が、なぜか父上に向かって酷く唸って吠え立てるようになりました。すると…常日頃あれ程温厚な父上が、それは酷くお怒りになられて……。目にするのも嫌じゃといって水も食べ物も一切おあたえにならずに……。何日もずっと裏庭に太い鎖で繋いだままに…」
「遮那王が鎖に…?大人しく繋がれたってぇのか」
「はい」
「…で?」
「遮那王はそのまま繋がれて…其れでも心ある城に住む人々が食べ物を持っていきましたが…遮那は私の手からしかものを食べなくなってしまいました。父上は、天守閣に篭られたまま…其れでも気になるのか夜になると、時折、遠眼鏡で裏庭を眺めていらっしゃいました。
「結城藩には主君もさることながら、文武両道、忠義に厚い侍が多いと爺さんがいつも嬉しそうに自慢してたぜ?誰も諌める奴ぁ居なかったのか」
「きっと傷が障ってイラつかれているのでしょうと、家老をはじめ家臣たちは申しておりました。それでも父上をたしなめ、補佐していた家老をまで、今度は遠ざけてしまい…遂には城中出入り禁止に。 いつしか側用人も一人、また一人と行方知れずになり、中には人が変わったかのように思える者も……わたくしは一人、父上と言葉を交わすことも許されず…何もすることが出来ませんでした…そのうちに…」
「そのうちに?」
「いつしか…父の周りには、怪しげな面を被った忍達と……薄気味の悪い風貌に変わった用人たちが、影の如く控えるようになってまいりました……遮那王は繋がれたまま、抗うことも無くいつもぐったりと横たわっておりました」
「…」
「ある晩の事…寝苦しさに目を覚ますと、わたくしの部屋で障子の陰に人影が…恐ろしさに布団の中で身を硬くしていると…音も無く開いた障子の隙間の向こうに、すっかりと面変わりされた父上の顔がこちらを覗いておりました」
「気味のわりぃ殿様だなぁ…そりゃぁ、あれだ、うん、きっとその殿様が妖怪だ……首でも伸びてきたんじゃねえの? わっはっははは……ん…あれ?」
無神経な言葉に雪白が鼻先で蒼王丸の肩をつついた。紅蓮は……睨んでいる。
「あ…いや…わりぃ…それで?」
「……父上が…声をかけて参られました…わたくしに」
「……」
「久しぶりに聞く父上の声は、同じはずなのに違うようにも聞こえ…何か…ねっとりとこう…纏わりついてくるようでした」
――結城藩桔梗の部屋――
音も無い静かな夜に、月光を背に受けて立つ久方ぶりに見る父の姿。
陰となり、はっきりとは窺えないその顔に、光る一つの目。
まるで悪夢のようなその姿が桔梗の胸に甦る。
「父上…?」
「……桔梗…」
「…」
「桔梗や…可愛い姫よ…そなた…なにやら常に身に着けておるものが、あるのではないか…?」
「…ぇ?」
「奥に…美月に…なにやらあずこうておる物が…ないかえ…?」
確かにそういった弾正の声が、桔梗の耳には途切れ途切れに音としか聞こえない」
思い出しても不思議で仕方がなかった。
何故父の声が聞き取れないのか。
「耳を澄まして、父上の声を捕らえようとはしましたが、切れ切れに聞こえて来る音では…何もわからなくて…翌日起きたわたくしは、きっと悪い夢でも見たのかと思うておりました。ですが…それから毎夜毎晩、父上がやってきては、障子の隙間から語りかけてくるのです。聞こえぬ言葉で。けれど、決して廊下より部屋へは入ってこようとはなさらなかった……」
「奇妙だな…」
「はい…わたくしは…なんだか恐ろしくなって…ある晩から、自室ではなく、遮那王のいる裏庭で、寄り添って眠るようになったのです。遮那の身体は温かくて…懐かしい匂いがしました。母上が亡くなられてから得られることの無かった安らぎを、遮那王がわたくしにくれました」
桔梗は、其処まで話すと、自分に身体を寄せて静かに聴いていた紅蓮の首をもう一度抱きしめる。
そうして大きく溜息をつくと、再び言葉を紡ぎだす。
蒼王丸も静かに耳を傾ける。
出来うる限り今、己と、遮那王に降りかかってしまった出来事を、遮那王の子供達に伝えるべく語る此の姫の言葉を。
「すると、父上は至極またお怒りになられて、遮那王を殺してしまえと命ぜられました」
「ほう」
「わたくしが其れを聞いて遮那王に逃げるように話しても、遮那王は変わらずぐったりと横になったまま……。いよいよ明日、処刑という晩の事…父上がお一人で裏庭に……」
桔梗は再び起きてしまった出来事を蒼王丸たちに語りだす。
――結城藩、月光城裏庭での出来事――
桔梗は、その夜のことを克明に語る。
それは…月の光に照らされて、桔梗とその母、美月の守護獣、蒼い狼遮那王がまどろむ夜。
黒雲が風に押され、明るい月を隠し闇を作る。
ふと気配に気がついて目覚めた桔梗が見たものは、久方ぶりに間近に見る父、結城藩主、弾正であった。
「桔梗」
「父上…お久しぶりです。父上…お顔の色が…お加減が悪いのではないですか…?」
「優しいのぉ…美月とは大違いじゃ……」
「…ぇ」
「桔梗…父はどうも具合がわるぅてのぉ……そなた…もっとやさしゅうしておくれ」
「父上……?」
生まれてこの方敬愛している父の声が、これ以上に疎ましく感じたことがあっただろうか。
幽鬼の様にゆっくりと手を上げて、おいでおいでと手招きをする弾正に、桔梗は思わず遮那王の鬣をぎゅっと握った。
「さぁ、そのような気のふれたケダモノと一緒に寝ずとも、余が添い寝をしてくれようぞ。さぁさぁ、こちらへ参れ可愛い姫よ…」
「ぃ…いや…」
「なんと…申したか…?」
「嫌ですっ、桔梗は遮那王の側を離れません。遮那王は母上の守護獣、観音様のお使いですっ。父上は…父上は…おかしいっ…! 父上は変わってしまわれた、遮那王を殺すなどと…ころ…殺すなどと…」
秘めていた思いが、次々と言葉となって溢れ出す。
そして同じく溢れる涙に、震える声が言葉を揺らす。
「……もう…良い…そのように泣くな…。父が悪かった……傷が疼いての…頭が割れるように痛いのじゃ…。そなたを泣かすつもりは無かった……すまなかったのぉ…」
聞きなれた優しい声。
背を向けて肩を落とす。
弱々しい父の其の姿に、桔梗は泪を拭いて立ち上がる。
「父上…大丈夫ですか……?」
そうしてまた泪する。
あぁ、やはり…父は変わってなどいなかった。
全てが傷の…痛みの語らせる言葉であったのだ。
母を亡くし、つらいのは自分だけではなかった。
なぜ自分は、この傷ついた父をいたわれなかったのだろう――。
風に吹かれた笹の葉が、地へと落ちる。
そのほんの一時の間であった。
あれ程に大きかった父の背中が小さく見える。
――桔梗が、父の背中に手をやろうと近づいたその時――
「つ~かま~えたぁっ」
「っ…! ち、父上? いったい何を…何をなさいます父上っ、やめてください、お戯れを…父上っ、ちちうぇぇぇぇっ」
「何を抗う? 父が遊んでやろうほどに…良い子じゃ、良い子じゃ」
突然に掴まれた桔梗の白い腕。
抗おうと振り上げたもう片方の腕も捉えられ桔梗は驚きの声を上げる。
何が起こったのか起ころうとしているのか、考えることすら出来ぬ其の一瞬。
生臭い父の吐く息が桔梗の首元に吹きかかった其の時。
大きく見開かれた桔梗の目に立ち上がり船をも繋ごうというほどの太い鎖を口に銜え大きく引きちぎった遮那王の姿が映った。
「遮那っ」
「ぬぉおっ、おのれケダモノ!此の一瞬を狙っておったな!!」
雄雄しく雄叫びを上げる遮那王の姿に、弾正がひるむ、だが桔梗は直ぐに気づいてしまう。
立ち上がった遮那王の足が細かく震えている。
やはり辛い日々は遮那王を弱らせていたのだ。
しかし遮那王は激しく牙をむき、実の娘の桔梗にのしかかる弾正に身体をぶつけると、すぐさま桔梗の帯を咥え背中へと乗せ駆け出した。
「おおおのれ、おのれ…逃さぬぞ。ものどもであえ、乱心じゃ、遮那王が桔梗を捕らえて逃げおった! ケダモノを追えっおうのだぁぁ!」
「それで…此の山へ…か」
「あれは…あれは…父上ではありません。父上で…あるはずが……」
桔梗の脳裏に甦る、父、弾正の顔。
抗う桔梗を愉しむ様に押さえつけ笑う、其の邪悪な顔――思い出すだけで、身体中の血が凍る。
「あの時、何処からか母上の声が……亡くなったはずの母上の声が、わたくしには、はっきりと聞こえたのです、『逃げて…』と……その声はきっと遮那王にも届いたはず……母上はきっと生きています。そしてわたくしを護ってくださっている…きっと。わたくしを背に乗せた遮那王は、そのまま風のように走り続け、城から此の山へ、早雲様のところまでつれてきてくれたのです……」
ぽつりぽつりと、自分の心を覗くように話し続ける桔梗。紅蓮がそっと桔梗の肩に頭をのせる。
其れはまるで甘えるようにも、泣いている姫を元気付けているようにも見えた。
事実、紅蓮は次代の結城の姫として、民達の守り手である此の姫の守護獣となる定めの狼であった。
姫が成人するそのあかつきまで、山にて修練するように親である遮那王より聞かされていた。
今、結城の里に何かが起ころうとしている。
生まれ育った月光城より、遮那王が助け出さねばならぬ程の過酷なさだめの此の姫の、今こそ護り手になりたいと紅蓮は感じていたのである。
「なるほど…そのへんの侍ごときに遮那王が後れを取る筈もねぇ。ましてや、物の怪妖怪の類にやられるわけもねぇ。弱っていた遮那王は、確かに姫さんと同じ薬で眠らされたのかも知れねぇな…さしもの観音力も、人の手によって作られた物には効かねぇとみえる」
「あの時、遮那王に救い出されなければ、わたくしはきっと……蒼王丸様、今度こそ、遮那王は殺されてしまうかも……遮那王…どうか…どうか無事で……」
「姫さん、そんなに泣いてると泪で目が溶けちまうぞ?」
「ぇ…?」
「アンタは、遮那王が命を掛けて守った大事な人だ」
「蒼王丸様…」
桔梗の華奢な肩を、がしっと掴んで顔を上げさせると、両の目をじっと見つめる蒼王丸。
雪白、紅蓮と其々の顔を見つめ、しっかりと頷く。
それから、おもむろにすっと立ち上がると、天に向かって腕を伸ばし、月を指差し大きく叫んだ。
「いいか良く聞け月の神よっ! おめぇが証人だっ。今宵、満月の元、たった今っ。狼の王、遮那王の子であるこの蒼王丸と、雪白、紅蓮の兄弟たちはっ。古の盟約に従い、結城の姫、桔梗様の守護獣となったぁっ!」
「蒼王丸様」
「狼王の誇りに掛けてなぁ!!」
月の光がゆらりと動いた。今、狼の誓いは聞き遂げられた。
月明かりに照らされて顔を上げる姫の瞳に、涙の影はもうなかった。
凜と輝く双眸に映るのは、天を指差す狼王の子蒼王丸。
宿命の糸に繋がれた若い二人を讃えるように、深山に狼たちの遠吠えが響き渡る――
――最早、魔物の巣窟と化した月光城――
闇に浮かぶ青白い月に照らし出され、不気味にそびえ立つ、城の奥く深く隠された秘密の入り口。
「此処より先は、我独りで降りる。何人たりとも通すでないぞ」
そういって、一人、長い階段を下りてゆく影が一つ。
それは、姿こそ名君と謳われた結城藩主、弾正。
だがその正体は、封印を解かれ、地の底から這い出して弾正を喰らい、取って代わった物の怪である。
地下へと降りると其処には、じっとりとした洞窟を利用して、地下牢が作られていた。
弾正の姿をした者は、牢の前で立ち止まると、囚われ人に格子越しに声をかける。
「参ったぞ……」
そういって鍵を開け、中へと入る。
牢の中には両腕を高く鎖に繋がれ、ぐったりと項垂れている美しい女が一人。
「寂しかったか? 美月……」
ぞっとするような猫なで声で名を呼ぶと、女の髪を掴み無理やり顔を上げさせる。
薄暗い洞窟の僅かな明かりの中でさえ、輝くばかりの美しさを見せる端正な顔立ち。
白い絹襦袢一枚で、鎖に繋がれた女の名は美月。
結城藩、藩主弾正が妻にして、桔梗の母である。
「う、ぅぅ……」
「ほぅ、まだ声を発する力が残っておるのか?だいぶ血を啜ったが……。ふふふ、やはり結城の姫というのは大した霊力じゃ……。美月……あの日、そちの数珠にて付けられし傷、遮那王の血を啜ったお陰でだいぶ消えたぞ」
美月は髪を掴まれたまま薄っすらと目を開け、綺麗な眉根を強く顰めて呟く。
「ば…け…も…の…」
弾正は厭らしい笑みを浮かべながら、大きく口を開け美月の頭をぐいと横へ傾ける。
まるで蝋の様に白い首筋に無数の牙の痕が、どす黒く残っている。
「はははははっ、愛い奴じゃ。そんな所が堪らぬのぅ…。どぅれ、今宵も馳走になろうかのぅ。我の目の濁り、はよう、癒しておくれぇ」
むしゃぶりつくように首に喰らい付き、牙を突き立てる。
「ひっ」
小さく叫んだ美月の身体がびくびくと痙攣する。
鈍く光っていた目の中で白い濁りが、すうっと薄らぐ。
「シャ、シャナオウ……」
「ふぅ~、相変わらず良い味じゃ。なんじゃ、まだ遮那王を呼んでおるのか……残念じゃが、お前の声はもう、あ奴には届かぬ。あの狼はとらまえて、先ほどたんまりと血を啜ってやったわ」
「っ……!」
「ふふふ……遮那王の生き血を啜り、妖力がだいぶ戻ったが、やはりお前の血は格別よのぉ……香りも味もとろけるようじゃ。ほんに、桔梗の血が愉しみじゃて」
口の端より美月の血を紅く滴らせ、その血を細く長い先の割れた舌でべろっと舐めとる。
美月の首筋を見つめながら、ねっとりと厭らしい笑みを浮かべている弾正。
遮那王、桔梗の名を聞いて美月はかっと大きく目を見開く。
「くっくっく…どうした美月、娘が心配か? 遮那王が気に掛かるか?くっ、くくく…遮那王の血も美味かったぞ…?お前の可愛い遮那王はわが牙を受けすっかりと我が傀儡 と成り果てた。守護獣といっても所詮、獣よのぉ…? 最早、脅威でもなんでもないわ。くっくくく…守護獣が物の怪に…何と愉快な…くっくっく。観音に吠え面かかせてやったわ…いかな観音力であっても、もう手遅れじゃ。あ奴はひとの生き血を啜りすぎた」
『遮那王が…人の生き血を……」
「直に、お前の娘も此処へとやって来よう…桔梗は美しいのぉ…? お前に、よう似ておるわ……」
気味の悪い其の舌で、青ざめる美月の頬をじゅるりと舐め上げる
「一度は逃したが、次は逃さぬ。必ずや、我が足元に、跪かせてくれようぞ。
我を地中に封印せしめた結城の姫の血を受けし者全て、末代までも血を吸い尽くし、根絶やしにしてくれるわっ」
声を荒げる弾正の双眸が、ぐらぐらと迸紅き溶岩のように憎しみの光を放ち、悪鬼の形相を浮かべる。
だが次の瞬間、けろりと其れを治め童の様な声を上げる。
「そうじゃ美月! 良いことを思いついた……! 桔梗を我が手に捕らえたあかつきには、美しい母子共に此処に並べ、毎夜血を啜っては弄んでくれよぅ…!どうじゃ、嬉しいか、嬉しいよなぁ、これが本当の親子水入らずじゃ。くっくくくっ、はっはっはっは、あーっひゃっひゃっひゃ」
首筋から血を滴らせ、のけぞって嬌声を上げる弾正を、唇を噛み締めぐっと睨む美月。
黒い真珠のような瞳からは、血の涙が流れている。
「桔梗…桔梗、どうか、どうか無事で……」
『南無、観世音菩薩。何卒桔梗を御守りください』
「最早、此の月光城は我の物じゃっ。直ぐに、結城の一族の一人残らず血を吸い尽くす。さすれば此のまま此の結城の里を、地獄の焦土としてくれよぅぞっ。くっくっくっくっく、ふっふっふっふっふ、はーっはっはっは、あひゃ、あひゃ、ひゃーっはっはぁ!!」
月光城の地下深い洞窟に弾正の邪悪な嗤いが高く低く、響き渡る。