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兆し




遥か昔、まだ此の国に美しい木々と爽やかな風が吹き、世の理が健やかなる時代。


遠く西にある豊かな国、結城藩。


其処には、観音菩薩の御使いといわれる巨大な狼の一族が守護する、そびえる神山があった。


そしてその狼一族の王は、代々古の盟約により結城藩の姫を守護し、仕えていたと云う。




選ばれた者のみ、入山を許される深山。


降り注ぐ夏の陽を一身に浴び、二頭の若い狼を付き従え草原の獣道を行く、一人の若い男の姿があった。


「わはははははっ! 遅い遅いっ、紅蓮! 雪白! 置いてゆくぞ!」 


若者は空に向かい、高らかに笑い声を上げながら、蒼狼の如くしなやかに走る。


獣の皮を身に纏い、背には細身の剣を背負っている。


彼こそが、此の山の主にして狼の王である遮那王の養い子。


遮那王の乳を飲んで育ち、人であって狼と心を通ずる男、蒼王丸そうおうまるである。 


長く伸びた髪は無造作に後ろへと一つにまとめられ、吹きぬける風になびいている。


さながらそれは、深々と茂る草の中を泳ぎ渡る、若き蒼い狼の豊かな尾の様に、右へ左へと揺れている。


「そらそら、急げ、いそげぇっ」


草原を抜け、天へと届かんばかりその深山切り立つ崖の下にやってくると、一人と二頭は立ち止まり上を仰ぐ。


「ようし、たまには近道としゃれ込むか。ついて来れるかぁ雪白、上まで競争じゃっ――ゆくぞっ!」


云うが早いか、男は岩を跳び、するすると崖を上り始める。


二頭の若い狼達がこれもまた同様に、負けるものかと身軽に岩を飛び、上がってゆく。


やっとのことで二頭が崖を登りきると、目の前には蒼王丸が腰に手をあて、仁王立ちで待ち構えていた。 


「だらしがないのぉ、それでも狼の王、遮那王の血族か。雪白、紅蓮、まだまだじゃな。うわっはっはっは」



大きな舌をだらりと垂らし、息を荒げている狼達。


雪のように白い狼と、燃える様な紅の鬣を持つ狼。


無駄のない筋肉、普通の狼の倍はあろうかという大きな身体で、蒼王丸の足元に座り込む。


白狼は雪白。


紅の狼は紅蓮である。


「ぬおぉ? なぁにがずるじゃ、雪白。負けは負け。文句を言うな、なぁ紅蓮」


しきりに鼻を振って鬣を揺らし抗議をする雪白を尻目に、紅蓮の燃えんばかりの赤毛の背をねぎらうように撫でてやる蒼王丸

       

「よしよし。さぁ、早雲殿のご機嫌はいかがかな。呼びだての狼煙を半時はんときも見ぬ振りをしていたからなぁ、きっと大目玉じゃぞ」


同じ乳を分け合った乳兄弟、撫でられる紅蓮の目は優しく蒼王丸を見つめる。


突然、雪白がピクリと鼻を上げ、すっと立ち上がった。


「どうした、雪白」


続いて紅蓮も鼻を上げると、そのまま蒼王丸の前へと周り、低く構え鼻に皺を寄せる。


「……血の臭い……だと?」


笑顔一転、穏やかだった空気が一瞬で張り詰められる。


人里離れた深山の奥、臭うはずのない血の香り、一体何が起ころうと、いや、起きているのか。


「爺さん……」




蒼王丸が物心ついた頃より山に住み着き、読み書き剣術、世の理を説いてきた男、早雲。


人の子として生きてゆけるよう、養い親の遮那王が何処からか招いた剣客である。


のろしを立てて呼び立てたのは、此の血の臭いの故であったのかと蒼王丸は、父のように慕う老人の身を案じ、森へと急ぎ駆けてゆく。


「待て」

       

気配を隠し、狼を伴い森を進むと、其処には粗末な佇まいの一軒の小屋があった。


身を低く、用心深く構えると、手を振り右へ左へと狼達を忍ばせる。


入り口の木戸へと手をかける前に、もう一度左右の狼達へと目をやると、小さく頷いて勢いよく戸を引き、


中へと踊りこむ


「っこいつは……!」


飛び込んだ小屋の中は、嵐の後のような静かな惨状。


「ぅ、うう……」


「爺さん!」


戦いの血飛沫に染まった部屋に、白髪の老人が倒れていた。

       

右肩から胸にかけ、鋭利な刀傷があり、其処から血潮がどくどくと流れていた。

       

蒼王丸は駆け寄り抱き起こすと、傷を手で圧した。


「だ、誰が爺さんじゃ……無礼者め…」


「憎まれ口が利けるようなら大丈夫だな。幸か不幸かすっぱり綺麗に切れてやがる。爺さん、しっかりしろ、直ぐに血を止めてやるからな」


「いいや、急げ、急いで奴らを追うのだ……う、うぅっ」


流れる血に赤く染まってゆく蒼王丸の手。

       

気を失った早雲に、外で構えていた狼達も、小屋へと入って鼻を鳴らしては細く呼びかけるように鳴いている。


「心配するな、此れなら綺麗にふさがるだろう。 紅蓮、お前は薬草を見つけるのが上手い、急いで取って来い。雪白、お前は、自慢の鼻で血を辿れ、だがな、決して深追いするんじゃねぇぞ――」


言われて狼達は疾風のように小屋から飛び出てゆく。

       

再び気づいた早雲が、それでも力強く蒼王丸の腕を掴む。


「蒼王丸か……」


「おう、爺さん、らしくねぇな――誰にやられた」


「結城藩の忍びじゃ……」


「結城藩の忍び? 結城藩は、遮那王が守護している藩じゃねぇか……間違いねぇのか」


しばらくすると、薬草をくわえ紅蓮が戻ってきた。


「よし、でかしたぞ、紅蓮。ごってり採ってきたな…。爺さん、ちょっと滲みるぜ」


蒼王丸は紅蓮の口から薬草を受け取ると、其れを口へと放り込んだ。

       

どろりとするまで良く噛むと、服を脱がした早雲の傷口へと丁寧に刷り込んで行く。


「う、ばっちいのぉ……」


「何言ってやがる、贅沢言ってる場合じゃねぇってぇの」


「大事無いというておるじゃろうが、これしきの傷」


「遅れをとったのか? 寄る年波には勝てねぇなぁ」


「こわっぱが何を抜かす、多勢に無勢、それに相手は人質を――」


「人質?」


「おぉぉ、そうじゃったっ、大事なことを――。実はな蒼王丸。今朝方、傷を負った遮那王がその背に姫君を乗せてやってきおったのだ」


「姫……まさか、結城の」


「そうじゃ、恐れ多くも観音様のお導き、古の盟約によって代々此の山の狼王が守護する結城の」


「巫女姫、美月」


「いや、それは母君のほうじゃ」


「なんでぇ、娘のほうか」


「なんでぇとはなんじゃっ、なんでぇとは! っあ痛ったたたたたた」


「でっけえ声だすからだ。大人しくしてろ」


「誰のせいじゃと――」


「だぁってよぉ、美月って言う巫女姫は、三国一の美女だって言うじゃねぇか。其れに引き換え娘のほうは……とんと噂も聞かねぇなぁ」


「ぶ、無礼者め、桔梗姫も其れはお可愛らしい姫様じゃ」


「ほぉぉ、可愛いねぇ……俺はどっちかってぇと胸も尻もこう、どーんとでっけぇほうが良いなぁ……ガキをぼろぼろ産んでも丈夫そうな」


「わしゃぁ、こうほっそりと柳腰の……ってそんな事はどうでもいいんじゃっっ痛ったたたたたた」


「あぁもう、しょうがねぇなぁ。爺さんの癖に色ボケしやがるから」   


「なっ、う、ううむ…もう良い、話が進まぬわ……よいか、しっかりと聞くのだ蒼王丸。遮那王の背に乗せられて、此処まで辿りついた桔梗様は、酷く怯え、それでも毅然と語られた。姫様が申されるには、お父上の結城藩主、弾正殿が立ち居振る舞い、驚くほどに豹変されて……ご乱心あそばされたと」


「乱心? 穏やかじゃねぇな」


「そうじゃ、ただ事ではない……わしの知っておる藩主結城弾正様は、慈悲深く民を思う名君であった。それ、お前も覚えておろう、一月ほど前の長雨で起きた大地割れを」


「あぁ、村一つ飲み込んだという、あれだろう?」


「そうじゃ…轟音と共に大地を揺らしながら、飲み込まれた村付近だけであったという何とも面妖な地割れ。結城の里の古文を紐解いてみたが、あれ程の大地割れは百年来なかった。癒しの力を持つという巫女姫様、奥方の美月様を伴い、弾正様が調査と救済に出かけられた。其の時、美月様と多くの近習達が事故で命を落とした……。お美しいだけでなく、あのお優しい美月様が…」


「ぬぉお、もったいねぇ、一度でいいから拝んでみたかったぜ、三国一の美女様をよぉ」


「い、い」


「い? いてぇか、いてぇよなぁ」


「いいかげんにせんかっこのっ、大たわけがっ! っ、くぅぅううう」


「解った、解った、もうちゃかさねぇから、寝ていろって」


「うぅぅ…まったく…命がいくつあっても足らんわい…わしゃぁ今にお前に殺される気がしてならん…」


「ひでぇなぁ」


「…ふぅ…なぁ、蒼王丸。あの方は…美月様はなぁ…。不思議な力を持たれていたあの御方は、観音菩薩の生まれ変わりとも云われておってな…それはもうお優しい、闇夜を照らす、まさに月の姫君のようじゃった……」


「見てきたように云うじゃねぇか」


「見たとも…いつも木の陰、物の陰からなぁ……」


「ほぅ」


「長々と話している場合ではない、蒼王丸。今すぐ桔梗様をお助けに向かうのじゃ」


「遮那王が一緒だろ?俺の出る幕なんてねぇよ」


「いいや、実は遮那王が此処へ来たのはおぬしに合う為じゃないか、と」


「俺に?」


「そうじゃっ。さしもの狼王の遮那王といえども、人語を操るにはまだいたってはおらん。意思が通ずるのは観音力に溢れる結城の姫と……乳を飲ませて育てたお前だけ」


「俺ならば遮那王の考えが伝わる」


其の時、血の後を辿り、敵を追跡していた雪白が戻ってきた。蒼王丸はしばし、息を切らせて戻った雪白と、見詰め合っていたかと思うと、その目を見つめて頷いた。


「そうか、ご苦労だったな雪白、流石だな、良い鼻だ。爺さん、雪白が敵の一行を見つけた。確かに娘を一人背負っていたらしい。だが、遮那王の姿は見えず、匂いすら残っていなかったと言っている」


「遮那王はおらなんだか……雪白の鼻を持ってしても行方がわからなくなってしまったのか……遮那王よ……此れは……、思うた以上にやっかいかもしれん……人知を超えた力が働いているやも知れぬ。結城の巫女姫は代々妖怪退治や悪鬼調伏を努めていたとも言われておる。急がねばならぬ、蒼王丸……結城の里に、何かが起きておる。遮那王と姫様を探し出し、話を聞けっ、 結城の城で何が起こっておるのか。そして、姫様をきっとお助けするのじゃっ」


「人知を超えた力……へ、へへへへへ――」


蒼王丸の大きな体躯が、小刻みに揺れる。


「なんじゃ、震えておるのか」


「へ、へへへへへちげぇよ爺さん、こいつぁな…こいつは…武者震いよ」


「武者震い?やれやれ、どこまでもうつけものよ……」


「お山で修行だ留守番だと、飽き飽きしていた所でぃっ。妖怪変化も上等じゃねぇの、鬼が出るか蛇が出るか!姫さん助けて悪鬼調伏と洒落込もうぜっ。――そうゆうこった、雪白、紅蓮、俺は行くぜ!」


蒼王丸が飛び出すのを目で追うとと残された紅蓮、雪白が早雲を振り返って小さく鳴く。


「よい、よい。わしは大丈夫じゃ。紅蓮の薬が良く利いた…あいつの手当てもまずまずじゃ…行っておいで。蒼王丸を頼んだよ」


任せろといわんばかりの遠吠えが、森の中を響き渡る。

      

蒼王丸の後を追い、風を切って森を駆け抜ける二頭の若い狼達。

       

其れを背中で感じてにやりと笑う蒼王丸もまた一頭の狼のように走り続ける。

           



「あれか……」


深山の獣道。


古木の杉の高枝に立ち、遠くを見る蒼王丸。

       

下には、雪白、紅蓮の二頭が控えている。

       

蒼王丸の視線の先には、数人の人影が、獣道を足早に古木のほうへと向かっていた。

       

黒尽くめに虫の様な触角のついた奇妙な面……。

       

薄気味悪い風体で、その内の一人は肩に若い娘を担いでいる。


「雪白の言ったとおりか…ひい、ふう、み……と…六人か、爺さん頑張ったじゃねぇの。ふん、ふんふん……確かに遮那王の臭いがしねぇ…妖術にでもくらまされたか……しゃぁねぇ、まずは…姫さんか…。ゆくぞっ」


言うが早いか、枝より飛び降り、怪しい集団の前へと躍り出る蒼王丸と狼たち。


「待て待て待てぇ~いっ!ちょーっと待ったぁ! そんなに急いで何処行くんでぇっ、ご一行さんよぉっ。女かついで忍び装束……絵に描いたような拐かしだなぁ、お前らっ」


通せんぼといわんばかりに、両手を広げて仁王立ちする蒼王丸。

       

引き締まった筋肉が隆々と、脈打つ熱い血潮が流れる血管を浮き立たせている。

       

大きく広げた掌には大きな傷跡が見える。

       

爛々と光る双眸が怪しい忍びを捕らえると、まるで嬉々として獲物を前にする獣のように光る。


「よぉ、爺さんが…いや、早雲が世話になったようだなぁ。其処に担いでいるのが、結城の姫さんか…その刀に付いている三日月の刻印。おめぇら、本当に結城の忍びなのか結城の忍の癖しやがって、いってぇどういう了見だ。てめぇの国の姫さんを拐かすたぁいい度胸じゃねぇの。だがよ、生憎だがここぁ、遮那王の一族が護る深山だ、好き勝手させるわけにはいかねぇなぁ」


遮那王の名前を聞いて、忍び共が示し合わせたかのように、くくくと嘲笑う。

       

母である遮那王の名を嘲られ、鼻にしわを寄せ狼達は低く構える、鋭い牙をむき出しに、忍びたちを威嚇する。


「趣味の悪い面なんざつけやがって……くあぁ~やだねぇ……洒落てると思ってんだろうが、まったくだめだ……第一粋じゃねぇっ。これだから、おりゃぁ、茗荷みようがと忍びがでぇっきれぇなんだよ。面の中身はどうせ空っぽだ。剥いても剥いても、おめぇらの中身なんて、どれも同じ、からっぽだぁっ。自分てものがねぇなんてよぉ、死んでいるのと変わりがねぇぜ。おりゃぁそんなの御免だね」


冷たく小さな金属音が蒼王丸の耳に聞こえる。

       

じりじりと、地面を踏みしめ、刀の鍔を押し上げる忍びたち。

       

辺りに立ち込める殺気の渦。

       

蒼王丸は、目を伏せて俯く顔で一瞬、かに笑うと静かに、頭を振って、顔をあげた。

       

「此れから向かう死出の旅に……」


少しずつ、距離を縮める忍びたちの後ろに、姫を背負う一人が静かにその姿を被せる。

       

雪白も紅蓮も、鼻に皺を寄せて唸りながら鋭く牙を剥いて微動だにしない。


「誰に切られて死んだのか…名めぇも知らずじゃ気の毒だ…良いか……良く聞け俺様こそは、此の山の護り手にして主、狼王遮那王の息子、蒼王丸様だぁ。無駄な殺生はしたくねぇ。命が惜しけりゃその背にしょった姫さん置いて、とっとと山を降りやぁがれ。手向かいするやつぁ、一人残らず斬って捨てるっ、束になってかかってきやがれ!」


その言葉が終わるか終わらぬうちに、二人の忍びが蒼王丸めがけて斬りかかってきた。

        

にやりと笑って背中の刀を抜くが速いか、斬りつけてきた二人は声を上げる間もなく崩れ落ちる。


「行儀のわりぃやつらだぜ。躾けてくれる親もいなかったってかぁ?人の話はな……仕舞いまで聞けつぅんだよ!」


姫を担いだ忍びが、戦いからはなれて逃げ出そうと走り出す。蒼王丸の周りを三人の忍びが取り囲む。


「紅蓮、いけっ。此処は良い、雪白、おめぇも行きな」


娘とはいえ、人一人、担いでいるとは思えぬ速さで走る忍び。とはいえ、二頭の狼に敵う訳も無い。

        

追いつきまわりこむ紅蓮。

        

後ろには雪白。


「ぐっ、ぐぅぅ」


牙を剥き出した二頭の大きな獣に見据えられ、娘を担いだ者は、一歩一歩と後ろに下がってゆく。

        

が、今度は狼達がゆっくりとその周りを歩き、前に狼、後ろに崖と、最早逃げ場がない。

        

血に濡れた刀を一振り振って血を払い、ゆっくりとその場へ近づいてくる蒼王丸。


「そらそら、後がねぇぜ。さぁて、どうするよ?」


蒼王丸に切っ先を向けられ、背にしょっていた娘を地面へ投げ出すと、最早此れまでと、決死の勢いで下から切り上げる忍び。


「遅せぇ、遅せぇ。蝿が止まるぜ」


嘲られようとも、まるでカラクリの如く次から次へと刃を繰り出すが、ことごとく鼻先でかわす蒼王丸。

        

喉を狙おうと突いて来たその一瞬を、蒼王丸は逃さなかった。

        

忍びの腕を取って力の限りにねじ上げる。


「へっへぇ。捕まえたぜ?さぁ、キリキリ白状しやがれ、誰の差し金だ、遮那王はどうした!」


奇妙な面の牙の生えた口元から紅の血筋が流れる。


「ちっ、舌を噛みやがったか…まぁ、そりゃそうか、忍がベラベラ喋るわきゃぁねぇわな。なぁ?」


雪白に笑いかける蒼王丸。

        

紅蓮は、打ち捨てられた娘の傍で、しきりに匂いをかいでいる。


「ん?どうした? 紅蓮」


しばらくフンフンと嗅いでいた紅蓮が、いきなり地面に仰向けに転がり背中をしきりに擦り付けている。


「なんだなんだぁ、まるでマタタビ貰った猫みてぇじゃねぇの」





所は変わってこちらは結城藩、月光城天守閣。


「遅いっ、えぇい、遅いのぅ……姫はまだか、遮那王はまだかっ! くぅぅっ、左目が疼きよるわ」


声の主は 此の城の藩主、結城弾正である。

        

豪奢な出で立ちに青白い顔、だが眼光鋭く滑らかな肌は幾分、若返ったように思える。

        

左目に巻かれた包帯に赤黒い血が滲み込んで、まだ鮮やか新たに血を滲ませている。


それを苦々しく手で押さえ、恨みがましい声で呟く。


「観音力のこもった、水晶の数珠にて受けた傷…おのれ…中々治らぬわ、忌々しいっ」


「殿っ!ただ今遮那王到着いたしました!」


「おおっ! でかしたっ! すぐに見たい、庭に引き立てよ」


「ははっ」


「いかな観音の僕の狼王といえども所詮は獣……人の手によって作られた薬は良う効くとみえる。遮那王め、手間取らせおって.. …だが良い……最早手の内。次は姫じゃ、結城の最後の姫、桔梗。其れも直ぐに手に戻る……待ち遠しいのぉ。これで我が世も安泰じゃ……クックック」


城中。中庭に据え置かれた巨大な八角形の檻。


その中には大きな蒼い毛並みの獣がぐったりと横たわっている。


「ふぉふぉふぉ。眠っておるわ。ケダモノめ」


瞬間、獣の体がビクンと痙攣した。驚き、弾正は素早く飛び退く。


「ぬぉっ! しゃ、遮那王めっ、脅かしおって……」


怒りに任せて檻を蹴る弾正。中で眠る紅蓮たちより、一回りは大きかろうと思える獣は、狼の王遮那王であった。


薬で体の自由を奪われ、ぐったりと横たわっている。


「く、薬はまだ、効いておるのか?」


「はっ、此のまま夕刻まで目覚めぬかと」


「よ、よし」


弾正は檻に入っていき、遮那王の傍に屈む。


案じた家臣が声を上げる。


「と、殿っ」


うろたえる家臣を尻目に、にやにやと薄気味の悪い笑いを浮かべながら顔を揺らし遮那王を窺う弾正。


「ふ、ふふふふふふ…」


そして、いきなりたてがみを引っ掴んだかと思うと、がばり、と耳まで裂ける程大口を開けた。


「殿っ!?」


口からチロチロと先割れた細い舌を見せながら、遮那王の太い首にがっつりと喰らい付き、流れ出る血を啜っている。

        

側で見ていた家臣たちはその姿に肝をつぶし、うろたえ逃げようとするが腰が抜けてしまって立つ事もできない。


「う、うわぁぁ、化け物、化け物だぁぁ」


異変に気づいて他の家臣たちも口々に叫びながら抜刀してゆく。


「者共、お出会い召されっ!、殿ではないっ、こやつは……化け物じゃっ」


「出会え、出会えおろう!」


叫ぶものはいずって逃げ惑うもの……。城中は阿鼻叫喚の地獄絵図と化す。

        

叫び声に次々と、家臣たちが中庭に集まってきては皆揃って剣を抜き、檻の中の弾正を取り囲む。

        

だがその背後から、既に弾正の牙により眷属と成り果て、魔物と化した侍共が正体を現し、嘗ての同胞に牙をむいて襲い掛かる。


「ぎゃぁぁ!」


「うわぁぁっ!」


おぞましいのは、襲われ、血を啜られた者が一度は倒れ、事切れたかと思うと、また揺ら揺らと立ち上がってほかの者を襲い始める。


そうやって増える魔物の数に圧倒され、とうとう家臣は一人残らず化け物と化した。


侍、女中、一人も残す事無く……。


狂乱の宴の最中、弾正は周りの騒ぎに眉一つ動かさず、啜る……というよりはゴクゴクと音を立て遮那王の血を飲み続けていた。

        

やがて、身体中の血潮を吸い尽くしたかと思うと牙を抜き、顔を上げて遮那王をその手より放し、左目の包帯をゆっくりとはずす。

        

其処には醜くあったはずの傷が跡形も残ってはいない。だが、左目は白く濁って鈍い光を放っている。


「ふぅ……。流石は狼王、思った通りじゃ。 やはりお前の血は精がつくのぉ。百年ぶりの目覚めで、衰えていた我が妖力も戻り、美月に付けられた傷も……ほれ、此の通り大分癒えた。身体に力が漲って(みなぎって)きよるわ。だが、まだじゃ、まだ足りぬ…」


恐ろしく裂けた口の端より、啜った遮那王の血を垂らしながら呟く弾正の前に、ゆらりと遮那王が立ち上がる。


「遮那王よ……。我が牙を受け、キサマは最早、我のしもべよ……。生くるも、死ぬるも思うが侭……。ふふっ、ふふふふふ……。我を脅かす者はもうおらぬ。後は桔梗を手に入れるのみ……。さぁ、ゆけぃ遮那王よ。一人たりとも逃すでないぞ。月光城の隅から隅まで駆け巡り。侍、女中、老若男女あらゆる生きとし生けるものを牙にかけ我が眷属で城を満たすのじゃっ!」


轟く雷鳴の様な雄叫びを高く上げると、遮那王は闇の中へと駆けて行った。


「地割れにて封印が解け、最初の日に得た桔梗の母、美月の血。百人の血を啜ったが如く、我に力を与えよった。さてもさても、あの姫の血の力が如何程の物か楽しみじゃ…父は全くの役立たずじゃったからのぉ…ふ、ふふふ、はははははっ、はーっはっはっは!」


――月明かりに映え、暗闇に聳え立つ月光城に、最早誰一人、人の子は存在しない――










             
























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