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Chapter2:巨匠とマルガリータ 運命に定められた Ⅲ

列車が黒々とした煙を吐きながらコンスタンツ駅に滑り込んだ頃には、すでに正午を過ぎていた。

ここが最後の停車地であり、ここから先はスイス領へと入る。

そこまで行けば――カスタリまでは、もう一時間もかからない。

一行は、駅のすぐ近くにある食堂で昼食を取ることにした。

だが二人の護衛は、巨匠の誘いを辞退する。

先にカスタリへ戻り、今回の外出で出席した会議の報告と、新たに迎えた弟子の件を伝えるためだ。

こうして、食堂には巨匠とマルガレットの二人だけが残った。

「何を食べる?」

巨匠はメニューに目を落としたまま、ふと問いかける。

「シュヴァイネハクセとザワークラウトがおすすめだけど……ああ、そういえば」

一瞬だけ視線を上げる。

「あなた、もともとドイツ人だったわね。今さら珍しくもないかしら?」

「えっと……まあ、そうですね。普段あまり脂っこいものは食べないですけど」

マルガレットは少し言いよどみながら答える。

彼女は護衛から借りた男物のコートを羽織り、その下に着ているメイド服を隠していた。

「じゃあ、私の好みで頼むわね」

そう言って、巨匠は給仕の方へ向き直る。

「クリームスープに、焼きソーセージ。それとケーゼシュペッツレを一つ」

給仕は満足げに頷き、その場を離れていった。

「……ねえ、それ一人で食べきれるの?」

思わずマルガレットが口にする。

「残ったら、あなたが食べればいいでしょう?」

巨匠は特に気にした様子もなく、さらりと言った。


「そういえば……あの人たち」

マルガレットは隣のテーブルに視線を向ける。

そこには、護衛とよく似た――白地に金の装飾が施された制服を着た数人の客が座っていた。

「あの制服、護衛と似てるけど……あれもカスタリの人なの?」

「ええ、そうよ」

巨匠は特に気にした様子もなく答える。

「ここはカスタリに近いから、多くの関係者が中継地として利用しているの。だから、ああいう人たちを見かけても珍しくはないわ」

「なるほど……」

マルガレットは小さく頷いた。

「それで――」

不意に、巨匠が言葉を継ぐ。

「決めたのかしら、マルガレット」

「え?」

「ここを過ぎれば、もう後戻りはできないわ」

淡々とした口調だった。

「逃げるなら、今が最後の機会よ」

「……なんか、まるで私を誘拐してきたみたいな言い方なんだけど」

マルガレットは呆れたように肩を落とす。

「んー……」

巨匠はわずかに首を傾げ、本気で考えるような素振りを見せた。

「大差ないかもしれないわね」

「そこ否定しないの!?」

思わず声が上ずる。

巨匠はそんな反応を気にも留めず、ただ静かに続けた。

「それで? 私についてくるの?」

「……う」

言葉に詰まる。

勢いのまま、ここまで来てしまった。

けれど――

(これって、本当に……私が望んだことなの?)

胸の奥に、わずかな違和感が広がる。

この先に待っているものは、自分で選び取った未来なのか。

それとも――もう、自分の手を離れてしまっているのか。

カスタリ。

新聞で断片的に知るだけの場所。

巨匠。

出会ってまだ半日も経っていない、ほとんど他人のような存在。

(……私、やっていけるの?)

新しい環境に、適応できるのか。

そう考えた瞬間――

別の選択肢が、ふと頭をよぎる。

(……じゃあ、戻る?)

孤児院へ。

(それが……正しいの?)

答えは、まだ出なかった。


マルガレットが答えを出せずにいる、そのときだった。


「よっ!」


不意に、軽快な声が割って入る。


振り向く間もなく――

カスタリの制服をまとった少女が、ずかずかと近づいてきた。


「こんなところで会うなんてね!」


そのまま遠慮なく、巨匠の肩をばん、と叩く。


「久しぶり。てっきりもう死んでるかと思ってたよ」


「……え?」


あまりにも軽い口調に、マルガレットは思わず固まる。


(いま、“死んでる”って言った……?)


「――ああ、あなたね。クラウディア」


巨匠は特に驚いた様子もなく、視線だけを向けた。


「カスタリの外で見かけるなんて珍しいわね。二十一になる前に、ようやく学会回りの仕事を回してもらえるようになったのかしら」


淡々と続ける。


「おめでとう。もっとも、私は三年前から同じことをしていたけれど」


「はっ、相変わらず口が減らないね」


クラウディアは舌打ちし、肩をすくめる。


「まあいいさ。どうせそのうち、あたしも巨匠になるし」


「ええ、楽しみにしているわ」


巨匠は軽く頷いた。


「その頃までに、カスタリがまだ存在していれば、だけれど」


空気が、わずかに軋む。


(……なんか、空気おかしくない?)


マルガレットは二人のやり取りに、うっすらとした違和感を覚えた。


「ん?」


クラウディアの視線が、こちらへ向く。


「で、その子は?」


「え、あ……その……」


不意に注目され、マルガレットは言葉に詰まる。


「マ、マルガレット……です」


「へえ~」


クラウディアはじろじろと観察するように見つめる。


「もしかして、邪魔しちゃった? 二人でデート中とか?」


「で、デート!?」


思わず声が裏返る。


「ち、違います! そういうのじゃなくて――というか、そもそもそういう関係じゃ……!」


「じゃあ何?」


「えっと……その……」


一瞬迷ってから、言い切る。


「私は、この人の弟子です」


「……は?」


クラウディアが一瞬、固まる。


次の瞬間――


「ははっ……はははははっ!!」


爆発したような笑い声が、食堂に響いた。


あまりの大声に、周囲の客が一斉にこちらを振り向く。


「弟子!? あんたが!? はははっ……マジで言ってる?」


腹を抱えながら笑い続ける。


「……え?」


マルガレットは完全に置いていかれていた。


「な、何が……そんなにおかしいの?」


「いやだってさ……」


クラウディアはようやく笑いを収める。


だが、その口元にはまだ笑みが残っている。


「“また”弟子を取ったんだなって思って」


「……“また”? それ、どういう意味……?」


「なるほどね」


クラウディアはちらりと巨匠を一瞥する。


「まだ何も聞かされてないってわけか。かわいそうに」


そして、すっとマルガレットの背後に回ると――


さっきと同じように、ぽん、と肩を叩いた。


「いい? よく聞きな」


そのまま、向かいに座る巨匠を指差す。


「目の前にいるこの人はね――カスタリでも有名人だよ」


「それは知ってます……最年少の巨匠、ですよね?」


「いやいや、それだけじゃない」


クラウディアはわざと声を落とす。


「もっと有名な理由がある」


一拍。


そして――


「この人、“殺し”やってるから」


「……え?」


思考が、止まる。


(ころし……?)


意味が、すぐには理解できない。


マルガレットは、ゆっくりと巨匠の方を見る。


しかし――


巨匠は何も言わない。


ただ、テーブルの上のナイフとフォークに視線を落としたまま。


否定もしなければ、訂正もしない。


まるで――それを受け入れているかのように。


「この人はね、確かに天才だよ」


クラウディアが、淡々と続ける。


「だから学院も特例を認めた。巨匠になる前から、弟子を持つことを許された」


「その子の名前は、アンナ」


ゆっくりと、言葉を重ねる。


「ある父親に頼まれてさ。娘を育ててほしいって」


一瞬の間。


そして、冷たく言い放つ。


「――で、その結果がこれだ」


「目の前の巨匠が、自分の弟子を地獄に突き落として――」


「殺した」


「そ、そんな……あり得ない……」


マルガレットは首を振る。


「どうして、そんなことを知ってるの……?」


「やっぱり、何も聞かされてないんだな」


クラウディアは小さく肩をすくめた。


「改めて名乗っとくよ。クラウディア・シュトラウス」


軽く顎で向かいを指す。


「そこの傲慢で自意識過剰なやつの――元ルームメイトだ」


「……」


「カスタリでこいつを一番よく知ってる人間は、師匠を除けばたぶんあたしだ」


一歩、マルガレットに近づく。


「だから忠告してやる。もしあたしを少しでも信じる気があるなら――」


声を落とす。


「そいつからは離れた方がいい。危険だからね」


そのまま、今度は巨匠の方へ歩み寄る。


「で? また見つけたのかい。都合のいい“実験材料”を」


皮肉げに笑う。


「それとも、アンナのことが引っかかってて――新しい“身代わり”でも用意した?」


さらに一歩踏み込む。


「それとも、それもあんたの“自己満足”の一部?」


「……」


巨匠は、何も答えない。


「はは……やっぱりね」


クラウディアは軽く手を振った。


「誰にも分からないよ。あんたの中身なんて」


そして、最後に一言。


「さすがは“天才”ってやつだよ――アルビオン」


その名を残し、クラウディアはそのまま店を出ていった。


「……アルビオン?」


マルガレットは呟く。


どこかで聞いたことがある名前だった。


「それが……あなたの名前なの? 巨匠」


「……」


沈黙。


だが、それは否定ではなかった。


「――あ」


次の瞬間、マルガレットははっと目を見開く。


「思い出した……!」


勢いよく立ち上がる。


「アルビオン……アルビオンって、もしかして――私と同じ孤児院にいた……!?」


「今朝、あなたが来たあの場所……!」


記憶が一気に繋がっていく。


「あのとき、巨匠が一人の子を連れていった……その子の名前が――」


「アルビオン、だった」


「……よく覚えていたわね」


静かに告げるその言葉が、何よりの肯定だった。


「でも……」


マルガレットは目の前の少女を見つめる。


雪のように白い長い髪。


「違う……私の知ってるあなたは……黒髪だったはず……」


「ええ」


アルビオンは自分の髪の一房を指先で弄ぶ。


「これが――さっき彼女が言っていたことよ」


淡々と。


「“人を殺した代償”」


「……っ」


マルガレットの力が抜ける。


そのまま、椅子に崩れ落ちるように座り込んだ。


「じゃあ……本当に……?」


かすれた声。


「あなた、本当に……人を殺したの……? アルビオン……」


「怖い?」


アルビオンは問い返す。


「マルガレット。あなたは――私を恐れる?」


「……」


言葉が出ない。


どれくらい、会っていなかったのか。


十年前。


孤児院で、いつも一緒にいたあの頃。


(あのアルビオンと……同じ人なの……?)


目の前の少女は、カスタリの巨匠で。

天才で。

そして――弟子を殺した存在。


答えは、出ない。


けれど――


その沈黙自体が、答えだった。


「……そう」


アルビオンは小さく頷く。


「では、選びなさい」


静かに、だが逃げ場のない声で。


「私と来て、カスタリで弟子になるか」


一拍。


「それとも、ここで別れて――元の場所へ戻るか」


「わ、私は……」


思考が追いつかない。


だが――


アルビオンは待たない。


「――もう、答えは出ているようね」


そう言って立ち上がる。


そのまま、一人で立ち去ろうとする。


「待って!」


反射的に、手が伸びた。


ぱしっ、と音を立てて――

マルガレットはアルビオンの手首を掴む。


予想外だったのか、アルビオンの動きが止まる。


「……何?」


「待って、ください……!」


息を整えながら、必死に言葉を繋ぐ。


「さっきの質問……今は答えられません」


正直に。


「というか……あなたがどんな人なのか、まだ全然分からない」


少しだけ、握る手に力が入る。


「でも――」


視線を上げる。


「それでも、私はあなたを信じたい」


はっきりと。


「だから、一緒に行きます。カスタリへ」


「あなたの弟子になります」


「そして――あなたのそばで、ちゃんと考えます」


静寂。


「……信じるのね」


アルビオンが、静かに問う。


「カスタリの巨匠だから?」


「違います」


マルガレットは首を振る。


迷いなく。


「あなたが――私の友達だからです」


「アルビオン」


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