Prologue 巨匠とマルガリータ 運命に定められた Ⅰ
「人はそれぞれの信仰に応じて、受け取るべきものを受け取る。」
——ミハイル・ブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』
薄く霞んだ視界の中で、マルガリータがようやく目を開けた、その直後だった。
けたたましいノックとともに、執事の叱責が扉越しに響く。
「マルガリータ、起きなさい!」
「今日は大事なお客様がいらっしゃる。身支度を整えたら、庭の生け垣もきちんと刈っておくように」
「……大物、ね」
小さく呟きながら、マルガリータは身を起こした。枕元に置かれた騎士小説が目に入る。
昨夜の寝不足の原因だ。けれどその代わりに、いい夢を見た。
白馬に乗った騎士が、自分をこの退屈な孤児院から連れ出してくれる――そんな夢を。
この孤児院は、フランクフルトでも最大規模を誇る施設だ。院長が自らの邸宅を改装して作り上げたもので、かつて仕えていた使用人たちも、そのまま職員として働いている。
マルガリータもその一人だった。
七歳でここに引き取られ、十二歳で院長に召し抱えられ、使用人として働き始めた。気づけば、もう五年が経っている。
彼女はメイド服に袖を通し、鏡の前で、クラゲのように揺れる淡い桃色の長髪を整える。
そして最後に、左目へ白い眼帯を当てた。
先天的な疾患により、強い光を受けることができない。
そのため普段は片目で生活しているが、いつの間にか、両目で見る者よりも素早く、正確に動けるようになっていた。
――それも、ここに置かれている理由のひとつなのかもしれない。
扉を開けると、同じメイド服に身を包んだ少女が立っていた。
「おはよう、小マリー」
同い年ほどのその少女――カトリーナは、にこやかに手を振る。
「おはよう、カトリーナ……ふぁ……眠い……」
「しっかりしなきゃダメよ。執事さんから聞いた? 今日は偉い人が来るって」
「聞いた聞いた。あんたに借りた本のせいでね」
「え、もう読んだの?」
「一気に読まずにいられる?」
二人は並んで寮を出る。
「……で、私の白馬の騎士は、いつ迎えに来てくれるのかしら」
「はいはい、夢見てないで現実見なさい」
軽口を交わしながら、二人は庭の一角にある物置へ向かい、掃除道具を手に取る。
「それとも、ここでの生活、嫌い?」
「うーん……ちょっとだけ。私たち、もう十七でしょ? あと半年で十八よ。なのに、フランクフルトの外にすら出たことないんだから」
「冒険なんて、小説の中だけで十分よ。私は、ここで穏やかに過ごすのも悪くないと思うけど」
「で、その“大物”って何者なの?」
マルガリータは園芸ばさみを手に取りながら言う。
「まさかヴィルヘルム二世とか?」
「それならこんな規模じゃ済まないわよ」
カトリーナは苦笑して続けた。
「カスタリ学院の“巨匠”が来るらしいわ。生徒を選びに」
「カスタリ学院……?」
「知ってる?」
「少しだけ。スイス北部にある、世界最高峰の学術機関……でしょ。巨匠は、その頂点にいる存在」
「そう。でもあそこは普通に入学できないの。全部、巨匠が直接選ぶのよ。選ばれた子は、まさに“選ばれし者”ってわけ」
「でも、対象は小さい子だけでしょ。六、七歳くらいの孤児で、しがらみのない子。私たちじゃ、もう遅いわ」
「小マリーって、たまにおばさんみたいなこと言うわよね」
「ほっといて」
軽口を交わした後、二人はそれぞれの持ち場へと散っていった。
マルガリータは、生け垣の前に立つ。
しばらく手入れされていなかったらしく、枝葉は好き放題に伸びている。
ここは子どもたちの遊び場でもある。刈り込みすぎれば不満が出る。
仕事は好きではないが、子どもたちのことは嫌いではなかった。
――自分も、かつてはその一人だったのだから。
ふと、さっきの会話が頭をよぎる。
昔、この孤児院から一人の子どもがカスタリへ連れていかれたことがあった。まだ自分が幼い頃だ。
仲の良かった子だった。
名前が、思い出せない。
「……なんて名前だっけ」
ぼそりと呟きながら、はさみを動かし続ける。
やがて――
「ふぅ……終わった」
背筋を伸ばし、額の汗を拭ったそのときだった。
視界の端に、白いものが揺れる。
風にたなびく、長い白髪のポニーテール。
一瞬、夢の続きかと思った。
白馬の騎士が迎えに来たのだと。
だが違った。
それは馬ではなく――一本のブナの木の下に立つ、一人の少女だった。
年の頃は、自分とそう変わらない。
淡い青の瞳は透き通るようで、長いまつげが影を落としている。黒縁の丸眼鏡が、知的な印象を際立たせていた。
ブラウンのバルマカーンコートに、ベストと白いシャツ。
下は制服のような濃色のスカート。チェックのキャスケットが白髪を覆い、その下から一本の長いポニーテールが流れ落ちている。
――紛れもない、美人だった。
見惚れていたマルガリータの手から、はさみが落ちる。
「……ん?」
音に気づいた少女が視線を向ける。
「こんにちは」
「あ、えっと……こ、こんにちは」
言葉がうまく出てこない。
「あなたは?」
「通りすがりだよ。……ここで働いているの?」
「は、はい。掃除とか……子どもの世話とか……」
自分でも何を言っているのか分からなくなる。
「似合ってる」
さらりと言われ、マルガリータは言葉を失う。
「名前は?」
「マルガリータです」
反射的に答えていた。
「マルガリータ……」
少女はその名を繰り返し、わずかに思案する。
「年齢は?」
「十七歳。1895年生まれ。ケルン出身です」
いつもの決まり文句が口をついて出る。
「……そう」
少女は一歩近づき、マルガリータの顔を覗き込んだ。
「その目は?」
「これですか。光に弱くて」
「なるほど」
短く頷くと、少女は背を向ける。
「では、良い一日を。マルガリータ」
「あの……!」
思わず呼び止めていた。
「名前……教えてもらえますか?」
少女は振り返り、唇の前に指を当てる。
「さあね。秘密、ということで」
少女の姿は、角の向こうへと消えていった。
まるで、先ほどの出来事など初めから存在しなかったかのように。
あの神秘的な少女もまた、どこにもいなかったかのように。
マルガリータは、再びひとりへと戻る。
ただ呆然と、その山毛欅の前に立ち尽くしていた。
その木は、彼女の記憶を静かに呼び起こす。
幼い頃、彼女はよくここで友と並んで座り、互いの秘密を打ち明け合った。
あるいは、物語の中の御伽話を、飽きることなく語り合ったものだった。
マルガリータが呆然と立ち尽くしていると、背後から声が飛んだ。
「マルガリータ!」
カトリーナが入口から手を振っている。
「巨匠がもう来てるって。使用人も全員、選抜の場に立ち会うようにって」
「え? どうして?」
「院長もいらっしゃるから、いつでも動けるようにってことみたい」
「はいはい……」
マルガリータは頭をかきながら、カトリーナと並んで建物の中へ戻った。
孤児院の二階には、広い教室がある。
普段は子どもたちが授業を受ける場所だが、今日はそのまま選抜の会場になっていた。
「失礼します」
カトリーナが小声で言い、扉を開ける。二人は中へ入った。
室内にはすでに人が集まっていた。
執事や使用人たちは壁際に控え、院長は別の位置に座っている。
子どもたちは一列に並び、静かに選ばれるのを待っていた。
「……巨匠はどこ?」
マルガリータが小声で執事に尋ねる。
「ほら、あそこだ」
指し示された先――列の最前列に立つ人物を見て、マルガリータは息を呑んだ。
その傍らには、白地に金の装飾を施した制服を着た男たちが控えている。おそらくカスタリの随員だろう。
だが、問題はそこではなかった。
――巨匠。
その人物こそが。
先ほど庭で出会った、あの少女だった。
(あの子が……巨匠?)
信じられない、という思いが胸を占める。
巨匠といえば、もっと年長の人物を想像していた。少なくとも四十、五十は超えているような。
だが目の前にいるのは――どう見ても、自分と同年代の少女だった。
「申し訳ありません、院長先生」
随員の一人が口を開く。
「今回、合格者はおりませんでした」
すでに選抜は終わっていたらしい。
「そんな……巨匠、どの子も優秀です」
院長はなおも食い下がる。
そのときだった。
「はっきり言いましょう」
少女――巨匠が、静かに立ち上がる。
「残念ですが、ここにいる子どもたちの中に、カスタリで学ぶに足る者はいません」
その言葉に、空気が凍りついた。
「無理に学術へ向かわせるよりも、相応しい場所で、相応しい時間を過ごすべきです。――子どもには、子どもの時間がありますから」
(……言い方ってものがあるでしょう)
マルガリータの胸に、じわりと熱が滲む。
子どもたちの表情が曇っているのが見えた。
選ばれる意味を完全には理解していなくても、“選ばれなかった”という事実は、確かに伝わっている。
「ですが……」
院長がなおも言い募ろうとした、その瞬間。
「それが事実です」
巨匠は言葉を遮った。
「才能がないことは罪ではありません。しかし、適性のない道を強いることは、ただの暴力です」
(……半端者、みたいな言い方して)
堪えきれず、マルガリータは小さく舌打ちした。
「……別に、大したことないじゃない」
ほんの呟きのつもりだった。
だが、その瞬間――室内は奇妙な静寂に包まれていた。
声は、はっきりと響いた。
「……今、何か言ったか?」
随員の一人が鋭く振り向く。
「小マリー!?」
カトリーナが慌てて袖を引く。
マルガリータも口を押さえたが、もう遅い。
視線が一斉に集まる。
「あなたか」
巨匠が言った。
「マルガリータさん。何か意見でも?」
周囲がざわつく。
「え、巨匠が知ってるの……?」
執事が肘で小突き、「黙っていろ」と合図する。
だがマルガリータは――もう止まれなかった。
「……私はただ」
一歩、前に出る。
「そんな言い方をするべきじゃないと思っただけです」
室内が息を呑む。
「子どもたちは、選ばれるための“物”じゃありません。才能がないと決めつけて、未来まで否定するなんて……それは、あまりにも――」
言葉を選びながらも、視線は逸らさない。
「――不遜だと思います」
「大胆だな」
随員が怒声を上げる。
「この方が誰だかわかっているのか! 七歳で選ばれ、十五で巨匠に至った、史上最年少の――」
「やめなさい」
巨匠が一言で制した。
静寂。
彼女はゆっくりと歩み寄り、マルガリータの目前に立つ。
レンズ越しの視線が、真っ直ぐに射抜く。
「……続けて」
その声は静かだったが、逃げ場はない。
「まだ七歳です。人生は始まったばかりです」
マルガリータは言った。
「今だけで判断するなんて、早すぎる。あなたが見抜けなかっただけで、未来で花開く子だっているかもしれない」
一瞬の沈黙。
「……つまり」
巨匠はわずかに口角を上げる。
「私が間違っている、と?」
「はい」
言い切った。
「なら――証明してもらおう」
「……証明?」
「あなたの言う通りだと」
巨匠は一歩、さらに近づく。
「才能がなく見える者でも、未来で何かになれると」
その瞳が、わずかに細められる。
「あなた自身で」
「え……?」
理解が追いつかない。
その瞬間――
彼女はマルガリータの左手を取った。
そして。
宝石の嵌め込まれた指輪を、薬指に滑らせる。
「な……」
周囲がどよめく。
巨匠は、その手を高く掲げた。
同じ指、同じ位置に――彼女自身も、同じ指輪をしている。
「宣言する」
光を受けて宝石が輝く。
「マルガリータを、私の生徒とする」
ざわめきが爆発した。
「今この時より、私は彼女の師となる」
その一瞬、彼女は確かに思った。
自分は夢に見た白馬の騎士と出会ったのだ、と。
ただ――その兜の下にあったのは、
自分とさほど変わらぬ年頃の、ひとりの少女の顔だった。
それから幾年もの後。
マルガリータは、あの朝のことを幾度となく思い返すことになる。
本来なら、何事もなく過ぎていくはずだった、あのありふれた朝を。
院長と執事の、あの驚きに満ちた表情を。
子どもたちの、驚きと歓声とを。
そして傍らで、この一幕をまるで茶番でも見るかのように、歯噛みしながら見つめていた随員たちの姿を。
窓の外で揺れていた山毛欅の影を。
風に梳かれていた、あのかすかなざわめきを。
指に残った、あの指輪のひややかな感触と――
巨匠の掌に宿っていた、確かなぬくもりを。
そのときの彼女は、まだ知らなかった。
それがやがて、自らの一生において、かけがえのないものとなることを。




