なんということもない手紙の活用方法 ~あるいは、ある元公爵令嬢の経済的自立~
秋の風が、学術と商工業の都・自由都市ヴェルゼンの街角を涼やかに吹き抜けていく。
石畳の道を歩く女性、イザベルの足取りは軽い。
かつて公爵令嬢として、重苦しいドレスの裾を気にしながら王宮の廊下を歩いていた頃の面影は、その美しい表情くらいしか残っていなかった。
今の彼女は、実用的なシャツとスラックスに身を包み、腕には経済学の資料を抱えた一人の「学生」であり、また「投資家」であった。
彼女が住むアパートメントのポストには、今日もまた一通の封書が届いていた。
上質な羊皮紙に、見覚えのある傲慢な筆致。
隣国の王太子エリオットからのものだ。
イザベルは事務的に封を切り、カフェのテラス席で目を通す。
『……イザベル、君の沈黙はもう十分だ。クロエとのことは、若気の至りによる一時の迷いに過ぎない。彼女の嘘に騙されていた僕は、ある意味で君以上の被害者なんだ。ようやく目が覚めたよ。僕が本当に愛していたのは、いつも僕の隣で完璧に振る舞っていた君だったんだ。さあ、僕を許して王都へ戻ってきなさい。君も、僕という最良の伴侶を失って寂しい思いをしているのだろう? 王太子妃の座を空けて待っている。君の義務は、僕を支え、愛することだ……』
イザベルは、ふっと短く笑った。
その笑みには、悲しみも恨みも含まれていない。
ただ、救いようのない愚かさを眺める、冷徹な観測者の目がそこにあった。
二年前、王宮舞踏会の中心で、エリオットはイザベルを断罪した。
「君のような可愛げのない、計算高い女は、愛を知る清らかなクロエの足元にも及ばない。真実の愛に、公爵家の義務などという言葉は不要だ!」
周囲の嘲笑を浴びながら、イザベルはただ静かに頭を下げた。
当時の彼女は心身ともに衰弱し、自分が無価値な人間であるかのように思い込んでいた。
そうして逃げるようにたどり着いたのが、このヴェルゼンだった。
そこで彼女を救ったのは、遠戚にあたる豪商のセドリックだった。彼は泣き崩れるイザベルに、一枚の貸借対照表を見せてこう言った。ロマンチックさは欠片もなく、冷徹に、である。
「イザベル、君がこれまで王太子に捧げた時間と労力を、一つの『事業』だと考えてごらん。リターンが皆無どころか、元本を削るばかりの投資を続けることを、商人は何と呼ぶか知っているかい?」
「……失敗、でしょうか」
「いや、それを『埋没費用』と呼ぶんだ。取り返せない過去の出費に囚われて、未来の利益をドブに捨てるのは三流のすることだよ」
その言葉が、彼女の視界を劇的に変えた。
イザベルはロマンチックなど求めていた訳ではなかったのだ。
国母となり王国を支えること、そこに注力してきた。
クロエの愛などというもので王国を守れるはずがない。
そんな当たり前の事実すら気づきもしない王太子。
どうしてイザベルが泣く必要があるだろうか、いや、ない。
イザベルはセドリックの薦めで、商工業の仕組みと経済学を学び始めた。
数字は裏切らない。
感情という不確定要素を排した世界で、イザベルは瞬く間に才能を開花させていく。
王都での社交術は「交渉術」に、王太子妃教育で叩き込まれた管理能力は「組織運営力」へと昇華された。
一方、エリオットはどうだったか。
彼が「真実の愛」と称して側に置いたクロエは、実はただの浪費家だった。
彼女は王室の公金を湯水のように使い込み、必要以上に着飾った。ドレスや宝石の支払いだけで国庫が傾くというのはどれだけ贅沢をしたのだろうか。傾国の美女という意味合いが少し違う存在。
エリオットがようやく「愛」の化けの皮が剥がれて、それが「金」でしかなかったということに気づいた時には……王室は破産寸前。
彼は慌てて、かつて自分を無償で支え、莫大な持参金を用意していた「都合の良い女」イザベルを思い出したのだ。
イザベルはペンを取り、返信を書き始めた。
何通も送られてきた手紙だったが、イザベルが返信しようと思ったのはこれが初めてだった。そして、最後でもある。
この先、二度とイザベルとエリオットが交わることはないから。
『王国の太陽たる王太子殿下にご挨拶申し上げます。
再三にわたる手紙での情熱的な愛の告白、その全てを経済学の研究資料として利用させて頂きましたこと、遅くなりましたがここに報告させて頂きます。
そのせいか、ここ自由都市ヴェルセルでは王太子殿下のことを知らぬ者がいないとか。他国での知名度が王太子殿下の今後の外交の役に立ちますよう、お祈り申し上げます。』
(笑いものにされているから、会話のきっかけ以上にはならないかもしれないわね。うふふ)
イザベルは笑みを浮かべつつ、続きも書き進める。
『そして、王太子殿下からのありがたいお心遣いではございますが、再婚約や結婚などという新たな契約は謹んでお断りさせて頂きます。
まず、王太子殿下が仰る『愛』についてですが、これは経済学的に見れば『極めて不安定かつ流動性の高い、実体のない債権』に過ぎません。
二年前、貴方様はその気まぐれな『愛』のために、私を一方的に捨てたのです。
その時点で、私と王太子殿下との契約及び関係は完全に解消され、その清算も既に完了しております。
また、現在、私は自由都市ヴェルゼンにおいて独立した複数の事業を展開しており、私自身の市場価値は当時よりも飛躍的に高まっております。
この状況で『愛しているから戻れ』と要求することは、倒産寸前の企業が、優良企業に対して『無償で吸収合併されるように』と持ちかけているに等しい暴挙でしかございません。
優秀な王太子殿下におかれましては、この手紙をご一読頂ければすぐに理解できることと存じます。』
(あの方、ちっとも優秀ではないけれど、優秀と書くだけなら問題ないわよね)
そこで便箋は3枚目に突入したが、書き進めるイザベルの手は止まらない。
『ちなみに、殿下から頂いたこれまでの数十通におよぶ貴重な手紙は、私の大学での研究発表『見通しの甘い経営者による、感情に訴える不当な契約更改の事例』のケーススタディとして大いに活用させて頂きました。
オエコノミーア教授からは『ここまで論理性が欠如し、自己の損失を相手に補填させようとする身勝手なサンプルは稀だ』と、私が行ったケーススタディでは最高評価である『S評価』を頂いております。
私が無事、卒業に必要な単位を取得することができましたのは、ひとえに王太子殿下の数々の手紙のお陰だと感謝しております。
また、このような形で自由都市ヴェルゼンの学問の発展に寄与して頂いたこと、心より感謝いたします。』
ふふ、とイザベルは小さく笑う。
「……手紙だもの。他のどなたかに読まれても大丈夫なように、しっかりと感謝はしておかないと」
もちろん、再婚約も、結婚も、はっきりと断っておく。
あのエリオットならば都合よく読み間違えるかもしれないが、知ったことではない。
手紙を書き終えたイザベルは、改めて運ばれてきた温かいコーヒーを口にした。
遠い隣国の王都でこの手紙を受け取ったエリオットがどう思い、どう感じるのかすら、イザベルは興味を持てなかった。
「卒業論文も提出してしまったし……こちらの手紙は……劇団がいいかしら? それとも作家かしら? どちらにせよ、活用できそうな方のお役に立てばいいわね」
イザベルにとってエリオットからの手紙などゴミのような内容だが、それを活かせる人がどこかにいるかもしれない。
ただし、活用されてしまうと……きっとまたエリオットの知名度がある意味で高まるのだろうとイザベルは微笑むのだった。




