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【後編】《水面の彼岸と、恋の答え》

 落ちる、というより、置き換わる。上と下、呼吸と水、心臓と潮汐。私――朝倉深知――は泉の内側へ(ひるがえ)り、世界の座標を一枚ずつ入れ替えられていく。目を閉じても暗い。目を開けても暗い。暗さは色ではなく、密度だと知る。指先を伸ばす。温度のない手が、足首から膝へ、膝から腰へと場所を譲れと言ってくる。譲るのは簡単だ。簡単なことほど、あとで代価が高い。


 肩に触れる掌だけが、やわらかく現実の温度を残していた。ソフィアだ。彼女の手は湯気を立てないぬくもりで、私の輪郭を確かめ直す。輪郭は、私がいま最も疑っているものだ。それでも、確かめられると、少し安心する。安心は沈みやすい。わかっていても、受け取ってしまう。


「深知。もう一度だけ問います。ここに“忘れて残る”のか。あるいは“思い出して戻る”のか」


 水の中で声は崩れない。崩れない代わりに、耳の奥で増える。ひとつの文が、二度、三度と別の高さで鳴り、骨の端に小さな鈴の澄音を残す。遠くで本物の鈴も鳴った。回収者の巡回だ。鈴の音は濡れた硝子の縁に指をあてたような、滑る摩擦の音。彼らは答えの匂いに反応する。だから、選ぶだけで匂いが立つ。選ばないことも、匂いになる。


「選ぶのは、今でなくてはいけないの?」


「今がいちばん安い。遅れるほど、利息が増える」


 利息。胸の奥で単語が硬貨に変わる。硬貨は重さとして沈む。沈むほど、底に近づく。底へ近づくと、ものは鮮明になる。恐れも、恋も、問も。


 泉の中に、絵が咲いた。咲く、というほかない速さで立ち上がる映像。夜明け前の海。群青と灰の間で、水平線は糸のように張り詰めている。砂に二列の足跡。片方は私。もう片方は――顔は見えないのに、笑い声だけが輪郭を持っている。笑いは乾いていて、途中で水を含み、最後だけ甘い。胸ポケットにしまった切符の裏、鉛筆の走り書き。〈Question is a compass〉。角が折れていて、折れ目に私の体温が溜まっている。風が、その角を指で撫でる。


「これは、あなたが捨てなかったもの」とソフィア。

「捨てていないから、重みがある。重みは足かせではなく、降りるための(おもり)にもなる」


「降りたくなんて、ない」


「けれど、降りなければ見えないものがある。上でしか見えないものがあるのと同じように」


 鈴の音が近づく。二度、間を置いて一度。数え方が骨に移る。骨が数えるものは間違わない。私は息を吸い、呑み込む。空気は水になって喉を通り、胸の中央でまた空気に戻る。戻るたびに、ひとかけらずつ、私の言葉が削れて落ちる。落ちる欠片の形が、どれも小さな疑問符に似ているのが、おかしかった。


「深知」


 名前が、最短距離で心臓に届く。呼ばれ慣れているのに、今日は違う。名は呼ばれた瞬間、ここでは“支払い”になる。名を呼ばれるたび、私は私であることをもう一度買い直す。


「私は……思い出したい。痛むとしても」


 言うと、泉の密度が一段軽くなった。軽くなることは、上がることではない。重さの分布が変わっただけ。ソフィアの瞳の中の琥珀の糸が、ひとすじ、深く沈む。


「思い出す道を選んだのなら、あなたはふたたび“問い続ける者”になる。問い続ける者は、ここで私と別れることになる」


「どうして」


「私は“問い”そのものだから。あなたが外へ持ち帰る問いと、ここであなたを守っていた問いは、同じ名前で別人です」


 悲しみは、感情ではなく、湿度としてやってくる。目の裏にかすかな湿り。鼻腔の上の、骨と空気が接するところに冷たさ。ソフィアの輪郭が、薄皮を剝くように淡くなる。けれど、掌の温度だけが残る。最後まで残るのは言葉か、触覚か。今日だけは、触覚に勝たせたい。


「回収者が来ます。短く、でも丁寧に、さよならを」


 彼女は私の手首の紐に指を添えた。小さな金属片――表に疑問符、裏に羅針盤――が、わずかに重みを増す。これを支払いに、と言われた気がする。都の税務は美学を伴う。


「ソフィア」


 呼ぶと、彼女の目が笑った。声ではなく、視線で。視線は水に強い。彼女は一歩退き、泉全体が呼吸するのに合わせて手を広げた。都のすべての水が、その合図にわずかに弾む。私の周囲で層をなしていた水がほどけ、上と下の区別がもう一度入れ替わる。爪先に軽さが戻る。踵に重さが戻る。浮力の配分が、私に返る。


「帰りなさい。戻った先でも、問いは羅針盤だと忘れないで。羅針盤は北を指さない。あなたを指す」


 鈴の音が、背中にまっすぐ飛んでくる。回収者の気配は影の高さで迫り、息がひとつ遅れた。ソフィアが私と回収者の間に立つ。濡れた硝子のような音が、彼女の足元で細かく砕け――今度は本当に、鈴は遠ざかった。守られたという実感が、胸より先に膝に来る。膝がかすかに笑う。かすかな笑いほど、長く残る。


「ありがとう」


 言い終える前に、私は浮いた。浮く、という単語の素朴さが恥ずかしいほど、私は単純に上へ向かった。上は天井で、天井は水面で、水面は薄い膜で、膜は一度触れれば割れて、割れた破片が光になる。光は白ではなく、教室のチョークの粉の色だった。


 目を開ける。最初に聞こえたのは、扇風機の羽根が空気を細く切る音。次に、インクの匂い。乾いた机の手触り。黒板に書かれた文字は、今度は流れない。白は白のままで止まっている。私は椅子に座っていて、膝に水の冷たさがない。ない、という事実が、いちばん最初に悲しかった。すぐに、安堵が追い抜く。


 窓辺に影。千智・マクファーソンが、濡れた前髪を指でほどきながらこちらを見た。制服の袖口がわずかに暗く、滴の形で夜を連れている。彼は、窓の桟に軽く腰を預け、いつもの低い声で言う。


「おかえり」


「ただいま、で合ってる?」


「合ってる。合ってないとしても、合うほうに歩けばいい」


 彼は胸ポケットから、小さな紙片を取り出す。切符の裏。前に見た走り書きと同じ――でも、筆圧や角度が違う。〈Question is a compass〉の下に、小さな円が描き足されている。円は未完成で、一箇所だけ切れている。そこから、線を出せるように。


「また“線”を探しに行こう」と彼は言う。

「ここでも、向こうでもない、境界の上を」


 私は笑う。笑いは、喉の奥で泡立ち、今度は泡のまま消えない。泡は言葉になる。言葉は、すぐには答えに変換されない。


 机の端に、小さなものが置かれていた。掌にのせると、濡れていないのに濡れている気配を持つ、水晶玉。表面に映る私の顔は、もうぼやけない。ぼやけない代わりに、影が一つ増えている。肩越しに、遠い水路の舟。舟は手招きをしない。ただ、在る。在ることのしぶとさに、私の背筋は正直に反応する。


 手首に、金属が触れた。ないはずの紐。見下ろすと、そこには何も巻かれていない。金属の冷たさだけが、皮膚の上に残っている。都からの最後の領収印みたいだ。支払い済――疑問符一つ、羅針盤一つ。


 静かな拍手が、教室の隅から起こった。先生ではない。誰かが、誰かのために小さく叩いた。音はすぐに止み、空調の息が上書きした。日常は、いつだって編集がうまい。私はペンを取り、ノートを開く。罫線の上に、まず円を描く。未完成で、一箇所だけ切っておく。円の内側に、羅針盤の針を一本。北ではなく、私の胸の方向に。


 窓の外で、雲がゆっくり形を変える。入道雲の輪郭は、あの都の建物の縁に少し似ている。似ているものを見つけると、心は勝手に接続詞を差し込む。だから私は、敢えて接続詞を使わない。ここはここ。向こうは向こう。どちらも私がいる場所。


 千智が、窓の外に視線をやりながら、ぽつりと言った。


「境界線って、たぶん消えない。消すより、(また)ぎ方に慣れるほうが早い」


「慣れたら、怖くなくなる?」


「怖さは、教師だろ。いなくなったらサボる」


 返す言葉が、喉で笑いに変わる。笑いは、今日いちばん軽い。軽さは逃げではない。浮くための筋力だ。私はノートに、もうひとつ小さな疑問符を描き足す。疑問符の点は、涙でも、汗でもない。インクだ。インクは乾く。乾いた跡は、消しにくい。都合が良い。


 放課後の鐘が鳴る。音は空気で鳴り、骨では鳴らない。私は立ち上がり、鞄の重みを確かめる。重みは、私のものだ。廊下に出ると、床は乾いている。乾いているのに、水の匂いが微かに残っている気がする。気がするだけで、十分だ。境界線は、鼻で跨げる。


 校舎を出たところで、空が少しだけ割れ、遠くで雷鳴がした。夏の最初の合図。空は水を企て、街はまだそれを知らないふりをしている。私は足を止めず、しかし立ち止まった足跡のつもりで、心の中に小さな円を描く。未完成の円。切れ目から、線がのびる。どこへ向かうかは、決めない。決めないことは、怠慢ではない。余白は、私の呼吸だ。


 “夏は、まだ終わらない”。口に出さないまま、胸の奥に書く。書いた文字は、水に濡れずに、水を欲しがる。渇きは、生きている証拠。私はその渇きを飼いならさない。飼いならさず、連れていく。連れていく先は、教科書の外側で、私の内側。羅針盤の針は、今日も北を指さない。私を指す。いい。間違えようが、遠回りだろうが、針の癖を、私はもう覚え始めている。

 ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


 この物語は、現代青春×自己発見×内面冒険を主軸に、“記憶と忘却”“問いと羅針盤”をテーマとした詩的ファンタジーです。

 実は本作は、Talesにて公開中の『透明な教室、夏の境界線を越えて-詩的私小説×青春ファンタジー|#自己発見 #内面冒険 #夏期講習-』を原案とし

登場人物・主要展開・世界観を再構築したパラレルバージョンとなります。


 原作では「夏休み」「現実世界での成長」「教室の閉塞感」など現代の舞台を軸に描いていますが

『滴りの迷都と、忘却の羅針盤』では、“境界線”そのものを異世界的な空間で可視化し

自分らしさ・問い続ける勇気・忘れることと覚えていることの意味を、より抽象的かつ幻想的に掘り下げました。


 どちらも「問い」が“羅針盤”になる物語です。

 もし原作の方もご興味あれば、ぜひTales版も覗いてみてください。


【Talesでの原作】

『透明な教室、夏の境界線を越えて-詩的私小説×青春ファンタジー|#自己発見 #内面冒険 #夏期講習-』

https://tales.note.com/noveng_musiq/w898lx3m01nz1


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