【中編】《沈黙の迷宮と記憶の綾》
夜は、この都では上からではなく、横から押し寄せる。壁の目地から滲んだ群青が、廊下の床を薄く満たし、光と音を鈍く折り畳む。私――朝倉深知――はソフィアに導かれ、校舎の中庭へ出た。中庭の中央に口を開けているのが“記憶の泉”。縁石は指で撫で尽くされたように丸く、苔は濡れた書物の匂いを放つ。周囲には異形の石像と、文字が半ば剥落した石板が円を描いて並ぶ。名前が読めるものは少ない。読めるものほど、読み捨てたい衝動に襲われる。読むことは呼ぶことに似ていて、呼ばれた名はここではすぐに戻ってくるからだ。
「忘れることは、ひとつの支払いです」とソフィアは言った。
「支払いがなければ、学びはこの都では成立しない。逆に、支払い過ぎれば、あなたは空白になってしまう。空白は、美しいけれど、住めない」
泉の水面は、風もないのに微かに呼吸している。私は縁に膝をつき、指先で触れた。冷たい。冷たさの奥に、微弱な甘さがある。水の甘さを感じたときの小さな罪悪感――舌が知ってはいけない何かを知ったような後ろめたさ――が、指の腹にだけ宿る。触れた場所から、映像が湧いた。現実の教室。黒板の白は波頭に似て、チョークの粉は飛沫に似て、夏の午後、扇風機の羽根が私の疑問を薄く切り刻む。別の場面。雨の日の図書室。インクの匂いに紙の湿りが重なり、ページを捲る音が魚の鱗の重なる音に変換される。誰かと笑っている。誰かの肩越しに、窓の外の鉄塔。画面は泡立ち、破れ、すぐに次へ流れる。
「問いなさい」とソフィアは静かに促す。
「問えば、泉はあなたを映す。黙れば、泉はあなたの黙を映す」
私は問う。声にはならない。喉の奥で砕いた氷みたいな問いを、少しずつ水に溶かす。――私は“何を”探しているの? 何を捨てに来て、何を掬い直しに来た?
「“本質”」とソフィアは答えずに言う。
「それは、あなたが選んだ単語。選んだ時点で、あなたは少し失う。でも、選ばずにいるよりは、ずっとマシ」
「失うのは、私のどこ?」
「あなたの“装飾”。装飾は、あなたをきれいに見せるけれど、重い。沈むときは邪魔になる」
私は笑う。沈む予定なんて、普通は立てないはずなのに。この都では“沈む予定”が自然だ。笑いは、唇の塩を薄めて、口内に潮風を生む。舌が少し痺れる。
泉の周囲を囲む石像は、どれも人の形をしているのに、どこか魚類の骨格を借りている。肩甲骨の角度が水に慣れていて、目窩は深く穿たれている。石板のひとつに、辛うじて読める文字――〈Question is a compass〉。誰かがここに置いていった言葉だ。羅針盤。針は北を指さない。私を指す。そう決めた瞬間、胸の少し上、骨と骨のあいだが痒くなる。痒いのは、恐れの場所だ。
「回収者が巡回する時間です」とソフィアが告げる。
「彼らは“答え”の匂いに反応します。だから、いまは問うて、答えないで」
微かな鈴の音が遠くから転がってくる。乾いた金属音ではなく、濡れたガラスの縁が指で撫でられるような音。空気の重さが一段下がる。肺は、さっきまでより深い水に置かれる。私は縁から身を引き、石像の陰にしゃがんだ。苔の冷たさが膝から血へ移る。ソフィアは私の肩に手を置く。その掌は、湯気の出ない温度で、私の輪郭を確かめる。
来た。影。人の背丈で、人の歩幅だが、歩くごとに足元に一瞬の水たまりを生成し、その中心から同心円状の波紋を撒く。波紋は床に吸い込まれ、床は満足げに鈍い光を返す。鼻が先に反応する。塩素に似た匂い、けれどもっと柔らかく、古いプールの朝の匂い。夏休みの始業前、誰もいない水面に最初の影が落ちたときの、あの静謐と同じ匂い。
「見ないで」とソフィアが小声で言う。
「見ると、見つかる」
視線を落とす。石像の足首に刻まれた消えかけの文字が、やたらとよく見える。読まない。読まない、と決めることが、読むより難しい。回収者は泉の縁で止まり、鈴を二度鳴らした。骨が順番に返事をする。私の肋骨が、一番に不器用な返事をする。沈黙が、水圧の単位で重くなったかと思うと、影は動きだし、私たちの目の前を過ぎた。目は合っていない。合っていないのに、見られた気配だけが皮膚に貼りつく。
「彼らは、問いを捨ててしまった者たちの、成れの果てだと言われています」とソフィア。
「捨てて軽くなったはずのものが、別の重さで戻ってくる。重さには、いつも利息がつく」
回収者が遠ざかるのを待って息を吐く。吐いた息が白くないのに、形を持って見えた。夜の密度のせいだ。私は泉の縁に戻る。水は、見ていない間に少しだけ濃くなった気がする。あるいは、私が濃くなったのかもしれない。
「恋の話をしましょうか」とソフィアは不意に言う。
「いまが適切だと、泉が言っている」
「泉は、話すの?」
「話したがるときがある。水は、秘密を抱えていると重くなる。重い水は、落ちたがる」
私は首を傾げる。恋。単語の輪郭はやわらかいのに、投げると硬い音がする。誰かの指に触れた温度。指の温度は、恋の定義の一部だ。泉にその温度を問うと、水面に別の映像が立ち上がる。夜明け前の浜。空はまだ群青で、水平線が鉛筆で引かれたように細く硬い。並んだ足跡が二列。片方は私。もう片方は――顔が見えない。けれど笑い声だけが聞こえる。笑い声には、砂の音が混じる。そこに、切符の裏に走り書きされた〈Question is a compass〉の文字。私はその紙を胸ポケットに入れて、指先で角を確かめる。角は少し折れていて、そこに体温が溜まっている。映像は、泡立って消えた。
「あなたが探しているのは、答えではなく、方向かもしれない」とソフィア。
「方向は恋に似ている。どちらも、正しさより“行きたい”に引っ張られる」
「行きたいのに、怖い」
「恐れは良い教師です。さっきも言いましたね。教師が多すぎるときは、賢くなるか、動けなくなるかのどちらかです」
泉の縁に、白い点がひとつ落ちた。涙だと気づくまで、数秒かかった。泣いているのに泣いていない顔をしている自分に、私は驚かない。問いを多く抱える日ほど、涙は裏方を務めがちだ。白い点は、水に触れて、瞬きもできない速さで無に戻る。戻ることの鮮やかさに、胸が痛む。
「深知、ここから出たいですか」
ソフィアの声は、波頭ではなく、波と波の谷間に落ちる。私はうなずいた。うなずくまでに時間がかかった。うなずきは、意見ではなく、体の意志だから。うなずいた瞬間、泉の水面が、静かに割れた。“開く”というより、“沈黙が下がる”。水が沈黙の厚みを変えるときの音は、骨でしか聞こえない。闇の内側に、色のない手が見えた。白ではない。色がない。温度のない手。手は私の足首に絡む。氷でも熱でもない、温度ゼロの触覚。それは、生き物にとって最大の異物だ。
引かれる。水は私の名前を呼ばない。呼ばないのに、私の名前は自分で水に向かう。胸の中で、ふたつの声が同時に喋りだす。
「忘れなければ、苦しみが続く」
「思い出せば、痛みが生まれる」
どちらも、教師の声に似ている。どちらも、嘘をつかない種類の声だ。
視界が暗く、近く、やわらかくなる。泉の外縁の石の冷たさが足首から消え、代わりに内腿のあたりから未知の重さがかかる。沈むのではない。沈ませられるのでもない。水が上になって、私が下になる。上下が交換される瞬間に、私は――ひどく短い、しかし確かな恋しさ――に触れる。誰のものでも、まだ私のものでもない“恋の原型”。原型は怖い。扱う前に成果を出してしまうから。
ソフィア、と呼ぼうとする。水が喉の形を模倣して、その声をやわらかく奪う。奪われた声は泡になって浮かび、泡は破裂しないまま、天井のほうへ逃げる。手首の細い紐が、からりと鳴った。疑問符が、重くなる。重さは、ここでの通貨だ。私は、払うのか。払わされるのか。どちらでもいい。ただ――
ただ、沈んでいく意識の縁で、私は自分の“本質”に爪を立てた気がした。爪がたしかな抵抗を得た。抵抗は、まだ剥がれていない何かの証拠。証拠は、私を上に引くか、もっと下へ連れていくかのどちらかだ。どちらにしても、恋は利息をつける。利息の重さに、私は小さく笑う。笑いは、水にとっていちばん軽い。
闇の底から、誰かの影が近づいてくる。輪郭はしなやかで、月ではなく秩序の形をしている。届く前に、私は目を閉じた。閉じることが、今いちばんの学びに思えたから。