【前編】《水境の教室と忘却の問》
目が先に覚め、世界が後から付いてくる。そういう順序の朝は信用ならない。喉は乾いているのに、耳の奥は最初から水音で満たされている。白い天井が波紋のように揺れ、蛍光灯の白がゆるやかにほどけ、机の角がにじむ。鼻先には墨の匂いと、濡れた石の冷たい匂いと、遠い潮の粒子が混ざっていた。
私は、朝倉深知。そう思い出すまでに、三十秒ほどの空白があった。その三十秒の間に、足裏はすでに冷たく濡れている。床一面に薄い水が張っており、靴下は静かに吸い、体温をゆっくりと盗む。指で触れると、水面がぷつりと裂け、すぐさま何事もなかったふりをして塞がる。ふてぶてしい透明だ。
「ここは……教室?」
声に出すと、天井の水面が震えて、ひと呼吸遅れて壁の向こうまで伝わっていく。黒板はある。チョークもある。けれど板書は残っていない。文字は書かれては溶け、溶けては流され、黒い板はただ清潔に濡れているだけだ。机の上に丸いもの――水晶玉――がひとつ、取り残されていた。指を当てる前から冷たい。球の表面に映る私の輪郭は曖昧で、視力検査の一番上の「C」を反転させて更に水にくぐらせたみたいに、頼りなく揺れている。
「お目覚めの時間を待っていました」
背後から落ちてきた声は、澄んだ水底で響く鈴の音に似ている。振り向けば、薄い亜麻色のブラウスに深海の気配を纏う女性が立っていた。瞳の色は深い藍、けれど光を受ければ琥珀の糸が縦に走る。不思議な目だと思った。視線を合わせると、こちらの鼓動の速さが相手のまぶたに映る。そんな錯覚。
「私はソフィア。ここは“滴りの都”。あなたの世界と、あなたの知らないほうの世界の境に、薄く張られた学びの街です」
学び。たった二文字の単語に、私の胸は条件反射で熱くなる。教科書に載っていないことが知りたい――という願いは、いつからか私の中で水のように循環して、のどの渇きの正体さえ曖昧にしていた。渇いているのに満ちている。満ちているのに渇いている。相反する二つのメーターが、同時に赤い針を振っている。
「私は……どうしてここに?」
「来たからです。来る、と決めたからです。覚えていないことは、ここでは珍しいことではありません。忘却はこの都の通貨で、質問はこの都の呼吸です」
ソフィアは私の近くまで歩み寄り、床の水に沈まずに立った。彼女の足首は濡れているのに、滴らない。そういう重力をこの街は採用しているらしい。私の膝は小さく震えた。怖いわけではない。怖いを簡単に怖いと言ってしまうのは、怖いに失礼だ。ただ、未知の規約に触れたときに体が示す礼儀正しさ、のような震えだった。
「ここでは、何かを“水に流す”覚悟のないものは、輪郭を持ち続けられません。輪郭が持てないものは、声を落とし、匂いを落とし、最後に名前を落とします。名もなき滴は、やがて都に吸い込まれる」
「私は……何を流しに?」
「それを知るために、ここに来たのです。ひとは、何を忘れるかで、何を学ぶかを決めます」
机の上の水晶玉の中に、闇の斑点が生まれては消え、消えてはまた生まれた。耳の奥で、誰かの足音がぶつぶつと水を踏む。扉のほうを見ると、影がひとつ、こちらを覗いている。制服の影だ。シャツの襟元に見覚えがある。私の学校の、あの式の縫製。影は躊躇いがちに、廊下の湿った光の中から半歩だけ進み、顔の輪郭を差し出す。
「深知」
呼ばれた。声は若い。砂浜を軽く走った後に振り返って笑うみたいな、少しだけ息を弾ませた声。千智・マクファーソン。その名は、口の中で言うより先に胸の内側に浮かび上がる。どうして彼がここに? 問いが喉を駆け上がる前に、千智の目は私を素通りして、黒板のほうを見た。彼は癖のある手つきで、空中にペンを走らせるふりをする。
「教室に戻ろう」
ただそれだけ言うと、彼は廊下の光の中に薄まり、ガラス戸の向こうで水の飛沫に溶けた。残ったのは、古い改札の磁気の匂いに似た、乾いた鉄の匂い。私は彼を呼ばなかった。呼ぶには、ここがどこかを私はまだ許していない。
「彼は?」
「あなたが“まだ流していないもの”の化身かもしれません。あるいは“これから掬い上げるもの”の予告かもしれない。都は、見たいものの順序は与えません」
ソフィアは水晶玉の横に、薄い板を置いた。板は古い羅針盤で、針は北を指さず、私の胸の方向を指した。胸がわずかに痛む。赤ではない、鈍色の針が、鼓動に合わせてかすかに震える。
「Question is a compass」
ソフィアは英語で、そしてすぐに日本語で繰り返す。
「問いは、羅針盤です。答えのない海を渡るための装置。ここでは、問うことが生きることです」
私はうなずく。この都の空気は湿っていて冷たいのに、肺の奥を撫でるときだけ、なぜか薄荷のようにスッとする。鼻腔の奥が清潔になり、思考の通路が一瞬だけ広がる。広がると同時に、そこへ水が流れ込み、通路はすぐにまた満たされる。やりとりの速さは、ほとんど会話だ。
「ここから出る道は?」
「あります。けれど、出るには“持ち帰るもの”と“置いていくもの”を選ぶ必要がある。二つ同時には持てない。二つ同時に捨てることもできない。あなたは、どちらを選ぶでしょう」
「選ばない、という選択は?」
「選ばない者は、選ばないまま流れ続けます。やがて自分が流れていることにすら気づかなくなる。流れている自分は、もう自分ではないのに」
そのとき、建物の奥で鈍い鐘の音がした。水の下で鳴らされた鐘は、空気を介さず骨に届く。背骨が一本一本、湿った蛇口になったみたいに、骨の中から冷える。ソフィアは即座に私の肩へ手を置いた。指先は温かい。温度が意味を持つ。
「回収者が巡回を始めたようです。今日はここまでにしましょう。夜の深い時刻、泉が口を開きます。そこで、あなたはあなたの欠片を見られる」
「泉?」
「“記憶の泉”。水面は問えば答え、黙れば沈黙を返します。どちらにせよ、映るのはあなたです」
記憶、と口の中で転がす。滑る単語だ。舌で押さえているだけでは、歯と歯の間から逃げる。私は机の縁を握って、自分の指の形を確かめる。指紋がある。皮膚の端にささくれがひとつ。痛みは現実の証拠品。爪の下に薄い水の冷たさが入り込み、それが証拠品にもなりうることを、私は初めて知る。
「ソフィアさん」
呼びかける声が、思っていたより小さかった。彼女は片眉をわずかに上げ、耳をこちらへ傾ける。
「怖いのは、忘れること? それとも、思い出すこと?」
「どちらも恐れでしょう。恐れは、良い教師です。危険に近づくときにしか、あなたは本気で学ばないから」
ソフィアはそう答えて、窓の外を見た。窓――というか、壁一面の硝子の向こうには、廊下ではなく水路が通っている。細い水の道を、小さな舟がひとつ、灯りも差さずに滑っていく。舟が残した波は、硝子に触れる前に消えた。都の物理は、時々、こちらの都合をきっぱりと拒否する。
「あなたは、恋を知っていますか」
唐突な問いに、私は息を止める。肺の形が水でなぞられる感じがして、くすぐったい。恋。どの辞書にも載っていて、どの辞書でも足りない単語。恋のとなりに、回収者という単語が頭の中で勝手に並ぶ。恋は回収者なのか。回収者は恋なのか。自嘲まじりに笑うと、ソフィアは首を横に振った。
「恋は、忘却より賢い。忘却はあなたから剥がす。恋はあなたを増やす。増えることは、時に痛む」
机の上の水晶玉の奥に、一瞬だけ海が映った。水平線のない海。上下の区別がなく、ただの青とただの暗が織り合わさった、最短距離の無限。そこに、黒い点が二つ、寄り添ったかと思うと離れ、またすれ違い、そしてしばらく並走した。点の意味を私は問わない。問えば答えになってしまうから。今は、答えにならないものとして抱きたい。
ソフィアは腕時計を見た。秒針は動いていない。代わりに、盤面の内側の細い環が、静かに水を数えている。指で示されたのは黒板脇の扉。そこから廊下に出て、左に四歩、右に二歩、階段を上がり、踊り場の手前で止まること。そう指示される。私は立ち上がり、足を一歩出す。水が小さく笑った。たしかに笑ったのだ。足首に巻きつく冷たさが、いたずらっぽく強弱をつけたから。
「夜、迎えに来ます」
ソフィアはそう言い、私の手首に細い紐を巻いた。銀ではない。銀ほどの冷たさを誇示しない、もっと静かな材質。紐の先には小さな金属片がついていて、表に小さく質問符、裏に小さく羅針盤の刻印。装飾ではない。これはきっと都のキーカード。形のある疑問符。
廊下は、漂白剤の匂いと、古い書庫の紙の匂いが混ざっていた。壁には世界地図。図の海の部分が、都合の良い海色に塗られている。点線は国境。国境はこの都の水境ほどにやわらかくはない、と地図は主張する。階段を上がる。踊り場の手前に来る。言われたとおり止まる。しゃがむ。目線の高さで壁の石が欠けていて、そこに指一本がちょうど入る。押す。軽い抵抗の後、石が引っ込み、空気がひとつ息を吐く音がして、小さな扉が開いた。
中は、狭い書見台のような部屋だ。本棚が一つ、低い机が一つ、そして窓。窓の向こうには《回廊水路》が見える。さっきの灯りも音もない舟が、もう一度通った。舟に乗っているのは人か、影か。判断を保留する。机の引き出しから、濡れていない紙とペンが出てきた。都の配慮。私は紙を前にして、何を書けばいいかを迷う。迷いそのものを書けばいいのだと分かっているのに、迷いはただちに文章になることを嫌う。私は自分の名前を書いた。朝倉深知。ひらがなで、あさくらみち。漢字で、朝倉深知。ペン先が紙の表面を滑る音が、水の走る音に混ざる。名前は、今のところ、私に属しているらしい。
夕刻という概念がこの都にあるのか、時計で測った夕刻がここでも夕刻なのか、分からない時間が来て、外が少しだけ青を濃くした。私は窓辺に寄り、硝子に額を寄せる。冷たい。冷たさの向こうに、黒い影が吸い寄せられるように現れた。影はゆっくりと、水路の中央に立つ。立つ? 水路の中央に立てるほど、水は固いのか柔いのか。影は鈴を鳴らした。小さな音なのに、私の肋骨は順番に返事をする。ひとつ鳴らすごとに、ひとつの骨が湿った名前を思い出す。影は顔を上げた。顔の輪郭は人だ。目の位置に空が二つ穿たれている。そこから風が出入りする。
回収者。口の中で、まだ声にしないまま言う。夜の巡回が始まっている。彼らは、忘却を拒む者の匂いを嗅ぎつけるという。匂いは隠せない。水はすべての匂いを混ぜる。混ぜてしまえば、余計に強くなる。私は息を短くした。短くした息は、短いぶんだけ遠くへ届く。そういう迷信をこの都は、きっと採用している。
扉が、二度だけ柔らかく叩かれた。ソフィアだ。私は小部屋を出て、廊下で彼女と並ぶ。彼女の香りは、紙を焼く前の静電気の匂いに似ている。焦げる前の、乾いた緊張。彼女は私より半歩先を歩き、廊下の角ごとに短い視線を投げる。角という形は、都にとっては折り目のようなものだ。折り目には、水がたまる。たまった水は、たまった質問に似ている。ため息を飲み込む場所。
「記憶の泉は、この先です。ただし、急がないこと。泉は急ぎを嫌います。急ぐ者には、急ぎしか映しません」
「映してほしいのは、私です」
「そうです。映るのは、いつだってあなたです」
踊り場のガラス窓から、さっきの舟がまた見えた。三度目。都は三を好きだ。三度目の舟は、今度は小さく手招きをした。動いたのは人か影か、やはり判断を保留する。保留は賢明さに数えられると、今日は信じる。
私の手首の紐が、からん、と微かな音を立てた。質問符が、私の皮膚の上で汗に濡れ、うっすらと重くなっていく。汗は水に似ている。似てはいるが、違う。違うふたつが似ているとき、世界はよく滑る。滑るとき、転ぶ人と踊る人がいる。私は、できれば踊りたい。転ぶほうが早いけれど、踊るほうが覚えが深い。
「深知」
また名前を呼ばれた。振り向くと、階段の下の暗がりから、千智が半歩だけ顔を出していた。彼は口の前に人差し指を立て、静かに笑った。笑いは、声にならず、目尻にだけ光った。次の瞬間、彼は影に戻り、濃い水の層に吸い込まれるように消えた。残ったのは、鉛筆の芯を軽く折ったときの、粉の匂い。勉強の匂い。私の鼻は、その匂いを知っている。匂いは、体の最短距離で記憶に触る。
私は階段を降り、ソフィアと並んだ。彼女の横顔は、月よりも秩序正しい。水よりも気紛れではない。けれど、彼女の言葉は水に似ていた。言葉が触れた場所は、たしかに濡れて、温度を変える。
「行きましょう」
そのひとことで、私の中のいくつもの針が同時に震えた。緊張の針。不安の針。期待の針。恐れの針。恋の針。私の胸は針箱で、針箱は海で、海は問いで、問いは羅針盤だ。羅針盤の針は北を指さない。私を指す。それは、正しさを捨てる勇気と、間違いを抱く勇気が同時に求められる、困難で正直な装置だ。
私は息を吸い、そして飲み込んだ。水ではない空気が、少しだけ水になって喉を通る。飲み込まれた水は、体の内側から私を濡らす。濡れた私は、濡れていない世界よりも、言葉の届きが良い。
夜の底が深くなる。都は静かに、でも確実に、私を“記憶の泉”へ連れていく気配を濃くしていく。回収者の鈴が、遠くで二度、近くで一度。恐れは、良い教師だ。良い教師に導かれる生徒は、今日だけは素直でいようと思う。素直は、たぶん強い。
私はソフィアの背を追い、濡れた廊下を進む。床の水が、足裏の体温で微かにぬるくなり、ぬるさがすぐに均され、均された場所がまた私の跡になる。足跡は一瞬で消える。消えることが、ここでは証拠だ。証拠は、ここでは泡だ。泡は、消える前がいちばん美しい。そういう美しさもある。
私は、忘れるのが怖いのか。思い出すのが怖いのか。二択のくせに、両方に丸をつけたいのはずるいか。ずるいなら、ずるいことを学べばいい。ずるいを学ぶのも、ここでは学びだ。そう決めたところで、曲がり角の向こうから、冷たくて暗い、しかしどこか甘い気配が流れてきた。泉だ。まだ見えないのに、匂いで分かる。雨上がりの図書室に似た、紙と水の混交の匂い。
私は、歩幅を半歩だけ小さくした。急ぎは映らない。映るのは、私。問いは、羅針盤。羅針盤は、私を指す。
夜は、いよいよ深くなる。私は、ようやく浅くなる。浅くなるほうが、ここではうまく沈めるのだと、今は信じる。