16 十一世紀の終わりに1
―ユリウス暦一〇九二年、夏。蝦夷地ト・マクオマ・ナイ。
タケルはシズクとフウカを産んだニ年後に男女の双子を産んだ。女の子はアペ、男の子はニタイとアイヌ名が贈られ、和名は焔と森杜と命名された。
六人の子供達は成長するに従って各々には個性が認められ、三歳頃にはついに『自我』の発現が見られた。これでタケルも一安心だった。
彼らはコタンの子供達と遊んだり、採取の仕事に同行したりと、一見すると普通の子供として育っている。
ここで現時点でのタケル一家の子供達の年齢と生まれ年を再度記しておく。順番は生まれ順である。
長女、天音。アイヌ名カント。十歳。ユリウス暦一〇八一年生れ。一人称:あたし。
長男、大地。アイヌ名モシリ。十歳。ユリウス暦一〇八一年生れ。一人称:俺。
次女、雫。アイヌ名ワッカ。八歳。ユリウス暦一〇八三年生れ。一人称:わたし。
三女、風薫。アイヌ名レラ。八歳。ユリウス暦一〇八三年生れ。一人称:わたし。
次男。森杜。アイヌ名ニタイ。六歳。ユリウス暦一〇八五年生れ。一人称:俺。
四女、焔。アイヌ名アペ。六歳。ユリウス暦一〇八五年生れ。一人称:ボク。
二男四女の六人兄弟姉妹で双子三組みである。上と下はお互いどちらが上だとの拘りは無い。ただし、真中のシズクとフウカは聞かれると「「わたしがお姉ちゃん!」」と言って双方とも譲らない。周りは「双子で同じ顔をして、どっちが上も無いもんだ」と微笑ましく思っている。
この真ん中の双子、シズクとフウカには生まれる前の『記憶』がある。兄弟姉妹全員が母であるタケルから『記憶』や『知識』を受け継いでいるのだが、それとはまた違う、自らが体験したと認識出来る所謂『エピソード記憶』というものだ。
シズクとフウカは今年の春で満年齢で八歳になった。タケルに良く似た顔の双子は並ぶとそっくりで、尚且つ言動や動作がよくシンクロする。家族以外の人からは区別がつかないと良く言われているのだが、それも無理は無い。二人の元となったのは同一の存在だったのだから。
その日、二人は連れ立って海辺に来ていた。彼女たちは暇があれば、こうして海を見に来るのだ。
「フウカ、旅に行きたいね」
「うん、シズク。また海を行きたいよね」
「いまのわたしたち、好きに見ることもできるし、聞くことも、さわることも、いろいろ感じることもできるんだもの」
「そうだね。いまはおかも歩けるし、話すこともできるんだよ。行けたらすごく楽しいんだろうなぁ」
海を見ながら浜辺に二人で座り、あれこれお喋りをするシズクとフウカ。
「お母さんに、いつなら行けるのって聞いても、まだダメって言うんだよね」
フウカが残念だなぁと言わんばかりに小首をかしげるとシズクも同じ動作をする。
「しかたないよ。わたしたち、まだ小さいし弱いんだもの」
「コタンの子たちよりは、うんと強いのにね」
「でも、ころんだり、ぶつけたりしたら痛いよ? 泣いちゃうよ?」
「すぐになおるけど、けがだってしちゃう」
二人同時に溜息を吐くと、同時に同じ事を言う。
「「はやく大きくなりたいよね」」
波音を聴きながら、二人は手を繋いで海を眺め、遥かその先に思いを馳せるのだった。
―ユリウス暦一〇九三年、春。蝦夷地ト・マクオマ・ナイ。
雪解けの季節に、タケルとの付き合いが長かったコタンラムが亡くなった。曾孫のレタラノンノが産んだ玄孫の顔を見てから四年後の事だった。弔いにはタケルや子供達も身内として招かれ、彼らの仕来りに則って儀式に参加した。
ト・マクオマ・ナイ周辺の各コタンはタケルが齎した製鉄技術や炭焼き、寒冷地向けの作物の栽培により、生活が安定して来ていた。昔は頻繁に起きていた小競り合いも殆ど起きなくなっている。また各コタンの長が集まって話し合いをして決め事をする合議制の様な事も始まっていた。独立したコタンの集合だったものがト・マクオマ・ナイの一つのコタンとして完全に纏まろうとしていた。
タケルが彼らに開示した技術や作物がト・マクオマ・ナイのアイヌ達に反発も無く受け入れられ広まったのは、コタンラムを中心にした各コタンの長達が相談しながら、陰ながらタケルをオタウシカムイと信じ敬い、それを各コタンの人々に教え諭していたからであろうか。
この頃から、ト・マクオマ・ナイのコタンでは、徐々に世代交代が進んで行った。しかし人々の、タケルに対する畏敬の念はまだ衰えてはいなかった。
古代の縄文人も農耕を知ると定住生活に移行して行ったと言われているが、ト・マクオマ・ナイのアイヌ達も、ゆっくりと狩猟採集民族から農耕民族へと変わって行くのかも知れない。
―ユリウス暦一〇九五年、夏。蝦夷地ト・マクオマ・ナイ。
核融合動力船『シンタ』のスクラップを再利用して、五〇〇トンクラスの貨物船エタスペ号の造船が終わり進水した。シンタの解体からエタスペ号の着工進水までの期間が長かったのは、タケルが子育てに勤しんでいた為である。
エタスペ号は一応はボイラーの熱源に固体内核融合発熱体を使っている核融合動力船である。しかしスクリューは固定ピッチ、ピストンを水蒸気で駆動するレシプロ蒸気機関の動力と簡素化されている。
沿岸が見える範囲の近海で運用する為に造られたので、航法に使うのは磁気コンパスと天測のみ。勿論、制御AIは搭載していない。完全に人力で運用する非武装で最大速度一五ノットの鈍足船である。
造られた主目的は蝦夷地各地からの資源の運搬。それと近いうちに陸奥で野生の南部馬を捕獲して運搬する計画も立てている。この船の運用はサンゴリランに任される事になる。
エタスペ号が進水してから後の、竣工後の試験航海ではシズクとフウカも乗船して海を満喫したのだが……。
「遅ーい」
「私たちの方が速かったよね?」
「頑張らなくちゃ、だね」
「そうだね。お母さんと交渉だ!」
これである。以降、彼女たちはタケルの下で『記憶』のある異星人技術の『知識』を現実的に製造出来るレベルに落とし込む事に邁進して行く。主に船舶関係で。
―ユリウス暦一〇九七年、一月。蝦夷地ト・マクオマ・ナイ。
その日、ト・マクオマ・ナイで震度三程度の揺れを感じられた。揺れの感じから震源は遠くにあるだろうと判断したタケルであったが、遠方で発生した地震でも津波が来る事もあると判断した。
彼女は揺れが来たすぐ後から、周辺コタンに津波の危険を知らせて避難を促した。幸いにも地震の後に津波が来る可能性についてはト・マクオマ・ナイ周辺のアイヌには口伝が存在していたので、皆は素直に警告に従ってくれた。
その後で暫くして浜や港で目視で潮位の変化が見られた。
それから丸一日経過し、潮位の急激な変化が無い事を確認した後、タケルの記憶に引っ掛かる物があった。時期や名前は残念ながら憶えていなかったが、昔に(この場合は未来に?)観た南海トラフ地震に関するテレビ番組で、平安時代末期にも南海トラフを震源とする地震があったと言っていた事を憶えていたのだ。(実はこの後のユリウス暦一〇九九年に起こる康和地震の事だったのだがタケルは憶えていなかった。なおこの康和地震については明確な資料が少なく震源域を含めて実態の把握が難しく、今までの定説に疑義が唱えられている)
取り敢えず非常食(大麦、ライ麦と潰したジャガイモ、胡桃を混ぜて練って麦芽糖と植物油を入れて焼き固めた物。普段から余剰分で作り備蓄してある)をエタスペ号の船倉に積載可能な量を積み込んで、タケル、長男で一四歳のリク、そして普段エタスペ号の運用を任せているサンゴリランに、タケルからの要請を受けて集まった若衆の中から幾人かを選抜して、彼らを連れて南に向けて出港した。
しかし南海トラフ地震と思い込んで伊豆から東海地方沿岸を移動していたタケルは、駿河で多大な被害を受けているのを目撃して「ええ? 南海トラフじゃなくて東海道沖?」と驚いた。
記憶違いか? とか、確かあの局は以前に捏造報道とかやって叩かれてたかな、などと益体もない事を思ったが、被災者の救助が優先だと言うことで、目に付いた被害を受けている場所にタケルとサンゴリランは艀で上陸すると、人外パワーで片っ端から救助活動を行い、残りの者が後続してリクの指揮で怪我人の応急処置や食事の配給等を行なった。
しかし悲しいかな、タケル側の人手も用意した食料も足りず、更には得体の知れない連中だと地元の権力者達に目を付けられて横槍を入れられ、結局は僅かな人数しか救う事が出来なかった。(この当時の駿河国の国司は伴広貞と言う人物。取り敢えず名前だけは分かりましたが、どんな人物か、この地震でどの様な対応をしたかは調べられませんでした。平安後期で末法思想が広まっている中での地方での大災害。部下が勝手をやっても不思議では無いかと)
そして地元の権力者達が支援もせずに見捨てるように放置していた、住処を失った所帯持ちや子持ちの寡婦、親を失った孤児を中心に声を掛けて移住希望者を募った。勿論、今は寒さ厳しい冬の蝦夷地である事は十分に説明した。結果、合わせて二〇〇人程が移住を希望した。
希望者全員を船倉に収めて全速一五ノットで丸一日以上かかる船旅だったが、船酔いする者は出たものの全員を無事にト・マクオマ・ナイまで連れて来る事が出来た。ただ真冬のト・マクオマ・ナイの厳しい寒さは日ノ本の、それも比較的暖かい地方に住んでいた者達には想像の埒外だったらしく、下船すると彼らは驚きと寒さに震えたのだった。
彼らは和人初の蝦夷地入植者となった。
その後も何回かに分けて、伊豆駿河を中心に被災者から移住者を募り、最終的に一〇〇〇人を超えるシサムが蝦夷地に入植する事になった。
『子供』は六人で打ち止めです。
レギュラー増やすとね、描写がね。




