第2話
そういった大騒動が半年余り続いたが、日常を維持する必要もあって、この時代の足軽達を選考して兵士として志願させて訓練を施すような事態になった。
(そうしないと失業した足軽達が、大量の犯罪者になるという理由もあったと後で自分は分かったが)
だが、これはこれでお金が掛かる事態になるし、それに皇軍上層部が日本の民に色々な意味で教育を施す必要もあると考えたことから。
1543年の正月明け早々、自分は中隊長に呼ばれていた。
「佐藤一等兵は中学校卒業だったな」
「はっ」
「そうか除隊して教員になってくれ」
「はあ?」
上官に対して余りにも不遜な態度として、即座に鉄拳が飛んできてもおかしくなかったが、中隊長にしても言いづらい話なのだろう。
自分は殴られずに済み、又、中隊長からるる事情を説明されることになった。
皇軍、つまり自分達が持っている知識を日本中に広める必要がある。
そうなると一部の技術を持った兵士や士官等を除く一般の下士官兵は、少しずつ除隊させて、この日本で知識を広める役に使う必要があるという判断が皇軍上層部で下され、朝廷にも裁可された。
(士官は基本的に新たな軍や政府を造るのに必要不可欠ということから、除隊させない方針ということが決まっていた)
そして、そういった知識を広めるとなると学校を作って広めるのが相当ということになった。
「とはいえ、少しずつ見本というか、そういった学校を造っていかないと、こういったことはどうにもならない。
まずは山城や摂津といった畿内各国に学校を設置して、その効果を朝廷を始めとする周囲に見せて、日本中の各国に造っていこうということになった。
更にそういった見本の学校には、それなりの教育を受けた者を配置しようということになった。
つまり、中学校を卒業した者をまずは教員にしようということになったのだ。
上官命令だ、黙って従って当然だな」
最後は如何にも皇軍らしい言葉で、中隊長の言葉は締めくくられ、私に拒否権がある訳がなく、私は摂津に新設された小学校の教員(それも校長)として赴任することになった。
更に要らぬことを言えば、流石に最初の年だけだったが、この小学校の教員は校長の私一人だった。
それくらいの泥縄で大量の学校を造ろう、という話になってしまったのだ。
何しろ学校を造ると簡単に言うが、教科書も必要だし、それなりの児童生徒が集う場所も必要だ。
又、時代が時代だけに子どもと言えども貴重な労働者なのだ。
例えば、私が行ったところは、石山本願寺(最も私の記憶では2,3年で本願寺は京へ移転していった)の門前町だったので、特に農繁期だからといって休校にすることは無かったが、農村部に造られた学校では農繁期には農業休みがあるのが、当時は当たり前だった。
そして、10歳になる前でも自分の食い扶持を少しでも稼げ、と親が子どもを働かせることは当然のような時代だったから、尚更、学校に児童を集めるのは困難を極めた。
私は1軒、又1軒と児童のいる家を回っては、学校に来るように促した。
門前町だったことから商工業に従事している親が殆どで、学校に行けばタダで読み書き算盤等を学べると私が言うと、子どもを学校に行かせることに前向きになる親が多かったのは幸いだった。
何だかんだ言っても、商売をするとなると読み書き算盤は必須に近い、そして、職人にしても工賃等を誤魔化されないようにする必要がある。
そして、本当は良くないかもしれないが、学校に行っていない兄姉が学校に来るのも、人を少しでも集めるために、私は認めるべきだと考えて、それを政府に上申したところ、同じ考えの者も多くいたようで、それが結果的に認められることになった。
あれ、本編では佐藤先生は上等兵では?
と言われそうですが、上等兵になってすぐに退役したということでお願いします。
(戦国時代に来ているので、気分の問題に近いですが、佐藤先生にしても上等兵になって退役したという誇りをもって教員になりたかったのです)
ご感想等をお待ちしています。