第15話
佐藤希典は、色々と上里家のことを考える内に、今の世界のことまで想いを巡らせていたが。
ふと、織田信長のお市らのことにも佐藤希典の想いが及んでいた。
上里家の兄弟姉妹の長姉の美子と織田信長が結婚して、初子が産まれた頃にお市が兄の信長の言葉に誘われて尾張から兄夫婦の家に同居することになったのだったな。
(この頃は初等女学校にしても畿内にしかない有様で、お市が小学校を卒業した頃に尾張に初等女学校ができているのか、微妙だったという裏事情もあります。
信長としては、お市を初等女学校にも通わせたいと考えて、自分の下に呼んだのです)
そして、織田信長夫妻の当時の借家も、佐藤希典が校長を務める小学校区内にあって、お市は自分の教え子と言えるな。
又、織田信長夫妻の子の一部、徳子や信忠らも自分は教えたことがあるな。
(この際に余談をすれば、織田信長夫妻は美子が尚侍に任じられる1568年の夏まで、子どもらと共に小学校区内に住み続けて、佐藤希典のいた小学校に子どもは通うことになりました)
希典は更に想った。
「天下一の美人」は誉め過ぎにしても、お市が自分が見て来た教え子の中でも指折りの美少女だったのは間違いなかったな。
そんなお市が史実同様に浅井長政と結婚するとは、だが、史実と異なって夫や子どもらに包まれた幸せに恵まれて生涯を送り、終には事実上はローマ帝国の皇太后的な立場まで上るとは。
本当に歴史というのは不思議に満ちているものだ。
美子は完全に別格として、お市も「皇軍来訪」で想わぬ幸せを掴んだ存在と言えるのではないか。
小学校時代のお市に、今のお市の立場を伝えたら、先生、冗談にも程があります、ローマ帝国ってどこの国のことですか、と言われるのは間違いないが、本当にそうなっているのだな。
又、織田信長の長女の徳子も、自分にとっては印象に残っているな。
気の早い父親の信長に小学生の間に徳子は、徳川家康の長男の松平信康と婚約させられて、史実のような悲劇に遭わねばよいが、と私は考えたが。
史実以上の波乱の人生を送っているようだ。
そういえば、何かの雑誌記事で、3人目にようやく男の子が産まれるまで、姑の瀬名から男の子を産め、産めないなら愛妾を信康に自ら勧めろ、と私、徳子は責められ続けた、と書かれていた。
北米独立戦争の真っ最中で、夫の信康はしばしば前線に赴く有様で、夫は無事に帰ってくるだろうか、と娘達の面倒を見ながら気を揉む有様なのに、と私は腹が立って、義理の叔父になる上里清に両親への手紙を託して送ったら、父の信長は慰めの手紙を私に送ってきたが、母の美子は姑に味方する手紙を私に書いてきた。
それで、母と私は大喧嘩をしてしまい、父や夫が仲裁に年単位を掛ける騒動に発展したとか。
雑誌記事なので大袈裟に書いているのだろうが、私にしてみれば、この世界でも瀬名と徳子(五徳)は仲が悪いのだな、それにしても美子も美子だ、娘に夫に愛妾を勧めなさいと手紙を送るとは、と呆れる想いがしたのを思い出すな。
そんな大騒動もあったが、信康と徳子の間の3人目の子が男の子で無事に成長したことから、瀬名と徳子の仲は未だによろしくはないが、瀬名が徳子を責め立てることは無くなって、信康夫妻は未だに仲良く暮らしているとか。
又、美子と徳子の母子の仲も、信長及び信康の懸命の仲裁で何とか修復された、と後追い記事には書かれていた。
(尚、その記事に出てくる信康によれば、徳子と瀬名の仲を直すよりも、徳子と美子の仲を直す方が遥かに手間取ったそうである)
希典は想った。
本当に自分が信長の妹や子どもらの教員を務めることになるとは、この世界に来るまで思いもしなかったことだな。
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