第14話
そんな想いを私は6年程も続けることになったが、最終的には日本本国にオレゴンとカリブ諸島を事実上は割譲して、ロッキー山脈以東の北米大陸は独立して北米共和国になるということで、北米独立戦争は終結することになった。
そして、北米独立戦争終結に伴って多くの若者が復員した結果として、私はようやく教員を定年退職して年金生活に入ることができ、更に隠居することにもなった。
幸か不幸か、私の子どもやその配偶者からは、北米独立戦争による戦死者や後遺障害が遺った戦傷者は出さずに済んだ。
だが、その事は却って私の内心では重荷になった。
何しろ私の教え子が銃を向け合い、それでお互いに死傷者を出しあったのだ。
このことについては、皮肉なことに「皇軍来訪」以前から生きていた人達の方が割り切っていた。
それは考えてみれば当然で、「皇軍来訪」以前の日本は戦国時代であり、建前は身内同士の争いは避けるべきだと言いつつも、実際には流石に実の父子での抗争は稀だったが、兄弟を始めとする身内の抗争は日本国内においてはそれなりにあったのだ。
だから、そういった人達から、
「校長先生、そんなに思いつめないで下さい。身内同士が戦って血を流す等、よくあったことだ」
と私は何度か慰められたことが実際に起きた。
でも、私にしてみれば、身内がほぼ無傷で済んだことが却って気に病まれてならなかった。
そうしたことから、出家遁世までの決意はできなかったが、私なりにケジメをつけようと、定年退職後すぐに長男に家督を譲って隠居したのだ。
かくして私は1581年からは楽隠居生活を送ることになった。
私にしてみれば還暦を過ぎ、数年もすればあの世からお迎えが来るだろう、とも考えていた。
だが、皮肉にもそれから15年も経つが未だにあの世からのお迎えは来ない。
私が楽隠居生活を送る間にも、日本の国内外の状況は色々と動いている。
例えば、1582年に織田信長は衆議院選挙で落選して政界から引退することになった。
(その一方で皮肉にも、それを機に織田(上里)美子は尚侍に復職して木下内閣誕生まで尚侍を務め上げ、木下内閣誕生に伴い尚侍辞職後は貴族院の最重鎮議員として今でも職務を遂行しているのだ。
本当に一部の新聞記事で、九尾の狐に美子が例えられるのも当然の気が私にはする現状だ)
そして、1582年に保守党が主導する島津義久内閣が成立し、1590年には労農党が主導する木下小一郎内閣が成立し、という政権交代を日本本国は経験することになった。
北米共和国にしても、正式な独立に伴って憲法が制定され、大統領制と議院内閣制が組み合わされた政治体制が造られた。
1582年に徳川家康が大統領になって政権運営を行ったが、1594年の大統領選で武田義信と和子の間の長男の武田信光に敗れた結果、1596年現在は武田信光が北米共和国大統領になっている。
だが、それ以上に驚きの事態と言えるのが、(東)ローマ帝国の復興だろう。
織田信長の妹のお市は史実同様(?)に浅井長政と結婚したのだが。
その二人はエジプトに赴くことになり、エジプトでワーリー(総督)に長政はなったのだ。
そして、私には冗談としか思えないが、その二人の息子の亮政はローマ帝国最後の皇帝コンスタンティヌス11世の血を承けたイヴァン雷帝の娘エウドキヤと結婚した。
更にはエウドキヤを浅井長政夫妻らは援けて、ローマ帝国を復興させたのだ。
そのローマ帝国は昇竜のような勢いで帝都ローマを奪還して、東西教会の合同を成し遂げ、ロシアの大地を自国領にしようと現在もしている。
本当にこんな世界になると、「皇軍来訪」時に誰が考えられただろう、と私は想いに耽ってしまうのだ。
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