第13話
勿論、織田信長首相にしても、親友の徳川家康(松平元康)や自らの縁戚になる武田義信夫妻らが、北米植民地の指導者と言える以上は、北米植民地が独立戦争を起こすようなことがないように配慮をしていて、例えば、妻の美子を始めとする上里家の家族と和子らが逢って話をする場を作って、外国人年季奉公人禁止法案は、日本本国のみに適用するもので植民地に適用しない、と内々に話をして、更には法律の前文に謳うようなことまでしていた。
だが、その直前に近衛前久が空気が読めない行動を執っていた。
大日本帝国憲法発布に伴って、植民地に現住している「皇軍来訪」以前の有力者である足利将軍家や伊達家等にして、官位の大盤振る舞いを今上陛下に上申していたのだ。
その理由だが、表向きは「皇軍来訪」に伴って起きた出来事によって、日本本国を離れて植民地開拓を行った足利将軍家等に官位を与えることで、「皇軍来訪」によって生じた遺恨等を完全に水に流すという理由だったと私は覚えている。
しかし、このような官位の授与を行っては、豪州や中南米大陸の有力者には官位が授与されるものの、北米大陸の有力者には官位が授与されないという事態となり、更なる北米大陸の住民に憤懣を引き起こす事態になるのを、近衛前久は理解していなかった。
というか、スペインとの講和条約締結の際等に、北米植民地の様々な暴走の後始末を結果的にせざるを得なかったことから、近衛前久にしてみれば北米植民地の有力者に官位を与える等、トンデモナイという考えを抱いていたらしい。
(実際にこの頃までの北米植民地の様々なやらかしを考えれば、近衛前久の考えも当然といえる側面があったのも間違いなかったが)
だが、このことが和子やその周囲の堪忍袋の緒が完全に切れる事態を引き起こした。
智子の夫の伊達輝宗に従四位下の官位が授与されたことから、姉妹の中で和子やその夫だけが官位が与えられないという事態になったのだ。
自分としては一生懸命に日本の為にと考えて頑張ってきて、自分の周囲は実際に血を流してきたのに、日本本国は官位を与える等の恩典が無いとは何事なの、更には外国人年季奉公人を禁止しては、北米植民地の日本人に死ねというようなもの、と和子は思い詰めてしまい、更に和子の言葉を聞いた夫の武田義信や徳川家康(松平元康)らも、和子に同意したことから。
外国人年季奉公人禁止法が制定されることをきっかけに、終に北米独立戦争が起きる事態にまで至ってしまった。
そして、私としては心身ともに色々と痛めつけられる事態が起きた。
例えば、些細なことと言われそうだが、私は1575年には定年退職する筈だった。
だが、北米独立戦争勃発に伴い、多くの若者が北米に兵士等として赴いた結果、私は定年退職を許されず、北米独立戦争終結まで教壇に立ち続けることになってしまった。
それから、言うまでもないことかもしれないが、北米独立戦争は結局は日本人同士の内戦という側面があった。
だから、私の教え子同士が戦場で銃撃を交わす等の事態が起きた。
(私の教え子の殆どが日本本国側に立ったが、少数とはいえ和子を筆頭に北米植民地側に立って戦った者もいたのだ。
更に言えば、北米植民地内部でも独立派と勤皇派が分かれて、徳川家康と松平信康のように身内で銃を向け合う事態さえも起きた)
そして、そんな事態が起きれば、当然のことながら戦死傷者が出ることになる。
私は教え子が戦死したと聞けば、出来る限りは葬儀に出席して香典を包んだが。
その度につらい想いがした。
何しろ独立派の首魁の一人の和子は私の教え子なのだ。
何故に私の教え子同士が戦って戦死者が出ているのか、と本当に辛かった。
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