第11話
ともかく1568年頃に起きた様々な出来事が、上里家の兄弟姉妹、特に美子と和子の仲に決定的な亀裂を生じさせ出したのは間違いない事だったように、私には今になって思われてならない。
更に言えば、この前後に上里敬子が九条兼孝に見初められて、琉球王国の三司官の養女になった上で摂家の一つである九条家の正室に迎えられる事態が起きたのだ。
私の記憶が前後してしまうが、1562年に日本とスペインが戦争に突入した直後の頃に、上里智子は伊達輝宗との縁談が調い、更に伊達家を旗頭にして奥羽越や北関東の諸勢力は南米大陸への入植を徐々に図るようになっていったのだ。
それこそ北米大陸やカリブ諸島への入植を行ったのは、最初は松平(徳川)家や水野家であり、それを東海や南関東の諸勢力や本願寺門徒、法華宗不受不施派信徒の面々が後追いしたのだが。
東日本でそれを間近で見せられて出遅れた奥羽越や北関東の諸勢力は、南米大陸を目指したという次第になる。
そして、1568年頃のスペイン(及びポルトガル)と日本の講和条約締結により、日本は南北米大陸を順調に植民地化していける体制を整えることになったのだ。
(又、言うまでもないことだが、豪州大陸等には足利将軍家や関東公方家等が入植を果たしていた)
ともかくこういった九条家との婚姻関係等から、上里松一は従四位下に叙せられ、更に松一と愛子の間の子は相次いで公家と結婚していった。
上里清は広橋理子と、上里丈二は甘露寺氏と、上里里子は中院通勝と結婚したのだ。
和子にしてみれば、美子の一件が無ければ、愛子母さんは正妻なのだし、九条家との縁があるから、愛子母さんの子が公家に縁づいてもおかしくないしで、そんなに癇に障ることはなかったと私は想う。
だが、美子はそれこそ和子にしてみればダメ人間にも程がある姉で、日本人の血は一滴も流れていない姉でもあった。
そんな姉が、今上陛下に近侍する宮中女官長である尚侍になり、公卿(閣僚級)に伍する従三位に叙せられ、更には清華家でも名門の三条家の当主代行になったのだ。
その一方で、スペイン戦争で文字通りに血を流し続けた自分達に官位の沙汰等は全く無かった。
血を流して祖国日本のために自分達は尽くしたのに、何故に官位の沙汰等の恩典が無いのか、和子やその周囲、武田義信や松平元康らは、この件で不満を抱いたようだった。
更に日本の植民地は余りにも急激に広がり過ぎていた。
幾ら汽船が実用化され、帆船しか無かった時代に比べれば、格段に世界は狭くなったとはいえ、何しろスペインに代わって、太陽の没することのない帝国に日本はなりつつあったのだ。
しかも「皇軍来訪」から30年も経っていない内にだ。
世界史でこれだけ急激に拡大したのは、それこそモンゴル帝国くらいのものだろう。
それでさえ、ユーラシア大陸内に止まっていたが、日本の場合は、文字通りの地球規模だった。
そして、急激な日本の植民地の拡大の歪みが最も大きく出たのは、北米植民地だった。
対スペイン戦争の副産物等として、ヨーロッパやアフリカから大量の年季奉公人が南北米大陸の日系植民地に流入する事態が起きたのだ。
中南米植民地は、それなりに日本軍の庇護の下で植民地化が進められたので、日本政府の統制が働いたが、北米植民地はそれこそ植民地化の発端からして、文字通りに政府に頼らずに自力で拡大を果たしていった植民地だった。
そうしたことから、積極的にヨーロッパやアフリカからの年季奉公人を受け入れて植民地の開拓を自力で進めてどこが悪い、という空気がいつか漂うようになっていった。
奴隷より年季奉公人の方が文明的だという主張さえ公然と言われる有様だったのだ。
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