第10話
日本とスペインとの大規模な中南米を舞台とする戦争は6年程も続いたが。
この戦争が勃発した直後の頃から、武田(上里)和子は北米で夫の武田義信や松平元康(後の徳川家康)らと共に、北米の現地における主戦論者として名を馳せるようになった。
それも唯の主戦論者では無かった。
それこそ満州事変や日中戦争を経験したある皇軍の元士官の一部にさえ、
「我々のしたことが児戯に等しい」
と言わせる程の暴走を和子やその周囲は行った。
何しろ自分達で銃砲や機帆船を製造して、更に義勇兵を調練して、カリブ諸島へ侵攻したのだ。
「米が採れなければ、米が採れる土地をスペイン等から奪えばよい」
を合言葉にしての侵攻作戦だった。
そして、カリブ諸島を制圧した後はスペイン本土への侵攻作戦を独断で発動して、和子やその周囲はジブラルタルを占領してしまった。
事ここに至っては、さしものスペインも日本との屈辱的な講和条約を締結せざるを得なかった。
(何しろ欧州大陸以外の領土を全て日本に割譲して、更にその領有主張を永久に放棄する。
又、ジブラルタルを日本に無期限で租借させるという内容なのだ。
賠償金の支払いこそ無かったが、一時は太陽の没することがないと謳われる直前にまで至った大国スペインにしてみれば、屈辱以外の何物でもなかった)
だが、そうした一方、この頃から織田信長夫妻等が躍進したり、オスマン帝国からエジプトが半独立したりするような事態が起きる等、世界の情勢が極めて大きく動くようになり出したのも事実だった。
織田信長は大坂全労連を結成して以降、日本全土に労働組合を作ろうと懸命に奮闘を続けていた。
そして、実際に大日本帝国全労連がエジプトが半独立を果たした前後に結成されるのだが。
それ以上に私が驚かされたのが、織田(上里)美子の躍進だった。
いきなりエジプト独立戦争に対処するための日本からの特使団の副使兼エジプト在住の日本人に対して停戦を命ずる勅使に、美子は叙せられたのだ。
併せて三条公頼の正式な死後養子となり、従三位尚侍に美子は叙せられてもいる。
この当時の三条家は断絶寸前であり、美子は三条家の現当主の三条実綱の後見人兼当主代行にいきなりなったのだ。
私(やその周囲)にしてみれば、この当時の美子は本当にダメ人間だった。
(言うまでもないことだが、上里家の和子や愛子にとってもそうだった)
何しろ養父を積極的に誘惑するわ、オスマン帝国への使節団の一員に通訳としてなったら、年季奉公人のアーイシャ・チャンに全てを丸投げして、自分はアカバ港近辺で遊び回っていたとか。
和子や智子から、私は直にそう聞かされた。
そんなダメ人間が、よくもまあ織田信長の正妻を務められるものだ、それが正直な私の想いだった。
だが、地位が人を作ると言うのは、一面の真理なのだ、と私は痛感させられた。
尚侍に就任してオスマン帝国に赴いた美子は、副使兼勅使としての役目を十二分に務め、更にはスペイン王国との講和条約締結やバルバリ海賊との和平条約締結さえも、辣腕を振るった。
最終的には、近衛前久太政大臣を自らの道連れにして辞職させることまでやってしまった。
それこそ無責任な新聞記事等によればだが、この経緯というか、美子が振るった辣腕が、数年後の織田信長内閣成立の一因になったらしい。
あの美子の夫ならば首相に任命しても問題はない、と今上陛下が判断されたことから、織田信長内閣の成立という事態が起きたのだとか。
その直前に美子が再任されていた尚侍を罷免されていることからすればアリエナイと言われそうだが、その後に日本や美子の周囲で色々と起きたことからすれば、私には本当のことにしか考えられないことだった。
ご感想等をお待ちしています。
(尚、美子の描写があんまりだ、と言われそうですが、アーイシャ・チャンの一件は極秘事項なので、最初にオスマン帝国に美子が赴いた時は、美子は表向きはアガバ港近辺に留まっていて、コンスタンティノープルにはアーイシャ・チャンが一人赴いたことに公式ではなっていることから、佐藤先生も誤解しています)