第9話
そういえば、織田信長が大坂の地で労働組合を立ち上げたのも、この1557年頃だったような覚えが自分にはある。
上里智子から直に聞かされたような覚えが私にはあるが、妻の美子が子どもを3人も産んで生活が苦しくなったことから子育て支援を雇い主や政府に訴えようとして、織田信長は労働組合、大坂全労連(後に大日本帝国全労連に発展していく)を立ち上げたとか。
(尚、後々の話にはなるが、最終的に美子は信長の子を20人も産み、その全てが育つという超多産を成し遂げた。
更には出産をしながら、一時とはいえ従三位尚侍という激務まで美子は務め上げのだから、(この世界では産まれる前だが)マリア・テレジアの日本版か、と私は内心で驚くことになった。
その一方で、織田家の生活は一時は苦しく、子どもを相次いで養子に送り出すことにもなった)
尚、大坂全労連が結成されてから2年後くらいに、私も加入した。
校長という管理職が入ってよいのか、と言われそうだが。
それこそこの1557年当時でも、小学校現場では校長以外は非正規の代用教員しかない小学校が、全国的にゴロゴロある惨状だった。
私の小学校にしても、この頃に教員12人の内で正規の教員免許を持っていたのは私と教頭だけで、それ以外は1年更新の代用教員ばかりだった。
(更に余談をすれば、その教頭は20歳代前半で師範学校を卒業して3年で教頭に昇格した身だった)
そして、校長の私でさえも学級担任をする惨状だったのだ。
こんな小学校の校長が管理職だから、労働組合加入不可等は悪い冗談にも程がある。
だから、私も労働組合に公然と入って、職場の改善等を訴えたのだ。
(メタい注釈をこの際に入れると。
この世界でも師範学校を何とか作って、この頃には教員免許が正式の代物になりましたが。
どうしても中学校や女学校への教員配置が優先になり、小学校は、まずは代用教員で現場を賄うという体制が続いていたのです。
小学生を教えるのならば、年が近い中学校や女学校を卒業したての代用教員の方が、小学生も親しみを持って指導しやすいという理屈まで唱えられたこと(更にはその方が安くつくという現実もあります)から、中々、小学校の代用教員制度は廃止になりませんでした。
尚、当然のことながら、教員の労働組合は代用教員制度を批判して、全ての教員の正規化と代用教員制度の廃止を求め続けることになりましたが、北米独立戦争があったことから、その戦費問題等から織田内閣では実現ができず、木下内閣時代になって、ようやく事実上の廃止ということになりました)
そして、日本の北米植民地はこの直後の頃、それこそ上里和子が北米大陸に赴いた頃から内陸部への急拡大を行うようになっていったと自分は覚えている。
確か後奈良天皇陛下の大喪の際の千僧供養のゴタゴタから、法華宗不受不施派が北米大陸に新天地を求めるようになり、それに対抗するように本願寺門徒も赴いて、松平(徳川)家や武田家がそれらに協力して、ロッキー山脈を越えて、ミシシッピ河流域へ、更には北米大陸の大西洋岸沿いへと侵出するようになったのだ。
これに私の教え子の一部も、北米大陸で一旗揚げようと赴いていった。
だが、このことはメキシコを始めとする中南米を植民地化していたスペイン(及びポルトガル)との戦争が徐々に不可避になる事でもあった。
1562年に、とうとうスペイン軍による日本人の入植者襲撃事件が発生したことから、日本とスペインは戦争に突入した。
それまでにもポルトガルとインド洋方面で日本は戦ってはいたが、小規模な戦争だった。
だが、スペインと日本との戦争は中南米大陸を主な舞台とする大規模な戦争になっていった。
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