白さを求めて
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
ねえねえ、つぶつぶは白い肌と小麦色の肌、どちらが好き?
いや、少し前から私のいとこがブラジルに行っていて、ときたま連絡を取ったりするんだけど、向こうだとどうやら色白の人って、あまり好まれないらしいのよ。代わりに小麦色の肌が、活動的とか富裕層とかのイメージがあるみたい。
それに対して、日本人は昔から白くなることに力を入れてきたと思わないかしら?
おしろいが大陸から伝わったのは、7世紀ごろとの話。ただし材料に鉛を含んでいるものがあったため、中毒症状が出てしまうケースもあったみたいね。
けれど、鉛を含んだおしろい製造が禁止されたのは、1900年代半ばになってから。それ以降も、白さを求めて鉛を使ったおしろいは使われ続けているらしいわ。
毒という危険をものともしない、色白へのこだわり。いったいどこから生まれてくるのかしら。
ちょっと疑問に思って調べたら、面白い話がいくつか見つかったの。どう、そのうちのひとつ、聞いてみない?
平安時代までは、その多くが女性のために使われたというおしろい。
それが鎌倉時代に入ると、男性にもたしなみとして広く親しまれるようになったらしいわね。
いつ、どのような機会に「おっとり刀」でお上の前に出る羽目になるか分からない。そのときに見るに堪えない格好をしているようでは、不心得者の烙印を押されかねない。
そのためには顔をはじめとする、肌というもっとも人目につく部分にこそ、目をかけるべき。じょじょにそのような考えが武士たちの間に広がり、女房たち以上におしろいを求める姿が見られるようになったとか。
とある武士の家系でも、おしろいが売り出されると大いに買い込んでいたわ。
彼らの家は代々肌が浅黒く、白さを至上とする一部の者からは、すでに疎まれる気配すら漂っていたらしいの。それを拭うため、常日頃おしろいを欠かすことなく、その身へつけていたとか。
ただある代で生まれた次男坊の肌は、とりわけ難儀なものだった。
朝起きてから、髪を結うのに合わせて、おしろいを塗る彼。けれども格別な汗かきである彼の化粧は、ひどい時だと施した端から、汗と一緒に流れ出してしまうという、極端なものだったとか。
弓馬の稽古をした後もしかり。彼は普段よりおしろいを懐へ忍ばせて、ことあるごとに肌へ塗っていたのだとか。
やがて父から長男へ家督が移ると、次男である彼もその補佐として、外へ出る機会が増える。殿のお召しから、領内の治安維持まで大小の仕事を任せられて、汗を多くかかない日は珍しくなってしまうほどだったとか。
そんなある日。
いつもひいきにしていた、おしろいを売る商人が彼らの地域を訪れなくなってしまったわ。交通の便の問題、販路変更の都合など、理由はいろいろ考えられるけど、はっきりしたことは分からなかった。
かの家ではもともと多めにおしろいを用意していたけれど、それもいよいよ底をついてしまう。借りを作ることをよしとしない家の方針もあり、彼もまたおしろいを使わない日を迎えることになったわ。
最初の数日は目立った問題はなかったものの、真っ先に変化へ気がついたのは、本人だったわ。
寝る時には、薄い肌着一枚になる彼は、朝起きた際に自分の左太ももが、他の部分に比べて、一段黒くなっているのを見たの。
ももの裏側にまでは達していない。色が変わってしまったふちも、果実がそこで落ちて潰れたかのような、ふぞろいのもの。シミが広がったのと同じような感じだった。
そして、その部分が熱を持っている。
手を置くと、じんわりとした温みが掌全体へ伝わってくるほど。けれど動かす分には支障はなく、痛みもない。
この程度で騒ぎ立てるのも、皆の迷惑だろうと彼は黙っていたみたいね。実際、服と鎧を着込んだのなら見えない位置にあり、とがめられることはなかった。
けれども、おしろいを再び買えるようになるまでの半月の間で、彼の肌は他にも、すねや肩、脇腹や襟足の上など、目立ちづらいところに現れ続けたの。言及されることを避けたがる、彼の気持ちに応えるかのような展開の仕方でね。
そして、先に現れたところほど、そこが持つ熱はどんどん増し、その範囲も広がりつつあったわ。
最初に現れたももの黒肌は、心配していた通り裏側へ広がってしまったばかりか、膝の下、腰骨の近くにまで及ぶ。そしてそこへかぶさっていた服の生地にまで、黒い汚れが浮かぶようになってしまったの。
彼自身、だいぶ参っていたようね。
訓練でケガをしたように装い、刃物をあてがって皮を少しはいだことさえあったそうよ。それも血が止まり、新しく皮が張ってくると、すぐさま黒々と染まってしまったらしいわ。
いよいよ尋常ではない様子に、彼は兄に相談。いくつもの寺や神社をめぐって指示をあおいだところ、何人かの僧から写経と読経をすすめられたらしいわ。
それぞれ宗派の異なるところながら、写すように指示された経本の中身の文字は同じ、という奇妙な事態。しかも、この作業は屋敷の中ではなく、人里を離れた山の中などの堂で行うべきとも教えられたわ。
そうしている間にも、いよいよ全身には黒々とした肌がひしめきつつある。
家中の者には山籠もりする旨を伝え、彼は小山の中に草庵を構え、人の背丈以上に厚い厚い経本の写しにかかったわ。どれほど慣れた者であっても、数日はかかると僧たちからは聞いている。
一日の朝と晩ごとに、事情を知る家の者が彼の様子を見に来て、水や食べ物、必要に応じて紙や墨を置いていく。彼もまた早く復帰をするべく、来る日も来る日も、一歩も外へ出ることなく、経本の写しに励んでいたのだとか。
そして、籠ってより7日目を迎えた朝のこと。
家の者が草庵への山道を歩いていると、不意に正面からまぶしい光が目をさした。
刃物のきらめきを思わせながら、瞳の奥まで突き通る強い光は、山肌の一点。かの草庵のあるあたりから発せられたの。
家の者は行く道をひた走り、草庵の見えたところでもう一度、強烈な光にさらされたわ。
草庵のすき間というすき間から飛び出した光は、これもまた一瞬だけの出現で、長々とその場にとどまらない。けれども幾筋もの光は、周囲にある木々の葉、一枚一枚を貫いていったかのように思えたわ。
それからひと呼吸をおいて。
草庵と、先ほど光に射られた葉たちは、たちまち赤い炎に包まれたわ。
あっけにとられる家の者の前で、火だるまと化した草庵から抜け出してきたのは、写経に望んでいた彼の姿だった。
服や髪のあちらこちらから煙をあげながらも、彼の状態はある意味、ただ焦げるよりもひどかったわ。
彼は主に、シミのあった体の各所から血を流していた。
家の者の前で倒れ込んだ後も、ときどき思い出すかのように、どくりと噴き出す血は、まれに小さな火をまとっているようにも見えたとか。
家の者の応急処置と、家へ連れ帰られてからの手当てによって、どうにか一命を取り留めた彼。けれども、かつて皮膚が黒々と汚れ、いまは血を多く流した体の各所には、肉すら残らない穴が穿たれたまま、残されてしまったわ。
見た目には底が見えないのに、ちょっとした刺激で穴にはたちまち血が満ちて、身体の外へと逃げ出さんとしてしまう。それはたちまち、彼に多量の失血を強いて、体を病ましめる。
武士としての彼は、ほとんど終わりといえたわ。
僧たちいわく、あの黒々とした肌は奇相のあらわれ。
あの黒はあらゆる光を内へため込んでいる証であり、それが極限まで達してしまうと、内から弾け出てしまうらしいの。その主の身体を、燃やし尽くしながらね。
写経と読経は、その光たちを進んで逃がすためのまじないだったのだとか。しかし、これまでに溜め込んだものが多かったがために、命を取り留めながらもこのような事態に陥ってしまった、とのこと。
そしてもし、おしろいでもよいから肌を白く保ち続けられたならば、防げた公算は十分にあったとも。
以来、これまで以上におしろいの存在は重んじられ、用いられる機会を増したとの話よ。