36.風邪ひき諒さん、かーらーの
経理課の課長は、ものすごく人の好さそうな、ひょろっと小柄なおじさんです。ニコニコと温厚に人当たりよく、あれでどうやって銀行の融資担当(クソ野郎)と渡り合ってんのか謎なんだけど、とりあえず我々部下としては、頼れるんだか頼りないんだかよくわかんないけどなんとなくどうにかなるかなーくらいには信頼をおける、平たく言うと、そこそこ尊敬できる上司、というやつです。
今日いちにち、何か言いたげにちらちら私の顔を見てくるので、あーすんませんお察しの通り諒に風邪うつしたの私です。とか、ちょっとばかり後ろめたく思ってたんだけど。
終業30分前くらいに「あい子さん、ちょっと話あるんだけどいいかな?」って会議室に呼ばれたんですね。
「もうさー。話切り出すまで長い長い。えー、とか、あのー、とか、ずーっともじもじ言いあぐねて、」
「で、なんだった?」
「んっとね、結論からいうと、他部署への異動の打診でした」
「……異動」
課長がいうには、
「えー。あのー。えっと、ですね。プライベートなことには詮索したくないんですが。あー、参ったな。まあ、その……先々のことを考えて早め早めの対処を要するとなると、相談しておくべきかなーと思いましてね。あー、あのー、えーっと、」
(落ち着いてくださいよ。と内心でツッコミ)
「あのあの、えっと、あい子さんは、高橋さんと交際してるんだよね? その、結婚の予定とか、あるのかな? あーごめん、答えなくていいです、今日は、今日のところは、とりあえず可能性の話だけしとこうと思って」
と、なにやら言い訳っぽい感じで早口気味にかまされたんでした。
「んっと、つまり、課長の話としてはさ。
今、経理って課長と部下5人の6人体制じゃん? 例えば、私と諒が結婚したりすると、冠婚葬祭でふたり同時に欠勤、なんてことも考えられるでしょ? 6人のうち2人休まれるとカバーすんの厳しいよね」
「……ケッコン」
「あーごめん。例えば!可能性として!ってそこは課長にもめちゃめちゃ謝られた。
でも、“今だって、例えばいっしょに旅行したり計画立てようと思ったら難しいでしょ?”とか、なんかいろいろ考えてくれてるみたいでさ」
「他にも、結婚して子どもができたら、産休育休とか育児時短とか子育てとか子ども関連の行事とか、なんかものすごい展開広がってくんで、止めるのタイヘンだった。
……あの、これさ、私、結婚迫ってるわけじゃないからね? 課長が先回りしまくってて」
言い訳を挟むと、諒も心得顔で頷いた。
「……いや、うん。わかるわかる。年頃の部下がふたりつきあってりゃ、上司として先々のこと考えるよな」
「もしそうなったら、部署の人員が限られてる以上、同じ部署に夫婦がそろって在籍するよりは、どちらかが他部署に異動したほうが、業務もプライベートも分担しやすい。ってことみたいよ?」
「で、異動となると、課長ひとりの判断だけじゃなく他部署との連携とる必要もあるので、早め早めに考えなきゃならない、と、そういうわけかな?」
「そうそう、そういう話。すごかったよ、「もしも」「可能性」って言葉、今日いちにちで3年分くらい聞いた。そのうち諒にも同じ話すると思うけど、できれば相談しといて、って言ってた」
ふーん。と、諒はなんともいえない表情で黙り込んだ。別に困ってるとか不機嫌とかそういうんでもないみたいなんだけど、ちょっとよくわからない。
我々が勤めてる会社は、社員200人くらいの中小規模で、通信インフラとかの施工を請け負う会社です。
はっきり言って給料はそんなに高くない。かといってあんまり待遇が悪いと従業員は長く続かず、入れ替わりが激しくなっていちいち社員教育するのがタイヘンだし、情報もれのリスクもある。
というわけで、会社の考えとしては「給料以外の条件はがんばるからうちで働いてください」という基本姿勢であるらしい。
なので、職場の設備環境や休暇制度などの福利厚生、要するに“会社の居心地”的なことはわりと(お金がかからない範囲で)融通してもらえる社風なんだよね。
そういう前提で、今回も異動の可能性に際して、希望の職種とか部署とか、わりと丁寧に相談してくれてる、という次第なのでした。
「もし異動するとしたら、どっちが異動するかは、ふたりで話し合って早めに希望を出してもらえると検討しやすい、って課長言ってたよ」
まあ、異動するとしたら私だろうなあ。
諒は税務や金融関係の資格をいくつか持ってるし、たぶん将来的には経理課の中心メンバーに考えられてるだろう。
私は短大の商業科出身で、お金関係専門というより、経理を含めた事務や情報処理全般的な職種に適するタイプ。なので、総務課とか、施工課や資材管理課の庶務とかもアリだ。私としても特に経理職にこだわりがあるわけじゃないので、異動も問題ないと思う。
なんていうことは当然、課長も諒も考えついてるだろう。
諒はまだ黙り込んでいる。なんか考え事してるらしい。
まあ、今の段階であれこれ言ってもしょーがないかな、と、放っておいてみたけど、病み上がりで本調子じゃないんだから益体もないこと考えてないでさっさと寝かしつけたほうがいいかな。
今日はもう薬飲んで寝ろ。と、声かけようかと思ったところで、諒はおもむろに私に向き直った。
「あい子」
やけに真剣な表情で。
「結婚しようか、俺たち」
おおーぅ。プロポーズだ。なにこの急な展開。ドラマみたい。マジか。




