道化師と騎士団長
ミケーレ騎士団長は、三年ほど前からこの王城に棲み着いている道化師のことがひどく気にくわなかった。
「やぁやぁ、これはこれはミケーレ・アロンくんじゃあないか。がははははは」
だから後ろから老人の声に呼び止められた時も、すぐに返事をせずに慎重に振り返った。
「……バルファ伯爵は、そこまで下品な笑いかたじゃないぞ、道化」
「おやぁ、今回は引っかからなかった」
目を寄せた奇妙な顔をして、仮面をつけた道化はおどけて舌を出す。
前の国王の妹君の夫……つまりは現王の義理叔父という王位継承権者である伯爵をそこまでコケにするなんて、いくら道化師という特権的な立場であっても、世が世なら斬首だったのではないだろうか。
道化は男の声真似も女の声真似も自由自在で、十三人いる騎士団長の中で最年少であるミケーレは、その生真面目すぎる性格が災いしてかイタズラの格好の餌食にされた。
小麦色の癖っ毛を騎士らしく長く伸ばしているミケーレの、襟足を束ねている青いリボンを、つんつんと引っ張られる。
「いい加減にしろ!」
ここが城の廊下だということも忘れてつい殴りかかったが、道化は腹が立つほど明るい笑顔のまま、ぐんにゃりとよける。
その敏捷さは若者のようにも思えたが、
「ミケや、頭が固いと幸せをのがしますぞ」
言ってる内容は年寄りくさい。この、地声だとしている柔らかいハスキーヴォイスだって、本当に素の声かどうかは分からない。
真っ白な化粧は厚く、目元を覆っている仮面は曜日ごとに違う色とデザインで、今日は太陽の日である黄色だ。よくふくらんでどこまでが身なんだかもよく分からないダボダボの服と厚底の大きな靴で、風船のように跳ね回り、軽快にタップダンスを踊る。孔雀の尾羽のようなカツラをつけて、実際の身長も、男か女かも分からなかった。
周囲を通りかかった貴族たちは、その滑稽なしぐさに笑い転げたが、ミケーレは、仮面の下からこちらを見つめる深い翡翠の双眸が笑ってはいないように思えて気にくわない。
舌打ちをして道化を貴族たちの輪に取り残すと、予定通りに国王の私室へと向かった。
「陛下」
ノックをし、入室の鐘も鳴らしてもらったはずだが、四年前に戴冠した賢君エルネスト陛下は、愛する妻であるロレッタと、甘い甘いキスの真っ最中だった。
「しっ、失礼」
「あら、騎士団長さま」
先に気付いたのは王妃だった。恥じらいに頬を染めて陛下から身を離すと、夫のジャケットの袖を甘えるように引っ張る。ふだんは色白のその指先まで赤くなっている。
赤みがかった金の巻き毛は、公務の時にしか結い上げられることはない。大きなペリドットのような明るい緑の瞳も童女のような顔立ちも、とても人妻には見えなかった。彼女は夫よりも古く濃き王の血筋であったが、未婚の頃からお高くとまったところがまったくない。
ミケーレはわき起こる憧憬を無表情の下に押し込めながら、王に固い敬礼をした。
「どうした、ミケ?」
こちらに振り向いた王は闇色の髪と青い瞳をした大柄の美丈夫だ。整った顔立ちにはいつも穏やかな微笑みがあり、動作もどこかゆっくりとしている。反国王派からは影でコッソリ「昼行灯」「王冠よりも麦わら帽子のほうが似合いそうなクマ」などと言われている。
田舎にいたが疫病の流行によって棚ぼたのように即位したため、未だに、母親の血筋が高くないことが問題にされている。
「……いえ」
執務室まで彼を護衛するために来たはずだが、続いてするりと出てきたのはどこか八つ当たりめいた違う言葉だった。
「そうだ、あの道化を、クビにしてください」
「おや、また何かやられたか?」
なぜか楽しそうに返される。そういえば陛下が街で道化を拾ってきたのだった。
「ミケや。お前は有能でいい奴だが、少しはあの道化の柔軟さを見習ったほうがいいぞ」
「ああいうのは、柔軟じゃなくて『いい加減』って言うのですよ! ついこのあいだも、ボージョン男爵から果物を預かっていたのを忘れて、腐らせたではないですか!」
男爵も男爵だ。陛下になかなか謁見できない立場とはいえなんであんな奴に預けたんだ。
「おお、そんなにディディ果が食べたかったのか。悪かったなぁ」
「そういう問題じゃございませんっ」
頬を赤らめて後ろに下がり、頭を子供のように撫でようとした温かい手からのがれる。
ディディ果は生で食べては毒と渋みがあるが、上手に処理をしたものは舌がとろけそうなほど美味い。確かにミケーレの好物ではあったが、怒っているのはそこじゃない。
だから国王が、
「そうだ、ディディ果の旬もそろそろ終わるな。代わりに新鮮なものを食べに行こうか!」
と、叫んだときはあっけにとられた。
「ちょっ、だって陛下、中庭に毒蛇の死骸を捨てた犯人も、蜂を引き出しに入れた犯人も、バルコニーの手摺りに傷を付けた犯人も、まだ特定されてな――」
「なぁ、このところ政務続きで休むヒマすらも無かったのだもの。ロレッタもたまには息抜きしたいであろう? そうだそうだ、二日間ばかり、少し遅れての新婚旅行と洒落込もうではないか」
「まぁ、陛下……素敵ですわ」
「では明日にでも出発しよう」
ふたたび、世界に二人きりだけとでもいうように、互いをその瞳に映しあう。
「はいっ!? 明日は午後イチから王妃様は占い師のローライ夫人のお茶会に招待されて――」
「息抜きぃ、大いに結構!」
隣で叫んだのは、いつのまにかこの部屋に入ってきていた道化だった。道化師という職業の権限とはいえ、心臓に悪い。
「ちょっと、待てって!」
「ならばこの道化が行き先の手配をいたしましょう。せっかくの息抜き旅行なのだから、ミケーレ団長も内緒にしてくださいよ? まあ、あんたの不器用なぐらいに生真面目で口が固いところなんかは、信じていますがねえ」
道化は、その男か女かも分からない声でまくしたてると、悪魔のように笑った。
※
さっそく翌朝、まだ早いうちからミケーレは出発することになった。
「やぁやぁ、これはこれはミケーレ・アロンくん、外で会うとは珍しいな。年寄りのように早いねぇ」
「! バルファ伯爵……」
厩に向かう庭で声をかけられて、慌てて端に寄って頭を下げる。
上品な白髪の紳士は、ミケーレの乗馬姿に目を止めて小首をかしげた。
「昨夜、陛下の御愛馬を念入りに手入れさせていたようだが、どこを視察に回るのかね。当初の御予定にはなかったはずだが」
内心で道化を罵倒する。陛下の予定を空けるのに領地の視察という言い訳しか思いつかなかった。そもそもウソは苦手なのだ。
「あの……、陛下がお決めになるそうです」
道化と相談していたようだが。
ギリギリ虚言ではないレベルだが、伯爵はそれがヨメ連れの新婚旅行だとまでは気付かずに納得した。「うむ、気をつけてな。うはははははは」ねぎらいの言葉まで残して背を向ける。ミケーレは安堵のあまりに崩れ落ちそうだった。
温和な国王派でよかった。本来の仕事を放り出して外に行くのだ。見つかった相手が、陛下の幼い甥を擁立しようとする公爵たちだったなら、いったい何を言われたやら。
※
「それであいつは、いったいどこに陛下をお連れするつもりなんだ……」
文句をこぼしながら、道化のために用意をするハメになった馬の後ろに、弁当を積む。
薄い朝もやが包む厩に現れたのは、まるで貧乏貴族のような装いをした陛下と、その従者といった風体の少年と、町娘だった。
「……?」
町娘はすぐに王妃のお忍び姿だと分かったが、そちらと姉弟のように親しい雰囲気の小麦の髪の小姓が誰なのだか、騎士団長の一人である自分にすら分からない。腕の立つ者を連れていくとは王が言っていたが……。
「今日は御一緒させていただきます」
まだ世慣れない少年らしくさわやかに微笑んだ翡翠の瞳にどこか、この状況を愉しむような色合いが浮かぶ。
「! もしかして、お前っ、道化かっ」
「おや」
小姓と国王は目を丸くした。小姓の表情がぐにゃりと、見かけの幼さにそぐわない老獪な雰囲気のものとなり、薄い唇から出て来たのはいつものハスキーヴォイスだ。
「よく判りましたねぇ、団長」
「お前がいないのが変だと、最初から思ってたんだ。色々と引っかき回すけれど、自分が引き受けたことをいきなり途中で他人に投げたり押し付けたりする無責任なことはやらないからな。むしろ、何でもかんでも鼻をツッコムほうを自重してもらいたいぐらいで」
「……」
「占い師の茶会をお断りするのは、お前が言ったように任せたんだから、ちゃんとやったんだろうな。陛下の御予定を二日間も空けて、しかも行き先を誰にも告げないっていうのが、どれだけ大変だったと――おい、道化?」
黙り込んだ道化はこちらに背を向け、道化のために用意した馬へと軽々とまたがった。不自然に思ったミケーレが首をかしげたときに、国王の声がからかうようにとぶ。
「褒められたからといって照れるな、道化」
「照れてなんて、いませんよう」
褒めたつもりはなかったのだが。
こちらを向いたのは、いつもの韜晦したような笑顔だった。耳がほんのり赤く染まったように見えたのはやはり錯覚だったようだ。馬に先に乗せてあった荷物に目ざとく気が付く。
「おやぁ、こちらのバスケットはお弁当ですか? どなたが作ったので?」
「ああ、城の厨房はまだ火を入れる時間ではないからな。うちの妹を拝み倒して――」
答える前に道化はフタを開け、並んだサンドイッチをひとつぺろりとつまみ食いした。
「勝手に、喰うなっ! しかも陛下がいちばんお好きな炙り肉は少ないのに!」
「性分なんですよぉ。いい妹さんですな」
味を褒めて、少し照れたように笑った道化は珍しく、本当に楽しそうに見えた。
「――うん、とても良いサンドイッチですな」
※
城壁を国王の権限で抜け出して、先導するのは道化だった。乗馬には縁がない庶民のはずなのにその手綱さばきは危なげがない。
街を抜けて、大きな森を横切り、主要な街道を外れると畑の間を駈けていく。
「……お前って、そんな顔だったんだな」
「あはは、これも化粧ですねぇ。道化は誰にも素顔を見せませんよ、ミケーレ坊や」
だけど、いつもの仮面を外してかつらを脱いだその横顔は、化粧の陰影では誤魔化せないほど整っている。
ミケーレはやはり男か女か判らない道化に見惚れそうな視線を無理矢理に外して、後方を振り返った。尾行してきている者がいる。まだ周囲の畑に人目があり、矢が簡単に届く範囲ではないが、馬脚をゆるめて盾になれるように国王の後ろへと動く。
「大丈夫だぞ、ミケ」
擦れ違う瞬間に、愛らしい王妃を鞍の前に横抱きにかかえたエルネスト陛下はウインクを寄越した。その呑気なようすに、お門違いの苛立ちがわき起こる。
大丈夫もなにも、毒蛇といいその他といい幾度も命を狙われているのは、どう見ても陛下だ。
叔父のバルファ伯爵がいくら周囲を抑えようとも、王位に不満を感じて暴走する配下はいるだろうし、それ以外にも公爵のように、陛下の祖父の曾孫だの甥っ子だのと、幼くとも高貴な血筋を代わりとして擁立しようとする動きはここ数年間絶えることがない。
国民たちからは賢君とたたえられ、国境の無意味な小競り合いも激減したというのに。
腰に佩いた剣を確かめる。
「……もっと慎重になってください。陛下は私たちの希望なのですから」
この人に、どれだけ多くの人間が救われたと思っているのか。陛下は目を丸くしてから、恥じらうような苦笑を見せた。
「そうだな。いつも心配をかけてすまない、ミケ。もう、そう長くないことだから……」
意味を聞き返す前に二頭の馬は、先導する道化の馬を追って大木の手前を曲がり、川にかけられた木の橋を渡っていく。
周囲の雰囲気が変わったことを感じたミケーレが慌てて正面に視線を転じると、山脈を背にして、風車の多い小さな美しい村があった。家々はかっちりとした石造りで長い年月を感じる色合いだが、木々も生け垣も手入れが行き届き、道は細かい砂利で覆われている。
村人たちがまるで待ち構えていたかのようにこの広場に現れた。みんな純朴そうで血色が良く、優しく穏やかな笑顔を浮かべている。馬から道化が飛び降りる。
「さぁさぁ、美味しいディディ果をたっぷり御馳走しますよ。陛下に王妃に団長ドノ。ようこそ、この道化の故郷へ」
「こっ、故郷っ!?」
ミケーレは叫んだ。
※
「……お前って、木の股から生まれたんじゃなかったんだなあ」
「失敬な」
ちっとも怒っていない声で、道化は笑った。
「ところで、団長ドノはこんな所で何を?」
「見張りだ、道化。追って来ている連中がいたのをもう忘れたのか?」
ミケーレは、村の入口がよく見える広場に陣取っていた。老人たちがのんびりとひなたぼっこをしていて、恰幅の良いおかみさんが畑道具を小脇に抱えて山から戻って来た。子供たちは木登りをして遊んでいる。平和だ。
陛下とロレッタさまを守るのは、今は自分たちしかいないのだ。
「道化、本当にお前は腕が立つんだろうな」
陛下が推薦したぐらいだ。それに、いつもの動きからいっても身が軽いのは確かだった。足を引っ張ることもなさそうには思える。
何のためだか、厩から出して来た別の馬を引いて通りすがっていた道化は、自分の腰の剣に視線を落として肩をすくめた。
「この村は、この国でいちばん陛下にとっては安全ですよ? なんせ陛下のお父上であるアロルド八世サマから、幼くして聡明な三番目の息子のお味方になるようにとうちの村長が直々に頼まれましたからね」
「なんだって!」
「これでも、国王直轄地なのですよう」
「いや、アロルド陛下は、エルネスト陛下が誕生されたのを御存知だったのか?」
「当たり前じゃないですか」
「だが、城での噂は違うぞ道化。さきの陛下は狩りに行かれたさいに雷雨にあい、下級貴族の城に身を寄せた。そこの妹姫と結ばれて生まれたのがエルネスト陛下だ。一夜限りの契りだったと聞いている」
道化は吹き出した。
「それはバルファ伯爵が言い広めたウソですよ。そうやって自分の手は汚さずにあちこちから煽っているんです、あのジジイの領地が何で潤っているのかは御存知でしょう?」
……国王派であるはずの、王の叔父が?
ミケーレは混乱した。伯爵の領地には鉄の大きな鉱山があり、剣や鎧の名産地にもなっている。……それが、なんだ?
道化は軽々と馬に跨がった。
「おいっ。どこに行くんだ」
「用事があるのでね。明日には陛下をお迎えに戻りますよう。この村は安全です。村の者たちがちゃあんと見回っていますから、団長も自由に息抜きなさって構いませんとも」
「できるか、馬鹿っ」
罵倒したが、馬影はすぐに小さくなり道を曲がっていった。鳥の声だけがにぎやかに聞こえる。昼にもならぬうちに取り残されて、ミケーレは呆然と立ちつくした。
※
「ほら、そなたの頬のように瑞々しい果実だ。甘い香りもよく似ている……まあ、そなたにはこのディディ果のように毒が無いが、それゆえに惹かれるやからも多くて心配だぞ」
「まあ。わたくしは陛下しか見えておりませんのに……陛下が本当にただの農夫であっても、愛しておりますわ。心から」
やっと見付けた国王夫婦は、どこかからか借りた農夫と農婦のような格好で、果実をもいで籠に入れては、いちゃいちゃとしていた。
二人からあふれ出るピンクのオーラにあてられたのか、村人たちは果樹園で遠巻きだ。
ミケーレは自分ひとりで緊張していることが馬鹿馬鹿しくなった。さすがに陛下は剣を傍から手放してはいないが、その表情も姿勢も楽しそうでくつろぎきっている。
「……まあ、いいか」
なかば無意識のうちに、自分の髪を束ねた青いリボンの端に触れていた。王だけを見つめて心から幸せそうな王妃を見ていると心臓が疼くけれど、泣かれるよりはずっと良い。
この淡い初恋はただの憧れであることを、ミケーレは自覚していた。
村人たちにならってそっと離れる。護衛をするなら、彼らがようやく楽しんでいる新婚旅行を邪魔しない場所にいたい。
見回りがてら、風車があちこちでゆったりと回るこの村の中を、ぷらぷらと散歩する。
背後が山脈なのは分かっていたが、横には幅の広い川があり、崖があり、天然の要塞のような位置に築かれた村であることが分かる。
「……道化が、安全を連呼するはずだ」
しかし、住んでいるのは兵士ではない。
自分ならどこから攻めるだろう。
戦争ならば正面からだが……。盗賊でも装うなら、比較的侵入しやすそうなあの小高い山から侵入したほうが効果的だろう。目的は村ではなく陛下なのだ。村人たちが体を張って獲物を逃がしてはもともこもないのだから、騒ぎは小さく始まるのに越したことがない。
山を昇ってきたミケーレに気が付き、山道のこぶにいた老婆がこちらに手招きをした。そのそばにいるのは孫息子だろうか。
「いいところに来なさった。陛下さんにこちらをお届けしてくれんかね?」
籠もった咳が老婆の足元から聞こえる。
老婆から差し出された紙を受け取ろうと近付いて、木々の合間に他の村人たちがいるのにも気が付いた。咳は地面の穴から聞こえる。その深いくぼみを覗き込み――飛び退いた。
とっさに剣の柄に指をかけてしまい、村人たちは困ったように眉をひそめた。
「あんた、陛下さんからぁ、なんも聞いて無いんかね? 信頼できる部下を連れてくるぅ聞いてたんだがに」
体格が良い農夫が首をかしげた。顔に大きな傷があり、よく日に灼けた古木のような手には大ぶりのシャベルの柄が握られている。
彼らが山の中に埋めかけているのは、武装した五、六人ほどの男たちの死体だ。いや、穴の底から咳き込む音もするぐらいだから、まだかろうじて生きてはいるのだろう。盗賊めいた装備からいって恐らくは、城から自分たちを尾行してきていた連中だ。
「……どういうことだ?」
「わしらは、国王直轄兵さね。この村にいる者はすべて代々の陛下の兵士であり、護衛であり、間諜であり、暗殺者なんだがや」
道化もか?
道化もなのだろう。弁当を勝手に先に口にして、『性分だから』と照れたように笑った。あれは毒味をする者としての性分だ。美味しいだの良いサンドイッチだのと嬉しそうだった。
「わかった。だが、そいつらを殺すのは少し待ってくれ。止められる殺害がおこなわれてしまうと……たぶん、ロレッタさまが悲しむ」
見せれば分かるという畳まれた紙を受け取って、きびすを返した。
※
「――盗賊どもの持ち物だと言っていたか」
夫の顔から王の顔へと戻って、国王は村人から預かった羊皮紙を吟味しだした。
「……どういう意味なのでしょうか」
その紙にはボージョン男爵の名前と花押で、王を殺害するように指示が書かれている。表向きは同じく国王派とはいえ、道化が示唆していた伯爵とは仲が悪い相手だ。二人は別々に国王の命を狙っているのか? それとも――。
目の前のディディ果の木の根元には、片腕を失ったばかりの男がキツく縛られている。先ほど山の中に埋められかけていた連中より軽装で、ただの村人の一人にしか見えない。
こいつはその仲間すらも囮にして侵入し、ミケーレが伝言を持って来た時には村人と当の国王によって倒されていたのだ。
その鼻先に国王は書面を突きつけた。
「本当は誰の指示で村に入ってきたのだ? 村に怪我人が出たそうではないか」
「見てたぜ、あの村人はわざと軽い傷を負った。本当は首を跳ね飛ばすはずだったのに。俺たちを全滅させる理由をアッて間につくりあげちまった。あいつらこそ、何者だよ」
「そんなことは、訊ねてはいないわよ」
男の目の前にちょこんと座り込んだのは、王妃ロレッタだった。その場違いな優しい声と可憐さに、男はひるんだようだった。
「ねぇ、毒を強くしたディディ果を送り届けたのも、あなたたちかしら」
「なんだって!」
ミケーレは悲鳴をあげたが、国王は驚きもしなかった。あれも男爵から預かったものだ。毒抜きがされていないことを道化が見抜き、秘密裏に片付けたということだろうか。
「へっ。そんなの知らねぇな」
「正直に言ったら、命は助けてあげるのに」
「くちでは城も建てられる――って言うぜ」
「わかったわ。……あなたは暗殺の専門家ではなくて、バルファ伯爵の子飼いなのね」
一瞬だけ顔にあらわれた動揺が、そのことを事実として物語っていた。王妃はいつも通りの控えめで愛らしい笑顔で立ち上がった。
「教えてあげる。隠しているようだけれど、あなたの発音には西方の訛りが残ってるの。そして『くちでは城も建てられる』というのは、伯爵の領地であるバルファジャルダン地方でしか言わないことわざなのよ」
国王はミケーレのほうを向いた。
「ミケ、すぐさま道化に伝えてくれ。占い師のお茶会に王妃の代理で出ているはずだ。こちらもさまざまな手配してすぐに追う」
「……はっ」
太陽は天頂に達したばかりだ。
※
弁当のことも。ディディ果のことも。道化はミケーレに何も告げなかった。こちらのことを信じているとか、言ったくせに……。
「ムカつく奴だ」
馬を走らせて、何度も鞭をあてる。道化が狙われているわけでもないのに、得体の知れぬ焦燥がミケーレを駆り立てた。
城壁の内側にあるローライ夫人とやらの屋敷では門前払いを喰らった。ミケーレですら知る噂話では、占いが良く当たったためどこぞの貴族から与えられた屋敷らしく、このあたりにしては小ぶりだが立派な建物だ。若い使用人の女は慇懃に眉をひそめた。
「……道化師でございますか?」
「ああ。少し前からこちらに来ているはずだ。王妃の代理として」
「……王妃様はすでにお帰りになりました」
会話が微妙に噛み合わないことに苛立ったが、ミケーレがまだ若いためか爵位が低いためか、鼻先で扉を閉められた。
昔の彼ならそこで引き下がっていただろうが、道化にひとこと文句を言ってやらないと気が済まない。諦めきれずに、そっと裏庭へと回って周囲を見回すと、身軽に生け垣を乗り越えた。
道化に影響を受けつつある自覚は無かった。
裏庭には小さな温室があり、中から、胸元が大きく開いた流行のドレス姿の女性が現れた。侍女などは連れていない。隠れることも忘れてミケーレはその赤みがかった金の巻き毛を結い上げた貴婦人を呆然と見つめた。
「……ロレッタ王妃?」
先ほど村で別れたばかりの王妃が、楚々として立っていた。いったいいつの間に?
「あら、騎士団長さま」
穏やかに微笑む彼女に駆け寄る。
その深い翡翠の双眸。大声を出さなかったのは我ながら大したものだった。
「おっ、お前、道化かっ!?」
「おやぁ、よく判りましたねぇ」
顔はどう見ても王妃だが、にやりと笑った表情は小姓姿の時と同じだった。
しかしそれよりもミケーレは、大きく丸く膨らんだ胸から目が離せない。下半分は布に覆われているが、上半分はネックレスが下がった喉から続いてなめらかな肌が見えている。作り物なのだろうか……いや……。
「なんだ、本物ですよ。触りますか?」
「やっ、そ、そんなことは言ってないぞっ」
慌てて飛びずさった。どうやらこの道化は女だったらしい。耳が熱い。誤魔化すために視線を転じて、温室の中に侍女が倒れているのに気が付いた。助け起こそうと駆け寄りかけたが王妃姿の道化に止められる。
「紅茶に毒を入れて持って来ましてね。気絶しているだけですよ。ここの占い師と伯爵の繋がりを調べなくては……」
「陛下の叔父にあたるバルファ伯爵か? 村まで尾行してきたのも伯爵が寄越した連中だったようだが。……陛下が王位を継がれたことを歓迎なさっていたし、賢君であられることは伯爵もお認めになられて『これほど優れた王が甥であることは我が誉れである』とも、おっしゃったのに……」
動揺しているミケーレを無視するかのように、道化は館を振り仰いで彼に背を向けた。
「あやつりやすいと思われた下級貴族出身の男が、有能だったからこそ目障りということもあるでしょうな。しかも陛下はいくさを激減させてしまった。喜ぶ者が多くとも、憎む者もいる。ましてや伯爵がお持ちなのは――」
「――軍需産業か……」
ミケーレは溜息をつくと、静かに剣を抜いて道化の後ろ姿に向かって大きく踏み込む。
「!」
茂みから飛び出して来た男から血しぶきが上がった。大ぶりの剣がその手から落ちる。いかにも荒事に慣れたようすの男たちが、慌てたように、あちこちから姿を現してきた。
「油断しました」
道化がその端正な顔に苦笑を浮かべ大きく飛び退いた。ミケーレから死角になった側の腕が大きく切り裂かれて赤く濡れている。
「すまない、間に合わなかった」
「いえ、助かりましたよ。心臓を貫かれるところでしたから。王妃に刀傷を付けても言い訳が出来ると思ってただなんて、伯爵は目を開けたまま夢見ているようですねぇ」
血まみれの手でスカートをたくしあげて、道化は足にくくった剣を抜いた。涼しい顔だが、かなりの激痛なのは間違いない。
「バカ、動くな。無理すると腕の腱が死ぬぞ。そこで休んで、これで血止めでもしておけ」
髪を縛るリボンをほどいて投げ渡す。
「……ちょ、あんた。これはロレッタ王妃からいただいた物では?」
なんだ、知っていたのか。ミケーレは笑って、囲むように出てきた男たちを睨め回した。自分でも驚くほどサバサバとした気持ちだった。
「さて、伊達や酔狂で騎士団長になったのではないことを証明してやろう。お前らが倍いたとしても、負ける気はしないな」
※
たった数日で城内は日常を取り戻していた。
表向きは革命未遂なぞ無かったかのように、バルファ伯爵夫妻は“病気療養のために”僻地の別荘へと引っ込み、敵対するはずの相手からいいように操られたボージョン男爵も、内々に軽い処罰を与えられて引退した。
ミケーレ騎士団長にとっては釈然としない甘い結果となったが、彼のような下級貴族では窺い知れないことが色々とあるのだろう。
「――これはこれは、騎士団長どの」
中庭で侍女をナンパしていた極楽鳥のような固まりがこちらに気付くと、逆立ちや軽業を見せながら弾むように近付いて来た。ミケーレは眉根を寄せて足を止めた。
「腕はもう大丈夫なのか?」
「ええ、お気になさらずですよう」
耳慣れない柔らかなハスキーヴォイス。派手な仮面の下から覗く双眸は緑だが――。
ナンパされていた侍女が、軽く頭を下げてミケーレの横を通り過ぎる。長いスカートと袖に、髪を包んで後ろに垂れ下がった布。
「なんだ、お前はこっちか」
とっさにその腕を掴んだ。驚いたように見上げてきた双眸は見慣れた翡翠。いま道化師の姿をしているほうは恐らくはあの怪しい村の者なのだろう。苦笑して立ち去った。
「あれっ、怪我してるのはこっちの腕じゃ無いよな? おい、どうして泣くんだ道化」
「……なんで、あたしだって判ったんです?」
「なぜかなんて分からん。そりゃああの道化はそっくりだったが……だってお前はお前じゃないか」
侍女としての栗色の髪やそばかすが彼女の本当の姿なのかさえも分からなかったが、ミケーレにとっては小さな事だったし、道化もまた心に吹き荒れた嵐が何なのか、説明が出来ないと首を振った。
二人が自分たちの感情に付く名前にやっと気付くのは、それから三年も後のことになる。
おしまい




