しんでもあなたがすき。
「しぬほどあなたがすきなんです」の続編的なショートショートストーリー。
『お腹が空いた』
「はっ?」
勤務している病院の職員食堂で、いま正に日替わり定食のトンカツを口に運ぼうとしていた皐月さんが、虚空に目をやって聞き返した。
視線の先には当然私がいるんだけど、皐月さん以外の人には見えていない。つまり私は幽霊ってこと。
周りの職員さんたちが皐月さんをちらちら見ているのに気付いて、皐月さんはそそくさと定食を平らげた。
私もべつに皐月さんを変人扱いされたい訳じゃないから、それ以上は話しかけず、ふよふよと食堂を飛び回り、看護師さんたちがプリンを食べながらお喋りしている間に入ってみたり、研修医の先生が医学書片手にラーメンをすすりこんでいる間に入って変顔してみたりしてみた。研修医の先生はラーメンを吹き出す事もなく食べきってしまう。つまんないな。
プリンを食べていた看護師さんの一人は霊感があるのか、ソワソワしていたけど見えてまではいないみたい。
「幽霊でもお腹が空くわけ?」
皐月さんが食後のコーヒーが入ったマグカップを手に、医局のソファに腰をおろした。
今、医局には皐月さんしかいないから大きな独り言していても大丈夫だね。
『うーん、生きてたときの感覚っていうのかな。美味しそうだな、と思うとお腹が空いているような気になるのよね。実際食べられるわけじゃないし、お腹が空くわけないんだけど』
胃どころか実体がないからね。
生きていたときでさえ、虚弱体質のためあんまりがっつり脂っこいものとか、甘いもの食べることなくあの世に逝っちゃったわけだし、味のイメージはつかない。ただ宝石をきれいだなと思う感覚で見た目だけで美味しそうに見えるだけかも。
そういえば五号室の円城寺さんが読んでいた漫画に出てたんだけど、アレ私にも出来るかしら。
「円城寺さん?」
『そー。整形に入院してるOLのお姉さんなんだけど、面白い漫画をよく読んでるの』
同室の人がいない隙にノートに女の子顔負けの男の子とイケメンな青年がなぜか半裸でぴったり寄り添ってるイラストとか描いたりしてるのも知ってるけど内緒、ナイショ。
「キミ、整形好きだな」
皐月さんが呆れたように言う。
『だって。整形の患者さんてあんまり暗くないから楽しいんだもん』
女医さんは相変わらずアダルティーな魅力溢れる性活をしていて見ていて楽しいし。あ、誤字はわざとだからね。
「ま、外科や救急に比べてすぐに生きるの死ぬのって感じではないが」
『うん。手術道具も大工さんみたい』
「それでもみんな大変なんだぞ」
知ってるもん。分かってるもん。
いきなり入院を余儀なくされて、日常から切り離されちゃう戸惑いも寂しさも、病気を抱える不安も。
『ふーん。忘れちゃった』
だけど無邪気に笑ってみせた。なのに皐月さんは顔を歪めて謝る。なんで? 私には入院が当たり前の日常だったときでも、皐月さんがいてくれたから幸せだったよ?
「で、どんな内容だったんだ」
『ええとね。死神が死んだ人の心残りを晴らして成仏させるために霊媒体質の人間の身体を借りて色々する話』
するとまた皐月さんが嫌そうな顔になった。嫌だなぁ、皐月さんに取り憑いたりしないって。だってそんなことをしたら美幸の大好きな皐月さんの顔、見られないでしょ。
「病院で読むか、それを」
『まあ、良いじゃない。それより看護師さんに一人、いい感度を持ってる人がいるんだよね~』
「他人に迷惑かけるんじゃありません」
できるかできないかやってみなくちゃ分からないじゃないの。
◆◇◆
それから数ヶ月後、皐月さんは病院の屋上で誰もいないのに大声で呼び掛けた。
「美幸、いるんだろ」
皐月さんが珍しく名前を呼んでくれたから姿を現した。実は最近ちょっと顔を出し辛かったのよね。
「キミ、林原さんの身体を使って何をした」
皐月さんは怒ってますよ、と分かりやすい顔で虚空を睨み付けていた。
『やーん、皐月さんのエッチ』
「ごまかすな」
『別にぃ~、何も~』
「嘘をつけ」
『……林原さん、何か言ってた?』
「女性がデリケートな悩みをほいほいと吹聴するわけがないだろう。それも医者とはいえ同僚の男に」
そりゃーそうか。
『じゃあ、なんで……』
「分からいでか。あんなに顔も身体もパンパンに肥えて」
あちゃー。そうなのよね。
霊感体質の林原さんは結構いい感じの霊媒体質で、実はするりと憑依できたのだ。
だもんで非番の夜やお休みの日に乗り移っては、食べてみたかったものを食べたり、一緒に憑いておでかけしたり……。さすがに林原さんの彼とのデートは憑依しなかった。だって私がキスしたいのもエッチなことしたいのも皐月さんだけだし。浮気してるみたいな気持ちになっちゃうし。
で、私が食べた気になってた食べ物の栄養とカロリーは林原さんが受け止めてくれたわけで。その弊害が、なんというか……その……ごめんなさい。元々はすらりとした美人さんだったのに、今は見る影もない。
「林原さんが夢遊病を疑って悩んでいると師長から聞いたが、キミの仕業だろう。俺は他人に迷惑をかけるなと言っただろう?」
『はい……ごめんなさい』
「こんなに悪い子は神様も俺と一緒には転生させてくれないかも知れないなぁ」
うぅっ。ごめんなさい~!
『じゃあ! じゃあ! 今度は憑依して運動してくる!! ダイエットのお手伝いしてくる』
「ちょっと待て」
掴まえようとした皐月の腕をすり抜け、私は林原さんがいるであろう病棟に向かって飛んだ。
林原さんはころころと私が肥えさせた身体で懸命に働いていた。ときどき大きくなっちゃったお尻でカートを押しちゃったりしてるけど。
お昼ごはんも数ヶ月前は食堂でたくさんの同僚に囲まれて食べていたのに、今はお弁当持参みたいだ。量を減らして……ぽそぽそと食堂の隅でひとりで食べている。
太ったからって彼氏と仲が悪くなったってことはない。林原さんの彼氏はイイ人だ。でも林原さんは彼氏の部屋に泊まるのを避けているのを知った。
非常に悪いことをしてしまったことに、その時はっきりと自覚した。なんてバカだったんだろう。
身体を持てたのが嬉しくて、自由に歩けるのが嬉しくて考えてなかった。考えないようにしてた。私の身体じゃないってことに。
こんな悪い私なんて、きっと神様も呆れてる。
皐月さんの言うとおりだ。
ダイエットのお手伝いなんていって憑依するのは間違っている。
『林原さんごめんなさい』
声も聞こえないはずなのに林原さんがふいに顔を向けて……気のせいだったように患者さんにふたたび向き合った。その笑顔はいつも変わらず温かで、素敵な林原さんのままだ。
◇◆◇
「で、キミは今度はどうしてそんなものに憑依してるんだ」
皐月さんが冷たく見下ろす下には掃除機がある。その丸いフォルムに添うように半透明な私が踞っていた。
『人に憑くと迷惑になるから』
皐月さんは呆れたとばかりに視線を外し、何やらデスクワークに勤しんでいる。
「それが吸い込むのはご馳走じゃないぞ。塵やホコリだ」
「そもそも無機物にも憑依できるのか」
「いつまでもむくれてるな」
『むくれてるんじゃありません。反省してるんです』
「体形なんてな、適正なカロリー摂取と適切な運動で標準体重に戻る。林原さんは"夢遊病"が治ったと言っていたそうだ。今は前向きに健康的にダイエットをしている。美幸は反省している。それでいいだろう?」
もう、皐月さんは甘いなあ。
やっぱり、死んでも皐月さんが好き。
寂しくなって連れて行きたいと思うときもあるけど、生きている皐月さんの側にいる方が何倍も楽しい。
もともと質量なんかない霞のような身体が軽くなったような気がした。
「神様の心証を悪くするようなことはもうするなよ」
こくんと頷いたけど、皐月さんは見ていない。見ていないけど、勘づいているみたいだ。
『……近所の高校の生徒会室覗いてきます』
最近なにやら三角関係が面白い感じに発展してきて、目が離せない感じなんです。
パソコンのディスプレイを見る皐月さんの表情が歪む。いつものやり取りが楽しくて嬉しくて。
私はようやく掃除機から離れて、窓ガラスをすり抜けて5月の空を飛んでいった。