7月6日(水曜日)
その日はセミの声が甲高く響き渡り、夏の暑さをより一層感じていた日だった。
昼食を腹に詰め込みウトウトとしながら受けていた授業中にその知らせはやってきた。
まず教頭先生が担任を呼び出し、少ししたと思ったら「今日は早退して下さい」という命令が下った。
クラスの皆は理由はどうであれ、早く帰れることに喜んで、帰り支度の時は予定外の時間をどう使うかの話で盛り上がっていた。誰も理由を詮索はしなかった。
俺こと安岡悟もその中の一人で今日は帰りにブックオフで立ち読みでもしていこうと考えていた。
ただ、俺の前の席の奴はそんな話に加わることもなければ、喜ぶでもなかった。
なぜならそいつは、欠席していたのだから。
及川千鶴。
それが前席に座っていたはずの彼女の名前だ。
窓際の後ろから二番目、そこが彼女の定位置だった。
成績は中の上、運動神経は並、高校生という一人の生徒という枠組みで考えるなら彼女はどこにでもいる少しだけ頭の良い普通の学生の部類に入る。
ただし、彼女の場合はそれだけで終わらない。
翌日になって、昨日の早退の理由が分かった。
教室で担任から聞かされたわけではない。寝不足の身体に鞭打って登校していた時に偶然にもある噂話を耳にしてしまったからだ。
『及川千鶴が昨日事故で死んだ』
液のホームから足を滑らせて誤って転落してしまい、そのままブレーキが間に合うはずもなかった電車に轢かれてしまったのだという。もちろん、担任からこんな風に詳細に聞かされたわけではない。朝の登校風景がこの話でもちきりだったのだ。どこに耳を澄ましても聞こえてくるのは昨日に起こってしまった事故のことばかり。耳を塞いでいても嫌でも聞こえてきていた。
ただ、登校中も朝のホームルームで起立をしながら黙とうを捧げていた時もそうだったが、誰一人として悲しんでいる人はいなかった。むしろ皆は嬉々としながら、自分達の身近で起こった自分達には何の関係もない非日常の出来事に惹かれていたのだ。娯楽のように、昼食の時間になっても、クラス内を飛び交う話題は彼女の『死』ばかりだった。
一言でまとめるなら、皆は楽しんでいたのだ。
そんな歪な風景になってしまったのにはもちろん理由がある。
結論だけを言うなら、及川千鶴は孤立していたから。
それも、空気のように扱われる孤立ではなく、羨望と嫉妬と黒い噂とありとあらゆる人に向けられる負の感情によって爪弾きにされた孤独なのだ。
周りよりも群を抜いて美しい女性だったから、入学当初から尾ひれがついた黒い噂が彼女を取り巻いていたから、何人もの男とヤッて限りなく汚れていたから、ただの一人の味方もいない弱者だったから、理由なんて探せばいくらでもあった。
でも、と思う。
やっぱり、一番の理由を敢えて答えるとしたら、それは彼女が不幸だったからなのだろう。色々な嫌われる理由が偶然にも複雑に絡み合いまとわりつき、結果的に今のような歪な風景を生んでしまったように感じてしまう。そうでも考えてないと、あまりにも彼女がかわいそうに思えてならなかった。
一週間も経つと次第に彼女の『死』は語られなくなっていった。皆はもう次の新しい興味のある話へとシフトしていた。俳優の誰それの離婚騒動、新しい話題のファッション、新作のゲーム、移り変わりはごく自然だった。少なくとも彼女の母校となってしまったこの学校ではもう、彼女という存在はとりとめもない過去以外の何物でもなかった。
ごく一部の関係者を除いて。
「ねぇねぇ、悟は今日の夕飯は何がいい?
悟って怖そうな見た目の割りに甘い物が好きだよね。甘いハチミツたっぷりの生クリーム添えパンケーキにしよっか。季節のフルーツも添えたやつ」
午後の授業というのは毎度のことながら眠気というレベル99の魔王との闘いだ。ほんの数十分前に胃の中に詰め込んだ食物を消化するために身体は安らぎを求める。
つまりはそれが魔王の本体だ。
「あ、今眉毛のあたりがピクピクってしたね。パンケーキ、すっごい楽しみってことだね。
気付いてた?悟って本心がものすごく顔に出やすいんだよ」
さらに今日の午後一発目の授業はオーバーキルを兼ね備えた世界史だ。
「え~、プトレマイオス朝はですね~、え~アレクサンドロス三世の死後、彼の部下であったプトレマイオスによって創始され、え~っとですね、首都はアレクサンドリアにおかれヘレニズム文化の中心として、え~繁栄を続けたわけですね」
さらにさらにお坊さんから何でか知らないが教師になってなってしまったのであろう土井先生のお経は子守唄となって耳から耳へ心地良く流れていく。
「そうだ!いいこと思いついちゃった。
今日の夕飯前に私とトランプしようよ!もちろん負けたら罰ゲーム。私が勝ったらパンケーキに追加で悟の大好物のワッフルも作ってあげる。でも、悟が負けたら、ここ一週間の料理の特訓の成果を確かめさせてもらいます。私の舌をうならせるほどの一品を作ってもらうから。まずかったら三日は甘い物抜きだから覚悟してよ~」
俺はそんな眠気を抱えたままふと、窓の外に顔を向けた。
夏らしい幾重にも重なった入道雲が、視界に収まらない程ずっとずっと向こう側までつづいている。
「眉毛ピクピクを見られるのが恥ずかしいからって露骨に顔を背けすぎ。それってこの勝負引き受けたって言ってるも同然だよ。
ポーカーフェイスが苦手なのに、悟ってほんと甘い物好きだよね」
「んん~~~ああ~~~」
頼む、少しは俺の気持ちを察してくれ、と横目に彼女に向かって訴えかけるも、眠そうな体を装ってるのに目の前の彼女は実に陽気としたものだ。それも、わかっててやってるから実に質が悪い。
「えへへ。悟をイジるのってやめられないんだよね~。こう、怖い番犬を手なずけてるみたいで」
教室には先生の声だけが響いている。
熱心に板書を書きとる人、うつらうつら眠気に誘われている人、机の下で携帯をいじっている人。
窓際の一番後ろから見える風景はいつもの授業と変わらない。
ただ・・・・・・さっきから先生の声に混ざって聞こえてくる透き通った声に注目する人は誰一人としていない。
当たり前だった。
俺以外の皆には見えていないのだから。
今の及川千鶴は誰にも認識されるはずなんてない。
窓際最後尾から二番目の、生前の自席に腰をかけながら子供のように無邪気に、けれどその身体は子供よりも当然大きくて、腰まである黒髪からはほのかにラベンダーの香りがする及川千鶴は、まだ確かにこの現実にいた。
学校の制服を当たり前に着こなし、後ろを向きながらおしゃべりしている姿はどこにでもいる女子高生の姿そのものだ。そろそろ先生の奥義、列斬投擲棒(チョーク投げ)がきてもよさそうな頃合いだが、もちろんそんなものが放たれるはずがない。
もしフリーダムという言葉を使用するなら、それは幽霊に対して適用すべき言葉なのだろう。
口元に指をそっと乗せてくすくすと顔をほころばせる彼女。その姿はまだこの学校の生徒だった頃の、木陰にそっと生える苔のような姿とはとても似つくはずなんてなかった。
いたずら好きのやんちゃっ子みたいに俺の心の隙を見つけてはちょっかいをかけてくる。それも、決まってちょっかいをかけて欲しくない時にだ。欲しい時には全然かけてこないのに・・・。
その度に、俺は顔を赤くして抗議をするはめになっていた。
心を丸裸に、むき出しにされて全身くまなく見られてるようで、俺はいつも彼女に対しては頭が上がらないでいる。
そして、今も・・・。
「熱いからって胸元を露骨に見せるのはやめてくれ、頼む。
俺だって一応思春期の男なんだから」
「嬉しいくせに」
「んん・・・・・・・・・」
こうした自分の情けなさに及川はちょっかいをかけてくる。
「人と話す時はちゃんとその人の目を見て話しなさい。なに?女の子と視線をじっと合わせるのが恥ずかしいのかな~」
ぐいと顔が及川の両の手で無理矢理正面に、正確には及川の瞳に向けさせられてしまう。
だから、及川千鶴という女には全くもって敵わない。
いや、ほんとほんと。




