二人のフォクサルシア
「はうあー、疲れたぁ」
ピュリエはそう言い、船から降りる。南のラカークン大陸から彼女の故郷のある北のイヴリス大陸に戻るためには定期船を使用しているのだが、その定期船も四日近く航海をしている。船旅は苦手なピュリエは何時もほどの元気はない。狐の獣人に限らず、陸地に棲む獣人は海を苦手とする。ピュリエもそうであった。
とはいえ、陸地に足をつけてわずかに元気を取り戻した様子であり、「よし」と彼女は言う。
「さぁてと、懐かしの故郷に向かうとしますかァ!」
ピュリエの生まれた場所は、イヴリス大陸中部にあるシャレオラ平原にある小さな村である。魔族から亜人へとなったフォクサルシア一族は、それまで住んでいた辺境の地を離れ、過ごしやすいこの地に定住した。規模こそ小さいが、平穏な生活をピュリエはここで送っていた。
二日ほどの馬車と徒歩での旅を終え、ピュリエが村にたどり着くと、大人から子供まで全員が出迎えてくれた。ピュリエは学園に行く、村でも期待の星である。少女を皆が迎えてくれるのに、流石のピュリエもジワリとくるものがあるが、彼女は朗らかに笑った。
「ただいま、皆!」
一族の子どもたちと遊び、老人たちとのんびりと話すなど、ピュリエは皆から引っ張りだこであった。
ピュリエはフォクサルシアが亜人と認められて初めて生まれた子供であり、毛の色も桃色と、普通のフォクサルシアとは異なっていた。普通のフォクサルシアの毛並みは、茶や金、灰色である。フォクサルシアでは桃色の毛並みの子どもは幸福の象徴である。フォクサルシアの言い伝えでは、桃色の毛並みの子どもが生まれた村は、その子どもが生きていた間、飢饉や流行病を免れたという。ピュリエは村の者たちを和ませ、幸せな気分にしてくれる正に宝であった。それに、両親が早くに亡くなってしまったピュリエは、村人全員の子どもと言ってもいい。皆が娘のようにかわいがってきた。そんな皆がいるこの村が、ピュリエは好きであった。
そんなピュリエがなぜ、学園に通うこととなったのか。ピュリエはその時のことを思い出す。
まだピュリエが七才であった頃の話だ。
村の長老がある日ピュリエに使いを頼んだ。
その頼みとは、村から少し離れた場所にある山奥に棲む一人のフォクサルシアへの届け物である。届け物、とは言うが、実際は彼女の様子を伺いに行くための名目であった。その人物は亜人の権利を確立するために尽力した人物であり、五大陸戦争の英雄の一人でもあるが、今は隠れるように静かに暮らしているのだと伝え聞いたことがある。
「ピュリエ、お前もあの方に一度会うといいだろう」
お前が生まれた時、取り上げたのはあの方だ、と長老は言う。度々、ピュリエの様子を見にここに足を運んでもいたという。ピュリエ自ら行けば、あの方も喜ばれるだろう。長老は言った。
ピュリエもこの任務に燃え上っていた。初めて独りで村を離れるのだ。外に魔物は昔ほどはいないが、それでも危険だ。ピュリエは持たされた小さなナイフの使い方と護身の魔術を教えられ、長老から預かった小包を持ち、山へと向かっていった。
道中は交通整備も行われ、度々行われる魔物駆除やパトロールで危険は非常に少ない。もとより森に棲み、狩猟を生業としてきたフォクサルシアは大体七、八歳でこういったお使いをする。そうやって一人で実際に外の世界に触れるのが、フォクサルシアの習わしである。フォクサルシアのみならず、獣人族にはこういった独自の習慣が存在する。
ピュリエは数時間をかけて言われた山の道に従い、ついに目的地に着いた。
「疲れたぁ」
ピュリエは幼い声でつぶやき、家の扉を叩く。だが返事はない。扉を押すと、鍵などはないようで開いた。ピュリエは戸惑いながら中に入る。内部は質素照り、必要最低限度の者しか置いていない。
「ごめんくださーい」
そう言ったピュリエだが、やはり返事はない。このまま帰った方がいいか、それともいるべきか。迷っていると、閉めていた扉が開き、一人のフォクサルシアの女性が現れた。黄金色の髪と、同色の耳を持つ二十代の女性であった。どこか悲しそうな瞳の色であり、黒い質素なドレスに身を包んでいた。
「ピュリエ、よく来ましたね」
「ほえ?」
女性はピュリエを見ると、もうこんなに大きくなりましたか、と呟く。
「大方、長老のお使い、と言うことで来たのでしょう。遠路はるばるご苦労でした。少し座りなさい。お茶でも出しましょう」
そう言うと慣れた手つきでお茶の準備をする。わたわたするピュリエに穏やかに笑い、彼女は座るように言う。ピュリエは素直にその言葉に従った。
ピュリエが火傷しないように、と言うことで適度に温度調節をしたお茶を出した女性。ピュリエでも飲める甘いお茶であった。それを啜りながら、ピュリエは女性を見る。
「あの・・・・・・」
「ああ、名前を教えていませんでしたね」
そう言い、女性はピュリエを見る。
「キアラ・ルフス。あなたのお父さんとは、遠い親戚なのよ」
そう言い、儚げな笑みを浮かべたキアラ。
「あなたは、どうしてここに一人でいるんですか」
ピュリエが疑問に感じて言う。独りは寂しくはないのか、と。キアラはそうねえ、と呟く。
「確かに寂しいと思う時もあるわ。けれど、私はこれでいいのよ。いつか、帰ってくるであろう人を、ここで待っているの」
そう言った彼女は、左手の指輪を撫でた。彼女の髪の色と同色の金色の指輪が淡く輝いた。
なんとなく、ピュリエはキアラのことが気になった。長老のお使いを終え、そのまま少し話をしていると、そろそろ日も暮れるから帰りなさい、とキアラが言う。
「またここに来たいと思ったならば、来なさい。いつでも私はここにいますから」
そして、キアラを彼女は送り出した。その瞳の中の儚げな光が、なぜかピュリエの記憶には刻まれていた。
それからピュリエは週に一度、キアラの住む山へ向かっては彼女と話をした。五大陸戦争における英雄の活躍や、それ以前の英雄譚。フォクサルシアの伝説や、亜人種の話、それに地下世界オードヴェルの物語。仲でもピュリエが好きなのは、反逆者アンセルムスと神々の戦いの話だ。反逆者アンセルムスは結局負けるが、それでもピュリエは格好いいな、と思っていた。
「私も、そういうのになりたいなあ」
漠然としたピュリエの想いを聞き、キアラはそうですか、と顔を曇らせる。
「そうすれば、皆が幸せでいられるよね」
「そうですね。けれど、世界はそう単純ではないし、そのための努力は辛いものですよ」
「それでも、私はなりたいな」
輝く少女の瞳を見て、キアラは息をつく。
「その思いが本当ならば、あなたは学園に行きなさい」
「学園?」
「ええ。私の知り合いがやっている場所です。そこならば、あなたも優秀な、あなたの憧れる英雄になれるでしょう。もちろん、並大抵の覚悟では足りません。いつか、泣いて挫折するかもしれません。それでも、夢をかなえたいならば、私は協力しましょう」
キアラは魔術師であった。亜人のために戦った魔術師。アンセルムスと並び、ピュリエが尊敬する彼女のようになりたかった。ピュリエは希望に輝くその瞳に彼女を映し、力強く頷いた。
こうしてピュリエは村を離れ、イヴリス大陸を離れ、夢のためにラカークン大陸のシャイア学園に向かうこととなった。
そして、そこで生涯の親友たちと出会った。
『ねえ、あなたも魔術師になりたくてきたの?』
『うん。イヴリス大陸から』
『遠くから来たね』
紅い髪の少女はそう言い、桜色のピュリエの髪を見て「素敵だね」と言った。見知らぬ土地で一人のピュリエはその少女の言葉と笑顔で、どれだけ不安がなくなったか、その少女は知らないだろう。
『わたし、ミリアベル・アルゲサス。あなたは?』
『ピュリエ・エオノーラ』
『そう、ピュリエね。これからよろしくね!』
風に桜が散り、美しい光景を作る。輝く陽光の中、ピュリエは静かに紅い髪の少女の手を取った。
あの時の夢は、未だ変わらない。幼稚な夢。けれど、あの思いはきっと、変わらない。
「よいしょっと」
ピュリエは体を起き上がらせると、久しぶりにキアラのもとに行こうと思い立った。
ピュリエが山の小屋にたどり着いたが、そこにキアラはいなかった。
何時まで経ってもキアラは来なかった。諦めて山を降りようとしたピュリエはふと部屋を見ていて何かを見つけた。光り輝くそれは、机の下に落ちていた。それは、キアラが常に指にはめ続けていた指輪であった。彼女が片時として外さなかった、『約束』の指輪。
「なにか、あったのかな・・・・・・?」
何となく不安で呟いたピュリエ。外でザア、と木の葉の揺れる音がした。日が暮れ、暗黒に世界が堕ちようとする中、ゾクリと寒気がした。
ピュリエは指輪を咄嗟に懐にしまい、山を下りた。
翌日、もしかしたらキアラがいるかもしれない、と戻ってみても、そこには彼女はいなかった。
そして、キアラが村にいる間、ついにキアラはその姿を見せなかった。まるで、神隠しにあったかのように。村の者もだれ一人、彼女の行方は知らなかった。
一抹の不安を抱えながら、ピュリエは休みを過ごすこととなった。キアラと話したいことは、山の様にあったのに。不安で少女は膝を抱えた。母のようで、姉のようでもあり、そして憧れであるキアラの不在は、ピュリエを心細くさせた。
無性に、友人たちに会いたくなっていた。
『いいこと、ピュリエ』
いつかキアラは言っていた。
『もしも私がいなくなっても、約束して。あなたは立派に生きるって。何があっても』
そう言った彼女の目には、どこか不安の色があった。訳も分からず頷いたピュリエを見て、彼女は安どのため息をついた。
『いつか、いつか闇が再び世界を覆うかもしれない。けれど、忘れないで。光は、希望は常にそこにある、と言うことを・・・・・・』
その意味は今でも分からない。けれど、無性にあの言葉が頭からは離れなかった。
平和な世界で、何かが起きようとしているのかもしれない。何となく、ピュリエはそう思っていた。
風はざわめき、闇が濃くなる。静かに、けれど闇は確実に迫っていた。