世界と影
世界とは、無数に存在する。いくつもの分岐の果てに、無数の世界が並行して存在するのだ。それは人間やそれ以上の存在、たとえ神でさえも理解の呼ばぬ次元であるという。宇宙の摂理をも超え、世界は存在し続ける。無数の世界は交わることなく、ただそこにあるのだ。
だが、稀に世界を渡る者たちがいる。時にそう言った者たちがエデナ=アルバにも訪れ、何かを伝えたり、もたらすこともある。旧文明、所謂機甲大戦以前の世界は、そういった異邦人によってもたらされた【科学】とこの世界の魔術の融合した文明であった、という。
その機械文明も、かつての争いによりなくなり、以後、この世界からは機械文明はわずかな遺産を残して滅亡してしまった。その時代の貴重な遺産である【アルトリザリコン要塞】は【大戦】で使用され、跡形もなく消滅してしまったため、歴史的な遺産はないに等しく未だ研究は進んでいないという。
歴史学の教師の話を聞くミリアベル。
無数に世界は存在する、というならば、この世界ときわめて似た、けれど決定的に違う世界もあるのだろうか。教師の言う分岐。それがどのようなもの何か、ミリアベルは気になった。
「先生」
同じように疑問を感じたミアータが挙手する。先生が彼女を見て「どうした」と問う。ミアータが言う。
「世界は無数に分岐している、と言いましたが、たとえば前大戦で私たちが負けてしまった世界も存在する、と言うことですか」
教師はしばし思案し、理論上は、と言う。
「ですが、次元を渡ることは不可能にも近いことです。それこそ、神の如き力や技術が必要です。我ら魔術師の英知を合わせても、その全貌はわかりません」
けれども、きっとそのような世界もあるのでしょう。可能性として存在するすべての世界が、同じように次元の中にはある。それが大方の魔術師の総論です。そう述べると、ミアータはまだ納得していない様子だが座った。
もしも、そのような世界からこのエデナ=アルバに来たものがいるとすれば、どのように思うだろうか。
前大戦で戦った『神』や魔神ハザ、それにこの世界を作った神々も元は違う世界より来た存在とされている。彼らは一体、何を思ったのだろうか。
そして、そのような無数の世界は、いったいどのように始まったのか。
「話が難しいなー」
多重世界論をそう評し、ピュリエはあくびをした。彼女にとってあの話は退屈すぎる者であった。リュートも何となくでしかわかっていない。試験範囲には関係ないため、そうまで熱心に聞く必要はないのだが、リュートは真面目に聞いていたようだ。
「世界を渡る、かあ。なんかロマンチックだよね」
「そうかしら」
ピュリエの言葉にミアータが言う。
「その世界がこの世界よりもいい世界であるとは限らなくてよ」
「だとしても、さ」
会話をする少女たちの横をイーゼルロットが通り過ぎる。ミリアベルは彼に声をかけようとして、戸惑った。イーゼルロットの顔は、どこか沈んでいた様子であった。先日の親戚の少女のことを尋ねようとしたが、なんとなく聞くに聞けない様子だから、ミリアベルはそのまま彼を見送った。その背中は、どこか最初のころ、人を拒絶するように独りでいた彼に重なった。
イーゼルロットは、シャンクシーションクを呼び出す。仔猫は茂みから飛び出し、彼の胸の中に飛び込む。それを愛おしげに抱きしめ、その黒い毛を撫でる。
彼と、イルイーネはこの世界にとっては異物なのだと、先ほどの授業を聞いて改めて理解した。
「母さん・・・・・・」
この世界にはいない母を思い、少年は涙した。その涙を拭うようにシャンクシーションクが身を寄せる。
(兄様)
「大丈夫」
少年は言う。
「大丈夫だから」
ヨトゥンフェイム共和国首都、ヨノガルド。シャイア学園を擁するこの都市には、かつて魔族と称された亜人たちが築いた家々が立ち並ぶ、壮大な姿を見せている。十六年前は、戦争の影響で家々はなく、人だけだったが、今では復興している。亜人の地位も向上し、彼らは堂々と光の下で生きている。北のイヴリスの諸部族や他種族とも交流を持ち、今では世界有数の都市の一つに数えられている。
共和国を構成する機関はいくつもあるが、その中でもこの国の行く末を決定する機関が19人の代表からなる代表者会議である。その代表者会議の最高代表として国をまとめ上げているのが、ミリアベル・マリアベル姉妹の父親にして、英雄の一人。クィル・アルゲサスである。紫色の長髪を編み込み、一本にしている。精悍な顔立ちは視る者を魅了する。34歳でありながら、多くの亜人の長老からの信頼は厚く、最年少ながら総代表となっているのだ。
クィルは自身の秘書であり、妻でもあるエノラに今日の予定を問う。黒髪の美女は愛する夫を見て微笑んだ。儚い印象であるが、その実芯は強く、刀の使い手である。あの剣聖レヴィアでさえ一目置くほどだ。元アクスウォード王女であり、現国王の妹であり、フィノラの年の離れた姉である。
彼女はしっかりとした口調でクィルに告げる。
「クレルミア国の代表、リージ氏が面会したいそうよ」
「クレルミア、か」
クレルミアは大戦後に成立した国家である。だが、その成立の経緯は少々キナ臭いものがある。
クレルミアはラカークン大陸西部のアクスウォードにかつて隷属していた国家群であり、それが大戦後に独立したのだ。だが、独立した者たちは反魔族主義者であり、共和国や亜人に対し、断固とした姿勢を貫くべし、と言い、世界情勢からは浮いていた。さすがにそれではまずい、と方針を転換したのだが、流れに乗るのを遅れた。それがクレルミアだ。
内心は今も「魔族」と亜人を蔑んでいるのだろうことは察するに難くない。
「内心会いたくはないな」
クィルが言うと、「こら」とエノラが笑う。
「あなたは代表なのだから、そう言ってはいけないよ」
「わかってるさ」
妻の美しい黒髪を取り、撫でるクィル。ふと、娘たちのことを思い出す。
「そうだな」
娘たちのためにも、自分は自分のすべきことをせねばな、と思い直し、「行こうか」と妻に言う。彼女は頷き、彼の隣に立つ。二人は歩き出した。自宅を出て、会談場所であり、共和国のシンボルである【アルトリザリコン】まで向かう。
クレルミアの代表であるザカリアー・ゲイス・リージは痩せ細った男であり、その目は獲物を狙う貪欲な鷹を思わせる。
「面会いただき有難く思います」
そう言った男の鋭い眼光はクィルを射抜くようであった。
「こちらこそ、歓迎いたします。リージ氏」
握手を求めるクィルに、渋渋と言った様子で手を握ったリージだが、数秒もせぬうちにその手を離し、服の裾で拭った。エノラが眉をひそめる。だが、それはクィルでしかわからないくらいの小さな変化であり、リージは気づかない。
「それでは、お話を」
リージとの会見を終えたクィルは、静かな怒りを抑えていた。
リージは共和国をところどころで馬鹿にしていた。それどころか、亜人ではなく「魔族」と自分たちを呼んでいた。未だ差別主義者はいることを改めて思い知らされたのだ。
「まったくいやになる」
「そうね」
リージを思い出し、夫妻は頷く。
「それに、あいつはなんだか不気味だ。あの瞳と言い、あの雰囲気と言い・・・・・・」
クィルの言葉に何となく、エノラもわかる気がした。あの人間の放つ気配は、どこか異様な何かを孕んでいた。何かはわからないが、どこか危険なものだと本能が語っていた。
「すこし、調べてみるか」
「大丈夫かしら?」
エノラが問うと、「レイーネならば、うまくやってくれる」とクィルは答える。
今の世界で、戦争など起こせばたちまち世界がそれを止めるために動き出すだろう。英雄や魔神が動き出す事態になれば、一国程度では太刀打ちはできないのだから。
それでも、リージとその裏にいるクレルミアには不安があった。
「何もなければいいのだが」
クレルミアのリージは内心で罵倒を繰り返していた。
(汚らわしい魔族め)
そして、その隣にいた人間族の女性を思い出す。
(魔族に尻尾を振る阿婆擦れめ)
リージはその鋭い眼光に憎しみを募らせる。今では世界では奴らは人間と同等の権利を持っているような扱いだが、それは間違いだ。人間こそが、世界で最も優れた種である。いや、そうでなければならない。
だからこそ、今の世界は「おかしい」のだ。狂っている、と言ってもいい。
それがリージをはじめとしたクレルミアの総意である。
クレルミアは反魔族の最後の砦である、とリージは思っているし、他のクレルミアの民もそう思っているであろう。
(何とかせねばなるまい)
世界を変える。何をしてでも。それがリージの望みであった。
≪ザカリアーよ≫
聞こえた声に、リージは身を硬くし、後ろを振り返る。そして、急いで跪き、深く低頭した。
「――――様っ!!」
リージはその額を地面に擦れるほどに押し付ける。それほどまでにその人物は強力な力の持ち主であるのだ。そして、クレルミアの救世主なのだ。
彼がどこから来たのかは知らないし、その姿も見たことはない。常にその黒い衣で顔は隠れ、唯一見えるのはその黒曜石の如き漆黒の瞳だけであった。
≪英雄を前にして、どう思った?≫
「・・・・・・」
リージはしばし沈黙したのち、「――――様には、敵いません」と言う。黒い衣の男はフン、と笑った。
≪ザカリアー、お前には様々な知恵と力を貸してきた。それもすべてはこの世界から魔族を消すためだ≫
「わかっております」
≪兵の準備を急げ。【喪失者】の増産を急ぐのだ。人間種が完全にこの世界からはじき出されるのも、遠い未来のことではないのだから≫
預言者、として知られる彼の言葉にははぁ、と頭を深く下げたリージ。その様子に満足した影は、そこにいなかったかのように消え失せた。
影が消えると同時に、異様な威圧感が消えた。リージは顔を上げ、立ち上がるとその足をガクガクさせながら、クレルミアへの帰路についたのであった。