第2話 ボクハダレ
始めに言っておこう。ボクには記憶がない。
目覚めた時、目の前にいたのはボサボサの髪の小汚い格好をした男だった。
同時に嫌な感触を覚えた。下を見れば男の右手がボクの股間に触れていたため、迷わず股間を蹴り上げて変態男を撃退した。何か言っていたので二回蹴って気絶させた。変態は勢いのままに吹っ飛ばされた。
あっけない。夜空を見上げるときらめく星々がボクの記憶の中における初勝利を祝福してくれていた。
当面の敵は消した。だが問題はそこからだった。蹴り上げられて空中に飛ばされれば、当然地面に着地する。だが変態は数秒経っても空中に留まったままだった。記憶がなくてもさすがにそれはおかしいと思った。
……変態男の身体が物理法則に反していた訳ではないと気付いたのはその直後の事だ。周囲は夜だと思っていたが、それは違う。上空に限らず四方八方が暗闇と無数の星。ああ。ここは宇宙で、重力が0という訳ではないにしろ真空状態だった。
足下を確認すると表面のガラスが割れた小さなカプセルがあって、少し離れた場所にはSF映画とかで出て来そうな宇宙船っぽい乗り物が止まっている。本物だろうか。中に光り輝く人影が見える。シルエットからすると女の子っぽいが、人間は光る物だっただろうか。いや、それは後だ。とにかくここが宇宙ならば、未だ男がプカプカと浮いているのも当然だった。
さて、私には記憶がない。ところで、宇宙でヒトは宇宙服がなくても生きていけるものだっただろうか。変態男の服装はどう見てもただの部屋着だし、ボクに至ってはかろうじて身体を隠せる布きれ一枚。
あれ、宇宙って酸素なかったよな。どうやって呼吸しているんだろう。それとも実は宇宙にも空気はあったのか。まあこの男もボクも普通に生きている以上、多分そうなのだろう。違う気がするのは私の感覚が間違っているだけだ。きっとそうに違いない。
さて、これからどうしよう。
『マスター、マスター……起きて下さい。緊急事態です、さっさとしやがれ下さいこの引きこもりニート』
美しく聞こえるが、どこか無機質な女の子の声が聞こえる。変態男の方からだ。見ればいつの間にか現れた白いワンピースの女の子が男の上に浮かんでいた。女の子は全身が光っていて、ボクや変態男とはどこか違っていた。宇宙船の中の光が消えていた事から、中に写っていた人影は彼女だろう。
女の子の声にも、変態男は反応しなかった。女の子は無言で片足をかかげると、股間を抑えて痙攣している変態男の股間を躊躇する事なく踏みつけた。ガスッと嫌な音が響く。それでも男の反応はない。
『ふふっ』
女の子は無表情だが嗤っていた。怖い。恐い。コワイ。
女の子は足を戻すと、今度は連続で踏み抜き始めた。
ガス ガス ガス ガスッ! ガスガスッ! ガスガスガスッ!
連打は徐々に早くなる。これは酷い。だがそれでも男は反応しなかった。よく見ると、何故か少女の足は男の体をすり抜けている。踏みつける音も女の子の声のように、どこか無機質で偽物っぽい。
それでも視覚的にこの光景は痛い、さっき自分もやった事だが。
ボクは無意識に自分の股間を押さえた。そこに付いている物を確認して、私が男である事を知る。ボクは女ではなかった。
一人称が安定していないのに気付いた。男なら使うべきなのはボクの方だろう。心の中では間違えて私と言ってしまうかもしれないが、私はボクで男だから外で言うときはボクでいよう。外ってどこだ。ここは宇宙だ。究極の外だ。じゃあボクはボクだ。
さて、改めて考えよう。ボクは誰だ。
『貴方は誰ですか?』
自問自答で意識を沈めかけたボクの目の前に、女の子がドアップで現れた。変態男を踏むマネに飽きたらしい。男は相変わらず倒れている。
女の子は金色の眼でボクをじっと覗いている。よく見ると結構可愛い。なんだか照れくさくなった。さっきの光景を思い出して一瞬で引いていったが。
これはボクが思春期の年齢に達している少年である証拠だ。足下に散らばるガラスの破片に映る自分の姿をみて、おおよその年齢は把握していた。女の子の眼にも映っている。よく見ると中々女っぽい顔つきだなと思った。変態男が置換しようとした理由もなんとなく分かる。気持ち悪い事に変わりはないが。
返事のないボクに、女の子は表情を欠片も動かす事なく再び問いかけてきた。
『貴方は誰ですか?』
それはボクが聞きたい。この2人はボクの知り合いではないのだろうか。状況から察するに、ボクはこの小さなカプセルの中にいた? 女の子が乗っていたのだから、あの宇宙船は2人の物だろう。カプセルは宇宙船と違い、自力で移動するための装置は付いてなさそうだ。ボクは今までこれに入って宇宙空間を漂っていたのだろうか。何のために? いや、こんな物に乗っているのは漂流者くらいだろう。助けられるべき存在。恐らくあの変態男がカプセルのガラスを割ってボクを出した。それは、ボクを助けるため? その動機はさておき。
ふむ。つまり……ボクはこの2人に拾われたことになる、のだろう。これからどうしようか。この2人は怪しいし変態だしコワイが、置いてきぼりにされても困る。人は食事をしないと死ぬ筈、だったと思う。酸素の件もあるから自信がなくなってきた。
でもなんにせよ、ボクはこの2人に助けを求めるべきだろう。そうだ、そうしよう。
『申し訳ありませんが、いい加減返事を下さいませんか? さもないと……踏みますよ?』
「えすおーえすえすおーえす 救助ヲ求ム」
二度の問いかけにも思考に耽って無視を決め込んだボクにしびれをきらしたのか、いつの間にか真上に移動していた女の子の足が頭をトントンと叩いた。感覚はないが。踏まれてもさっきみたいに通過するため痛くはないだろうか、生存本能が全力で彼女に全力で叫んでいる。とりあえず救助信号的な何かを発信しておいた。コロサナイデクダサイ。
『私たちと一緒に来ますか? ああ、あそこで伸びているバカの事はお気になさらず。一応私のマスターですが、たとえ反対しても色々な方法で説得致しますから。ええ、先ほどから私は貴方に興味というべきモノを覚えているのですよ、あなたが逆らっても拉致したいです』
イキます。
『貴方は誰ですか?』
知りません。なんでボクの事をそんなに気にするんですか。
『貴方の存在を宇宙軍のデータバンクからささっと検索しましたが、全く以て見つかりませんでした。個人情報登録が完全義務化されている現在において、この事実は割と異常事態です』
宇宙軍ってなんですか。登録されてないとマズいんですか。
『いえ、さすがに特A級の極秘情報までは探らせて貰えませんでしたので、そちらにある可能性はあります。が、その場合も貴方の存在が異常であることに変わりはありませんね』
ボクは誰?
『……先ほどお父様から、あなたに関する情報を個人的に送りつけられましてね』
お父様?
『いえ、こちらの話です。ニヒル・アルバス、血液型はAB型。残りの経歴は生年月日含めてとことん塗り潰されていますね、あのクソ親父』
ニヒル・アルバス、それは。
『あなたのお名前ですね。後はダレかに消されていて、なーんにも分かりませんが』
初めまして、ボクはニヒル・アルバスです。
『いえいえこちらこそ。私は美少女人工知能ナヴィアと申します。女王様と呼んで下さいませ』
嫌です。ごめんなさいごめんなさいごめんなさいコロサナイデクダサイ。
こうしてボクの人生が始まった。




