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拝啓、まだ恋を知らない僕らへ

作者: 雨宮 灯
掲載日:2026/05/29

誰かを好きになることは、


特別な出来事ではなく、

気づけば心の中に残っている風景なのかもしれません。


放課後の教室。

雨の日のコンビニ。

夕暮れの帰り道。


忘れたはずなのに、

なぜか消えない景色があります。


この物語も、

そんな景色のひとつになれたら嬉しいです

第一章 白紙のままの春


高校二年の春、蒼はまだ恋を知らなかった。


放課後の教室には、誰かが消し忘れた日直の名前と、窓から差し込む薄い夕陽だけが残っていた。黒板の下には白い粉が落ちていて、机の端を光がゆっくり滑っていく。


外ではサッカー部の声が遠くで弾けていた。吹奏楽部の音が、春の風にほどけている。


蒼の机の上には、進路希望調査の紙が置かれていた。


第一志望。


第二志望。


将来の目標。


どの欄も白い。


白すぎて、見ているだけで少し責められているような気がした。


「また残ってる」


後ろから声がした。


振り返ると、結衣が鞄を抱えて立っていた。肩につくくらいの黒髪。少し眠そうな目。いつも輪の真ん中にはいないのに、気づくと誰かの隣にいる人だった。


「帰らないの?」


「そのうち」


「そのうちって、いちばん帰らない人の言葉だよ」


結衣はそう言って、蒼の斜め前の席に座った。


椅子の脚が床をこする音が、やけに大きく響いた。


しばらく二人とも何も言わなかった。


けれど、その沈黙は不思議と重くなかった。


結衣は窓の外を見ていた。風が吹くたび、カーテンの端が少しだけ揺れる。そのたびに夕陽の形が変わった。


「蒼ってさ」


「うん」


「好きな人とかいなそう」


蒼は顔を上げた。


「偏見ひどいな」


「でも、恋愛より進路調査に悩んでそうな顔してる」


「それは当たってる」


結衣は小さく笑った。


笑うと目元が少しだけやわらかくなる。蒼はその変化を、なぜか見逃したくないと思った。


「好きってさ、なんなんだろうね」


「急に哲学?」


「うん。放課後哲学」


結衣は机に頬杖をついた。


窓の向こうでは、校庭の砂が夕陽を吸っていた。


「私、たぶんまだ分かってない。でも、会いたいって思う回数が増えることなのかなって、最近ちょっと思う」


蒼はすぐに答えられなかった。


会いたい。


その言葉だけが、教室の空気の中に少し長く残った。


結衣は何事もなかったみたいに立ち上がった。


「帰ろ」


「進路調査は?」


「白紙のままでも、今日は死なないよ」


蒼は笑った。


結衣も笑った。


二人で教室を出る時、蒼は机の上の紙をもう一度見た。


白紙は白紙のままだった。


けれど、さっきより少しだけ怖くなかった。


第二章 雨の日のココア


六月に入ると、雨の日が増えた。


その日の帰り道も、空は急に低くなった。


最初はぽつりと肩に落ちたくらいだった雨が、次の信号を渡る頃には足元を叩くほど強くなっていた。


「最悪」


結衣が前髪を押さえながら走る。


蒼も鞄を頭の上に乗せて、近くのコンビニへ駆け込んだ。


自動ドアが開くと、揚げ物の匂いと冷房の空気が一緒に流れてきた。


二人はしばらく入口の横に立ったまま、息を整えた。


ガラスの向こうで、街がぼやけている。


車のライト。


信号の赤。


傘の群れ。


濡れたアスファルトに、全部が溶けていた。


「青春っぽい」


結衣が言った。


「何それ」


「雨宿りって青春っぽくない?」


「映画の見すぎ」


「映画だったら、このあと告白イベントだよ」


蒼は思わず結衣を見た。


結衣はすぐに笑った。


「冗談。蒼、顔固まってる」


「急に変なこと言うからだろ」


そう言いながら、蒼は棚から微糖の缶コーヒーを取った。


結衣はホットココアを選んだ。


レジを出て、二人はコンビニの軒下に並んだ。


雨の音が近い。


近すぎて、話さなくても何かが埋まっていく気がした。


結衣はココアの缶を両手で包んでいた。


「蒼って、優しいよね」


唐突に言われて、蒼は缶の口から唇を離した。


「急に何」


「なんとなく」


「優しくないよ」


「そういう人ほど、自分では言うんだよ」


結衣は雨を見ていた。


「人が困ってると、自分が濡れてても傘差し出すタイプ」


「それ、ただのいい人じゃん」


「いい人だよ」


蒼は返す言葉を探した。


けれど結衣の横顔が、冗談の続きにしては静かだった。


「結衣は?」


「私?」


「自分が濡れてたらどうする?」


結衣はココアの缶を少し回した。


白い指先が、缶の熱でうっすら赤くなっている。


「濡れてないふりする」


蒼は笑いかけて、やめた。


結衣は笑っていた。


でもその笑顔の下に、別の表情がある気がした。


「それ、寒くない?」


「寒いよ」


「じゃあ言えばいいじゃん」


結衣は答えなかった。


雨粒が屋根の端から落ちていく。


ひとつ、またひとつ。


「言ったら、誰か来てくれるの?」


小さな声だった。


雨に紛れたら、聞き逃してしまいそうなくらい。


蒼は何も言えなかった。


結衣はすぐに笑った。


「ごめん。今のなし」


「なしって」


「放課後哲学、雨の日版」


そう言って、結衣はココアを飲んだ。


缶を持つ指先だけが、少し白かった。


第三章 期待しない子


期末試験前の図書室は、いつもより静かだった。


ページをめくる音。


シャーペンの芯が紙をこする音。


遠くで誰かが小さく咳をする音。


蒼と結衣は窓際の席で数学の問題集を開いていた。


蒼は何度見ても同じところでつまずき、結衣は隣で小さくため息をついた。


「そこ、さっきも間違えた」


「分かってる」


「分かってない人の返事」


「厳しい」


結衣は赤ペンで式の途中に小さく丸をつけた。


「ここ。ここで符号が変わる」


「なるほど」


「ほんとに分かってる?」


「たぶん」


「たぶんは禁止」


結衣は少しだけ笑った。


その時、机の上のスマホが震えた。


短い振動だった。


結衣の手が止まる。


画面に表示された名前を見て、表情がほんの少しだけ固くなった。


ほんの少し。


でも蒼には分かった。


「出なくていいの?」


「うん」


結衣は画面を伏せた。


「あとでいいから」


それから、赤ペンの先は動かなくなった。


窓の外で風が木の葉を揺らしている。


図書室の匂いが、少し濃くなった気がした。


「お母さん?」


蒼が聞くと、結衣は目を瞬かせた。


それから、諦めたように笑った。


「鋭いね、今日は」


「今日はって何」


「普段は鈍いから」


いつもの冗談。


でも声が少しだけ薄かった。


結衣はスマホをもう一度見た。


画面には短いメッセージがあった。


『今日も遅くなる。ご飯は適当に食べて』


結衣は慣れた手つきで画面を閉じた。


その速さが、蒼には苦しかった。


「また?」


聞いてから、しまったと思った。


結衣は笑った。


「うん。でも平気。いつものことだから」


平気。


その言葉は薄い紙みたいだった。


少し触れただけで破れてしまいそうなのに、結衣はそれを両手で持っている。


「寂しくないの?」


蒼の声は、自分でも驚くほどまっすぐ出た。


結衣の目が、一瞬だけ冷えた。


「寂しいって言ったら、何か変わるの?」


図書室の空気が止まった。


蒼は返事ができなかった。


結衣はすぐに目を伏せた。


「ごめん。今の、意地悪だった」


「いや」


「お母さん、忙しいだけだから。ちゃんと働いてるし、私のこと嫌いなわけじゃないし」


結衣は赤ペンのキャップを開けたり閉めたりした。


かち、かち、と小さな音が続いた。


「だから、寂しいとか言うと、悪い気がする」


蒼は問題集を見た。


数字が少しも頭に入ってこなかった。


「私ね」


結衣は窓の外を見た。


「期待してないんだ」


その言い方は、強がりには聞こえなかった。


もっと乾いていた。


何度も待って、何度も諦めて、最後に残った言葉みたいだった。


「期待しない方が楽だから」


結衣はそう言って、また問題集に目を戻した。


赤ペンの先は、同じ場所で止まったままだった。


蒼は何もできなかった。


何か言えば、たぶん軽くなる。


何も言わなければ、ただ見ているだけになる。


どちらを選んでも、結衣の寂しさには届かない気がした。


図書室の窓に、二人の姿がぼんやり映っていた。


隣にいるのに、ずいぶん遠くに見えた。


第四章 夏の入口


夏休みが近づく頃、蒼と結衣は自然と一緒にいる時間が増えていた。


図書室。


駅前のアイス屋。


帰り道のコンビニ。


川沿いの細い道。


特別な場所はひとつもなかった。


それなのに蒼は、その全部を少しずつ覚えていった。


結衣がアイスの蓋をうまく開けられずに眉を寄せたこと。


自転車のベルに驚いて、一歩だけ蒼の方へ寄ったこと。


夕陽を見る時、いつも少し黙ること。


ある日、二人は川沿いを歩いていた。


水面に夕焼けが伸びている。


遠くで犬が吠えた。


部活帰りの生徒が、自転車で追い越していった。


風が少しだけ夏の匂いを運んできた。


「夏って終わるの早いよね」


結衣が言った。


「まだ始まってもないだろ」


「でも、始まったって思った時にはもう終わりかけてるじゃん」


「去年の夏、何してた?」


「覚えてない」


「宿題は?」


「それは覚えてる」


結衣は笑った。


その笑顔が夕陽に透けて、蒼は少しだけ目を逸らした。


「蒼はさ、将来何になりたいの?」


「分からない」


「即答」


「結衣は?」


結衣は前を向いたまま、少し黙った。


水面に映った空が、ゆっくり崩れていく。


「私も分からない。でも、遠くへ行くかもしれない」


蒼は足を止めそうになった。


「遠く?」


「お母さんの仕事で。卒業したら、引っ越すかもしれないんだ。まだ決まってないけど、たぶん」


夕陽が眩しかった。


眩しすぎて、結衣の表情がよく見えなかった。


蒼は何か言わなければと思った。


でも、喉の奥に言葉が引っかかったまま出てこない。


「そっか」


やっと出たのは、それだけだった。


結衣は振り返って、少し笑った。


「そんな顔しないでよ」


「どんな顔」


「世界終わったみたいな顔」


蒼は笑おうとした。


でもうまくいかなかった。


川の向こうで、夕陽が建物の陰に沈んでいく。


さっきまであった光が、少しずつ消えていく。


恋を知る前に、別れの気配だけを先に知ってしまった気がした。


もし離れてしまうくらいなら。


そんな考えが、ほんの一瞬だけ胸をよぎった。


最初から出会わなければよかった。


そう思った自分が、蒼は嫌だった。


結衣は何も言わず、また前を向いて歩き出した。


蒼も隣に並んだ。


二人の影が、長く伸びていた。


伸びた影は途中で重なって、すぐにまた離れた。


第五章 既読


夏休みに入ってから、結衣と会う回数が減った。


最初は気にならなかった。


部活もあるし、補習もある。


家のことだってあるだろう。


そう思っていた。


けれど、気づけばスマホを見る回数だけが増えていた。


通知は来ていない。


画面を閉じる。


十分後、また開く。


やっぱり来ていない。


その繰り返しだった。


『ごめん、最近ちょっと忙しい』


最後のメッセージは三日前。


短い文章だった。


それなのに蒼は何度も読み返していた。


忙しい。


本当にそれだけなのだろうか。


嫌われたんじゃないか。


何か言ってしまったんじゃないか。


自分だけが勝手に近づいた気になっていたんじゃないか。


考え始めると止まらなかった。


夕方。


家にいても落ち着かず、蒼は駅前まで歩いた。


買うものはない。


目的もない。


ただ、家にいると余計なことばかり考えてしまう気がした。


信号を渡ろうとした時だった。


ロータリーの向こうに見覚えのある後ろ姿があった。


結衣だった。


蒼は思わず立ち止まる。


隣には女性がいた。


たぶん母親だ。


結衣によく似た横顔だった。


聞くつもりはなかった。


けれど風が声を運んできた。


「文化祭も行けるか分からない」


母親が言う。


結衣は少し黙った。


それから笑った。


あまりにも自然に。


「別にいいよ」


その笑顔が苦しかった。


「期待してないし」


蒼は息を止めた。


母親は何か言っていた。


けれど、その後の言葉は耳に入らなかった。


期待してない。


図書室で聞いた言葉と同じだった。


あの時よりもずっと静かで。


あの時よりもずっと痛そうだった。


結衣は先に歩き出した。


母親が後ろを追う。


二人の背中は人混みに消えていった。


蒼は動けなかった。


夕暮れの風だけが吹いていた。


その夜。


蒼は何度もメッセージを書いた。


『大丈夫?』


消した。


『何かあった?』


消した。


『今日、駅前で――』


そこまで打って止まる。


見ていた。


偶然だった。


でも見てしまった。


結衣が隠していたものを。


画面には自分の顔が映っていた。


暗い部屋。


白い光。


窓の外では風が鳴っている。


結局、送れなかった。


優しい言葉ほど軽く思えた。


何も知らないまま慰めるのは違う気がした。


だからスマホを伏せた。


それでも眠れなかった。


翌日の昼。


スマホが震えた。


結衣からだった。


『今日、少し時間ある?』


蒼はすぐに返信した。


『ある』


送ってから早すぎたと思った。


けれど数秒後。


既読がつく。


その小さな文字だけで、少しだけ救われた気がした。


第六章 海の見えない場所


待ち合わせは駅前だった。


空は曇っていた。


雨は降りそうで降らない。


そんな空だった。


結衣はベンチに座っていた。


蒼に気づくと手を振る。


笑っている。


いつも通りに。


でも蒼は知ってしまった。


人は笑いながら傷つくことができる。


「ごめん、呼び出して」


「別に」


「嘘」


結衣は笑う。


「蒼、絶対気にしてたでしょ」


図星だった。


結衣は少し空を見上げた。


低い雲が流れていく。


「ねえ」


「うん」


「海って好き?」


唐突だった。


「好きだけど」


「私ね、海の近くに引っ越すかもしれない」


蒼は頷く。


知っていた。


聞いていた。


それでも胸は痛かった。


結衣は続ける。


「小さい頃は好きだったんだ」


風が吹く。


前髪が少し揺れる。


「でも最近は嫌い」


「なんで?」


結衣は少し笑った。


「遠くまで見えるから」


意味が分からなかった。


結衣はベンチから立ち上がる。


ロータリーの向こうを眺める。


「遠くまで見えるとさ」


少し間があった。


「誰もいないことまで見えちゃう気がするんだよね」


その言葉のあと。


二人とも黙った。


人が歩く音。


自転車のベル。


駅のアナウンス。


夏の終わりの風。


全部が遠かった。


結衣は笑った。


でも目だけが笑っていなかった。


蒼は初めて思った。


この人は強いんじゃない。


弱いまま立っている人なんだ。


そして。


その弱さを誰にも見せないようにしている人なんだ。


「蒼」


結衣が呼ぶ。


「うん」


「私ね」


結衣は空を見たまま言った。


「寂しいって言うの、下手なんだと思う」


風が吹いた。


その言葉は。


夏の終わりの匂いがした。


第七章 花火の夜


八月。


花火大会の日だった。


蒼は誘うかどうか迷った。


スマホを開く。


閉じる。


また開く。


何度目か分からなくなった頃に、ようやく送信した。


『花火、行く?』


送ったあとで後悔した。


忙しかったらどうする。


迷惑だったらどうする。


断られたらどうする。


考えても仕方のないことばかり考えた。


返信は一時間後だった。


『行く』


たった二文字。


それだけで、胸の奥の重たいものが少し軽くなった。


待ち合わせ場所に現れた結衣は浴衣を着ていた。


淡い水色だった。


夜の光の中で、少しだけ涼しそうに見えた。


「似合ってる」


思わず言った。


結衣は少し目を丸くする。


それから笑った。


「蒼って、たまに真っ直ぐだよね」


「たまにって何」


「普段は遠回りだから」


二人は人混みの中を歩いた。


焼きそば。


かき氷。


射的。


金魚すくい。


夏の匂いがそこら中にあった。


それなのに蒼は落ち着かなかった。


隣にいるのに。


いつもより近いはずなのに。


どこか遠い気がした。


花火が始まる頃。


二人は少し離れた堤防に座った。


川の向こうに人の声が流れている。


夜風が少しだけ涼しかった。


最初の花火が咲く。


大きな音だった。


光が夜空に広がる。


結衣は空を見上げたまま言った。


「私ね」


蒼も空を見たまま返す。


「うん」


「卒業したら、本当に引っ越すと思う」


花火が散る。


暗闇が戻る。


「怖いんだ」


次の花火が上がる。


赤い光が結衣の横顔を照らした。


「せっかく大事な人ができても」


少し間があく。


「離れたら終わる気がして」


蒼は息を吸った。


「終わらない」


言った瞬間。


結衣の表情が少しだけ固くなった。


「蒼」


静かな声だった。


それなのに花火の音より大きく聞こえた。


蒼は口を閉じる。


結衣は膝を抱えた。


浴衣の裾が風で揺れている。


「そういうの」


少し笑った。


でも寂しい笑い方だった。


「苦手なんだ」


蒼は何も言えない。


「終わらないとか」


花火が開く。


青い光だった。


「ずっととか」


結衣は空を見たままだった。


「信じたいよ」


その声だけ少し震えた。


「でも」


風が吹く。


「信じて待って、来なかったことがあるから」


蒼は目を伏せた。


母親のことだった。


分かっていた。


でも本当は分かっていなかった。


自分は簡単に言った。


終わらない。


会いに行く。


大丈夫。


全部、自分が安心したかっただけかもしれない。


蒼は拳を握った。


「ごめん」


結衣が少し驚いた顔をする。


「俺」


喉が乾いていた。


「かっこいいこと言いたかっただけかもしれない」


夜空に花火が咲く。


川に光が落ちる。


「離れるのが怖かった」


蒼は言った。


「だから簡単なこと言った」


結衣は黙って聞いていた。


「でも」


蒼は空を見る。


「信じろとは言わない」


白い花火が広がる。


「でも逃げない」


光が散る。


「怖いなら怖いままでいい」


風が吹く。


「疑ってもいい」


蒼は続けた。


「それでも俺は逃げない」


長い沈黙があった。


結衣は空を見ていた。


蒼も空を見ていた。


やがて。


小さく笑う。


泣きそうな顔だった。


「ずるい」


「何が」


「そういう言い方」


結衣は目を伏せた。


「少しだけ」


夜空に大きな花火が咲く。


「信じたくなる」


その瞬間。


蒼は初めて思った。


好きになるということは。


誰かを守ることじゃない。


その人が抱えている寂しさの隣に。


黙って座れるようになることなのかもしれない。


第八章 優しい人の失敗


夏休みの終わり。


結衣が風邪を引いた。


最初に来たメッセージは短かった。


『熱出た』


それだけだった。


蒼はすぐに返信した。


『大丈夫?』


既読はついた。


返事は来ない。


十分後。


また送る。


『病院行った?』


返事はない。


さらに一時間後。


『何か食べた?』


送信したあと。


少しだけ後悔した。


でも止まれなかった。


心配だった。


本当に。


夜になる。


窓の外では虫が鳴いていた。


『飲み物ある?』


『薬は?』


『無理しないで』


気づけば画面には自分のメッセージばかり並んでいた。


翌朝。


結衣から返事が来た。


『ありがとう』


短かった。


でも少し安心した。


蒼はまた送った。


『何か必要なら言って』


既読。


返事は来ない。


二日後。


熱は下がったらしい。


けれど。


何かがおかしかった。


結衣からの返信がよそよそしい。


短い。


少ない。


どこか遠い。


蒼は不安になった。


嫌われたんじゃないか。


何かしたんじゃないか。


考えれば考えるほど。


またメッセージを送りたくなる。


そして。


送ってしまった。


『怒ってる?』


送信した瞬間。


嫌な予感がした。


夕方。


返信が来る。


いつもより長かった。


蒼は少し安心した。


そして。


読み始める。


『怒ってない』


そこまではよかった。


『ごめん』


胸が少し冷える。


『心配してくれるのは嬉しかった』


蒼は続きを読んだ。


『でも少し苦しかった』


指が止まる。


『優しさなのは分かってる』


窓の外で風が吹いた。


『でもずっと見張られてるみたいだった』


蒼は動けなかった。


部屋は静かだった。


スマホの光だけが白い。


心配していた。


それは本当だ。


でも。


その優しさは。


結衣のためだけじゃなかった。


自分が安心したかった。


自分の不安を消したかった。


その気持ちも混ざっていた。


蒼は初めて気づいた。


好きだから。


何をしても許されるわけじゃない。


好きだから。


近づきすぎることもある。


返信を書いた。


消した。


また書いた。


何度も。


最後に残ったのは。


たった一文だった。


『ごめん』


送信する。


数分後。


既読。


そして。


『こちらこそごめん』


その一文だけが返ってきた。


窓の外では夕立が降り始めていた。


ガラスを流れる雨粒を見ながら。


蒼は思った。


好きになるということは。


相手を知ることじゃない。


知らない部分があると認めることなのかもしれない。


その夜。


二人は何も話さなかった。


けれど。


前より少しだけ。


本当のことに近づいた気がした。


第九章 文化祭前夜


文化祭前日。


校舎は夕方を過ぎても騒がしかった。


どこかの教室から笑い声が聞こえる。


廊下を走る足音。


ガムテープを剥がす音。


誰かの「終わらない!」という悲鳴。


全部が文化祭の音だった。


蒼たちの教室もまだ明るかった。


結衣は最後のメニュー表を仕上げている。


蒼は脚立の上で飾りを貼っていた。


「蒼」


「ん?」


「右下」


「また?」


「曲がってる」


蒼は苦笑する。


「そんな分かる?」


結衣は真顔で頷いた。


「三ミリ」


「職人かよ」


「文化祭職人です」


二人とも笑った。


しばらくして。


気づけば教室には二人しか残っていなかった。


窓の外は藍色になっている。


校庭の照明だけが遠くで光っていた。


結衣は完成したメニュー表を見ていた。


蒼も隣に立つ。


「すごいな」


結衣が顔を上げる。


「ほんと?」


「うん」


少し考える。


「結衣っぽい」


結衣は吹き出した。


「それ褒めてる?」


「たぶん」


「たぶん禁止」


また笑う。


笑い終わると。


静けさだけが残った。


時計の音が聞こえる。


カチ。


カチ。


カチ。


結衣は窓の外を見た。


「ねえ」


「うん」


「今が楽しいほど」


少しだけ笑う。


「終わるの怖くなるね」


蒼は何も言えなかった。


文化祭も終わる。


二年生も終わる。


卒業も来る。


そして。


結衣はいなくなる。


「でもさ」


結衣が続ける。


「終わるの怖いから始めないのも寂しいよね」


その言葉が胸に刺さった。


言わなければ。


今だ。


そう思った。


好きだ。


たった二文字だった。


けれど。


喉の奥で止まる。


怖かった。


今の関係が終わることが。


結衣は何も言わなかった。


ただ窓の外を見ていた。


待っているようにも見えた。


諦めているようにも見えた。


蒼には分からなかった。


結局。


「帰ろっか」


結衣が立ち上がる。


蒼は頷くことしかできなかった。


教室の電気が消える。


最後に残ったのは。


窓に映る二人の影だけだった。


並んでいるのに。


少し遠かった。


第十章 母の来た日


文化祭当日。


学校は朝から人で溢れていた。


喫茶店は予想以上に忙しかった。


注文を取る蒼。


レジをする結衣。


気づけば昼になっていた。


その時だった。


教室の入口で。


結衣が立ち止まる。


蒼も視線を向けた。


そこにいたのは。


母親だった。


仕事着のまま。


少し疲れた顔。


でも。


ちゃんと来ていた。


結衣は何も言わない。


母親も何も言わない。


数秒だけ。


沈黙。


先に笑ったのは母親だった。


「来れた」


それだけだった。


結衣も笑った。


でも。


その笑顔は少し震えていた。


母親はメニュー表を見る。


「これ描いたの?」


結衣が頷く。


「上手だね」


何気ない一言だった。


でも。


結衣は目を伏せた。


期待してない。


そう言っていた。


けれど。


本当は違った。


ずっと待っていたのだ。


見てほしかった。


褒めてほしかった。


来てほしかった。


ただそれだけを。


母親が帰ったあと。


結衣は校舎裏にいた。


秋の風が吹いている。


蒼は隣に立った。


何も聞かなかった。


何も言わなかった。


しばらくして。


結衣が呟く。


「来ると思ってなかった」


風が吹く。


木の葉が転がる。


「うん」


蒼はそれだけ返した。


結衣は空を見る。


「私ね」


少し笑う。


少し泣きそうな顔で。


「寂しかったんだと思う」


その言葉は。


秋の空へ静かに溶けていった。


そして蒼は決める。


もう逃げない。


好きだと言う。


第十一章 好きと言うための夜


文化祭の片付けが終わった頃には、校舎は静かになっていた。


昼間の喧騒が嘘みたいだった。


机は元の場所に戻されている。


飾りも外された。


床には小さな紙くずがいくつか残っていた。


窓の外には夕暮れが残っている。


昼と夜の間。


世界が少しだけ息を止める時間だった。


蒼は一度昇降口まで行った。


靴も履いた。


けれど帰れなかった。


胸の中に残っている言葉が重かった。


今日を逃したら。


たぶん、もう言えない。


そんな気がした。


もう一度階段を上る。


静かな廊下を歩く。


文化祭のポスターが風に揺れていた。


誰もいない教室の扉を開ける。


そこに結衣がいた。


窓際の席に座っている。


春に初めて話した場所だった。


結衣も蒼に気づく。


少し笑う。


「探した」


「俺も」


二人とも笑った。


でもその笑いはすぐに消えた。


緊張だけが残った。


窓の外では夕陽がゆっくり沈んでいく。


校庭には誰もいない。


サッカーゴールの影だけが長く伸びていた。


蒼は立ったまま。


結衣は座ったまま。


しばらく何も言わなかった。


時計の音だけが聞こえる。


カチ。


カチ。


カチ。


結衣が先に口を開く。


「文化祭終わったね」


「うん」


「早かった」


「そうだな」


また沈黙。


言わなければ。


何度もそう思った。


花火の日も。


夏休みも。


文化祭前夜も。


何度も言えなかった。


でも。


今だけは逃げたくなかった。


「結衣」


声が少し震えた。


結衣が振り返る。


「うん」


夕陽が目に入る。


喉が乾く。


心臓だけがうるさい。


怖かった。


断られることじゃない。


この時間が終わることが。


今の関係が壊れることが。


怖かった。


それでも。


言わないまま終わる方がもっと怖かった。


蒼は息を吸った。


「俺」


言葉が詰まる。


それでも続ける。


「結衣のことが好きだ」


教室が静かになった気がした。


風が吹く。


カーテンが揺れる。


夕陽が机を滑っていく。


結衣は驚かなかった。


ただ少しだけ目を伏せた。


そして笑った。


泣きそうな顔で。


「知ってた」


蒼は思わず笑った。


「そんな分かりやすかった?」


「すごく」


「まじか」


「まじ」


二人とも笑った。


少しだけ涙が混じる笑い方だった。


結衣は立ち上がる。


一歩だけ近づく。


「私も」


小さな声だった。


でもちゃんと届いた。


「私も好き」


胸の奥で。


何かがほどける音がした。


ずっと固まっていたものが。


静かに崩れていく。


結衣は窓の外を見る。


「まだ怖いけどね」


「俺も」


「離れるのも」


「うん」


「寂しくなるのも」


「うん」


結衣は少し笑った。


「でも言えてよかった」


蒼も笑う。


本当にそう思った。


好きだと言ったから未来が変わるわけじゃない。


引っ越しがなくなるわけでもない。


不安が消えるわけでもない。


それでも。


言葉にしたことで。


ようやく同じ場所に立てた気がした。


窓の外で夕陽が沈む。


教室が少しずつ夜になる。


蒼は思った。


恋は。


特別な瞬間に始まるんじゃない。


たぶん。


放課後の沈黙とか。


雨の日のココアとか。


言えなかった言葉とか。


そういう小さなものの積み重ねで。


いつの間にか始まっている。


そして。


気づいた時には。


もう戻れないくらい。


大切になっている。


第十二章 手紙


告白のあと。


世界が変わったわけではなかった。


翌日も学校はあったし。


数学の小テストもあった。


悠真は相変わらずうるさかった。


「お前さ」


昼休み。


悠真がパンをくわえながら言う。


「最近なんか顔が気持ち悪い」


「悪口だろ」


「違う違う」


悠真は笑った。


「幸せそうで気持ち悪い」


蒼は牛乳を投げそうになった。


向かいでは美咲が呆れた顔をしている。


「悠真最低」


「事実じゃん」


「最低」


「二回言ったな?」


いつものやり取りだった。


でも。


蒼は少し嬉しかった。


何も変わっていないことが。


少しだけ。


救いだった。


結衣も同じだった。


目が合う。


少し笑う。


それだけだった。


それなのに。


前よりずっと特別だった。


十一月の終わり。


結衣は一通の封筒を差し出した。


「何これ」


「手紙」


「今どき?」


「LINEだと消したくなるから」


結衣は少し笑った。


「手紙なら残るでしょ」


蒼は封筒を受け取った。


紙は少しだけ温かかった。


家に帰って開く。


丁寧な文字が並んでいた。


蒼へ。


私は昔から、言葉にするのが下手です。


寂しいのに平気な顔をしたり。


嬉しいのに茶化したり。


怖いのに大丈夫なふりをしたりします。


たぶん今もそうです。


本当は離れるのが怖いです。


引っ越したあと。


蒼の毎日から私が少しずつ消えていく気がして。


怖いです。


でも。


怖いって言える相手がいることは。


思っていたより心強かったです。


雨の日に飲んだココアも。


花火の日も。


文化祭の夜も。


全部覚えています。


だからお願いがあります。


私がまた平気なふりをしていたら。


少しだけ気づいてください。


でも。


無理にこじ開けないでください。


私もちゃんと言えるようになるので。


結衣


蒼は何度も読み返した。


文字は綺麗だった。


でも。


ところどころ少しだけ震えていた。


その震えが。


結衣そのもののように思えた。


強そうに見えて。


本当は少しだけ怖がっている。


そんな字だった。


その夜。


蒼も手紙を書いた。


何度も書き直した。


消しゴムの跡で紙が少し波打つ。


結衣へ。


俺はまだちゃんとした言葉を持っていません。


だから上手く書けないかもしれない。


でも。


結衣が寂しい時に気づける人でいたいです。


会いたいと言われたら会いに行ける人でいたいです。


遠くなるのは怖い。


未来も怖い。


自分の弱さも怖い。


でも。


怖いと言える相手ができたことは少し嬉しいです。


だから約束します。


平気なふりをしない。


分からない時は分からないと言う。


寂しい時は寂しいと言う。


好きな人をちゃんと大切にできる人になる。



翌日。


手紙を渡す。


結衣は封筒を胸に抱いた。


「読む前から泣きそう」


「早いだろ」


「だって蒼だから」


冬の空は高かった。


風は冷たいのに。


なぜか少しだけ温かかった。


その時、蒼は思った。


恋は綺麗な言葉だけでは続かない。


不安も。


寂しさも。


弱さも。


少しずつ差し出し合って。


ようやく形になるものなのだと。


第十三章 最後の放課後


三年生になってから。


時間は驚くほど早く過ぎた。


受験。


面談。


進路。


気づけば卒業が目の前に来ていた。


結衣の引っ越し先も正式に決まった。


海の近い街だった。


卒業式前日。


二人は教室にいた。


夕陽が差し込んでいる。


春の匂いが少しだけ混じり始めていた。


「ここ変わらないね」


結衣が言う。


「俺たちは変わったけど」


結衣は笑った。


「蒼がそんなこと言うようになるとは」


窓の外で風が吹く。


静かな教室だった。


「私ね」


結衣が言う。


「蒼と会ってから」


少し間が空く。


「寂しいって言うのが怖くなくなった」


蒼は何も言わなかった。


ただ頷いた。


結衣は黒板へ向かう。


チョークを持つ。


少し考える。


そして。


小さく書いた。


『またね』


たった三文字だった。


でも蒼には。


別れではなく。


約束に見えた。


終章 拝啓、まだ恋を知らない僕らへ


卒業式の日。


空はよく晴れていた。


冬の名残を少しだけ残しながら。


風はもう春の匂いを連れていた。


校門の前には人が溢れている。


写真を撮る人。


泣いている人。


笑っている人。


先生を囲む人。


どこを見ても終わりだった。


そして。


どこを見ても始まりだった。


蒼は卒業証書の入った筒を持ちながら歩く。


ふと視線を上げる。


結衣がいた。


少し離れた場所で。


春の光の中に立っていた。


目が合う。


結衣は笑う。


蒼も笑う。


何も言わなくても分かった。


二人は最後に教室へ向かった。


誰もいない教室。


机も椅子も。


黒板も窓も。


全部変わらない。


変わったのは。


ここにいる二人だけだった。


蒼は窓際の席を見る。


春の日。


進路調査を前に途方に暮れていた自分。


雨の日のコンビニ。


図書室。


花火の夜。


文化祭。


全部が少しずつ重なっていく。


結衣は窓の外を見ていた。


「ねえ」


「うん」


「最初の日のこと覚えてる?」


蒼は笑う。


「放課後哲学?」


「そう」


結衣も笑った。


「私ね」


少しだけ目を細める。


「まだ恋なんて知らなかった」


春の光が頬に落ちる。


「私も」


蒼は言った。


「知らなかった」


本当に。


知らなかったのだ。


誰かを好きになることも。


誰かを失うのが怖くなることも。


寂しいと言えないことも。


寂しいと言ってもいいことも。


知らなかった。


でも。


知った。


結衣が教えてくれた。


完璧じゃないまま。


弱いまま。


怖いまま。


誰かを大切にしてもいいのだと。


結衣は小さく息を吐く。


「行こっか」


「うん」


二人は教室を出た。


扉が閉まる。


もう戻ることはない。


それでも不思議と後ろは向かなかった。


前に進める気がした。


春の風が吹いた。


桜が一枚。


空を横切っていく。


エピローグ 春の続き


数年後。


桜が咲く坂道を。


二人で歩いていた。


風が吹く。


花びらが舞う。


遠くで子どもたちの声がする。


あの日と同じ春だった。


でも。


もう高校生ではなかった。


結衣は少し大人になった。


蒼も少しだけ変わった。


それでも。


雨の日のコンビニを思い出せる。


花火の夜を思い出せる。


文化祭の教室を思い出せる。


思い出は遠くへ行かなかった。


胸の奥に残り続けていた。


結衣が立ち止まる。


桜を見上げる。


「ねえ」


「うん」


「春ってさ」


少し笑う。


「終わらないね」


蒼は空を見る。


青空の向こうへ。


桜が流れていく。


「そうだな」


終わった季節は戻らない。


失った時間も戻らない。


それでも。


あの日々は消えない。


拝啓、まだ恋を知らない僕らへ。


寂しいと言えなかった君も。


好きだと言えなかった僕も。


ちゃんと、あの春を生きていた。


そして今も。


あの日の続きを生きている。


それだけで、世界はちゃんと優しかった。



最後まで読んでくださり、

ありがとうございました。


この物語を書きながら、

何度も春の匂いを思い出しました。


もう戻れない放課後や、

言えなかった言葉や、

好きだった人の横顔を。


人は案外、

幸せだった瞬間よりも、


あの時ちゃんと伝えられなかったことを

長く覚えているのかもしれません。


それでも。


伝えられなかった想いも、

届かなかった言葉も、

消えてしまうわけではなくて。


きっと誰かの中で、

静かに季節になっていくのだと思います。


この物語を閉じたあと、

あなたの心の中にも、

思い出す誰かがいてくれたなら。


それだけで十分です。


またどこかの春で。


――雨宮 灯

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