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第三楽章


 目が覚める。いつもと同じ時間だった。しばらく、何も考えずに天井を見ていた。見慣れない、白さだった。――ここは、家じゃない。ゆっくりと瞬きをする。隣で、小さく布が擦れる音がした。


「起きた?」


 すぐ近くから、声が落ちてくる。


「……ん、おはよう」


 声は、思っていたよりも普通に出た。横を見ると、伊織がいる。それだけで、少しだけ安心できた。何を話せばいいのか分からなくて、また天井に視線を戻す。

 

 昨日までと、何も変わっていないはずなのに。なにかが、決定的に違っている気がした。その違いが何なのかは、考えないようにした。布団の中で、指先が少しだけ触れる。離れなかった。


 外に出ると、息が白くなった。隣を歩く足音が、やけに近い。何を話すでもなく、そのままコンビニに入る。店内の光が、少しだけ眩しい。


「何にする?」

「……あったかいの、なんでもいい」


 伊織は軽く頷いて、棚からいくつか手に取る。その間、特にやることもなく店内を眺めていた。レジの奥、煙草に目がいく。昨日と同じ銘柄。少しだけ迷って、視線を逸らした。外に出ると、伊織は何も言わずに煙草に火をつける。


「今日は吸わないの?」

「……いい」


 短く答える。白い煙が、朝の空気に溶けていく。それを、ただ眺めていた。近くのベンチに座って、買ったものを開ける。湯気が、ゆっくりと上に逃げていく。


「これ」


 不意に、伊織が小さな箱を差し出した。


「……なに?」

「カメラ。インスタントの」


 受け取ると、思っていたより軽かった。


「使ったことある?」


 首を振る。


「適当に押せば撮れるよ」


 言われた通りに構える。ファインダー越しに見ると、少しだけ世界が狭くなった。伊織の方へ向ける。なんでもない顔をして、煙を吐いていた。――このままでもいい気がした。


 指に力を入れる。カシャ、と小さな音がした。それが、ひどく耳に残った。白い紙が、ゆっくりと吐き出される。まだ、何も映っていなかった。


 バイクの後ろにまたがる。昨日よりも、迷いはなかった。エンジン音が響いて、すぐに景色が流れ始める。今日も、行き先は聞かなかった。


 しばらく走って、風の匂いが変わる。冷たい空気の中に、少しだけ湿った匂いが混じって、気がついたときには、視界が開けていた。


 海だった。冬だからか、人はほとんどいない。波の音だけが、遠くから繰り返し届く。バイクを降りて、そのまま砂の上を歩く。靴の中に砂が入る感覚が、やけに現実的だった。それでも、何も気にならない。


 白い波が、行っては戻る。どこまで続いているのか、分からなかった。


(みお)


 呼ばれて、振り向く。


「こっち向いて」


 カメラが向けられていた。一瞬だけ、どうすればいいのか分からなかった。そのまま立っていると、カシャ、と音がした。


「……今の、どんな顔してた?」

「普通」


 そう言って、伊織は少しだけ笑った。風が強くなって、距離が近くなる。何も言わなかった。それでも、十分だった。波の音だけが続く。時間の感覚が、少しだけ曖昧になる。――ずっと、こうだったらいいのにと思った。


 あれから、同じような日がいくつか続いた。行く場所は、少しずつ減っていく。それでも、不思議と困ることはなかった。


 コインランドリーに入ると、誰もいない。蛍光灯の白い光が、やけに強く感じる。伊織が、ポケットから小銭を取り出した。指先で数えて、そのまま迷いなく投入する。カラン、と乾いた音が響いた。


 洗濯機がゆっくりと動き始める。水の音と、低い振動。それを少し離れたベンチから眺めていた。特に、話すこともなかった。隣に座る気配がして、少しだけ肩が触れる。そのまま、寄りかかった。抵抗はない。ただ、それが自然だった。


「待ってる間、なにか聞く?」


 スマホとイヤホンが差し出される。


「……それなら」


 耳に入れた音は、すぐに周りの音に溶けた。洗濯機の回る音と、重なって聞こえる。時間が、ゆっくり過ぎていく。どれくらい経ったのか、分からなかった。


 不意に、音が止まる。それで、終わったことに気づいた。取り出した洗濯物は、まだ温かかった。指先で掴むと、じんわりと熱が移る。冬の空気の中では、それだけで少し救われる気がした。


「ほら」


 伊織がタオルを一枚、こちらに放る。反射的に受け取ると、柔らかくて、少しだけ湿っている。


「……あったかい」

「でしょ」


 短い返事だった。


 そのまま、何となくタオルを首にかける。乾ききっていない温度が、皮膚にじわりと残る。さっきまで回っていた機械の中の時間が、そのまま移ってきたみたいだった。


 伊織は無言で洗濯物を畳み始める。慣れている手つきだった。角を揃えて、空気を抜くみたいに軽く押さえる。その動きを、なんとなく目で追っていた。


「……手伝う」


 言ってから、少しだけ間が空く。


「いいよ、座ってて」


 そう言われたけれど、結局隣にしゃがむ。何も言われなかった。並んで、同じことをしている。それが、どこか心地良かった。


 外は相変わらず寒いはずなのに、ここだけ温度が違う気がする。機械の熱と、さっきまでの余熱と、それから――隣にいる体温。


 ずっとここにいられるわけじゃないのは、分かっている。それでも、今だけは考えないことにした。


 また、同じような日々が続いた。海に行って、どこかに寄って、何もせずに戻る。それだけの繰り返しだった。フィルムも、もうほとんど残ってない。


 それでも、不思議と飽きることはない。写真だけが、少しずつ増えていく。どれも、大したものじゃない。それでも、捨てる理由もなかった。


 その日の帰り道、伊織がぽつりと言った。


「――ね、」


 それだけで、何を言おうとしているのか分かった。


「そろそろ、どうする?」


 足は止めなかった。止めたら、何かが変わる気がした。


「……どっちでもいいよ」


 嘘じゃなかった。どっちでもよくなるくらいには、満たされていた。少しだけ、間が空く。


「伊織と一緒なら、どこでも」

「じゃあ決まり」


 伊織はそれ以上、何も言わなかった。


 辿り着いたのは、古い建物だった。使われていないらしく、人の気配はない。扉は、簡単に開いた。中は暗くて、少しだけ冷たい空気が溜まっている。手を繋ぐ。どちらからともなく。そのまま、階段を上る。転ばないように、ゆっくりと。


 高い場所だった。街の明かりが、遠くに広がっている。風は冷たくて、何もかもを均していくみたいだった。隣に、伊織がいる。それだけでよかった。夜の空気が、そのまま広がっていた。


「寒い?」

「だいじょうぶ」


 そう言うと、少しだけ距離が近くなる。それ以上は、何もなかった。ポケットの中で、固い感触に触れる。写真だった。取り出してみると、ぼやけたままの景色と、うまく撮れていない伊織の顔が写っている。――どうでもいいものばかりだ。それでも、捨てられなかった。


「行く?」


 頷く。怖くはなかった。ただ、少しだけ――温度のことを思い出した。風が、マフラーを揺らす。


「俺、伊織のことが好きだ」


 言葉は、思っていたよりも簡単に出た。


「知ってる」


 少しだけ、間が空く。それ以上、何かを言う必要はなかった。手を繋ぐ。指先が、少しだけ冷たい。そのまま、一歩踏み出す。風の音が近くなる。月が、少しだけ近く見えた。



 

 意識が遠ざかるその瞬間、右手を強く握られた気がした。

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