第二楽章
家には誰もいなかった。玄関の鍵を閉める音が、室内に響いた。それで、この家に誰もいないことが分かった。いつも、この時間だけは自由になれる。
階段を登り、自室へ入る。シャツのボタンを外すたびに、身体が軽くなる。床に落ちたそれを、拾う気にはなれなかった。踏みつけたままでも気にならない。待ち合わせを思い出して、急いでクローゼットを開く。長袖、長ズボン。ダッフルコートに、マフラーを巻く。
鏡の前で、髪に手をかける。いつも通り隠そうか迷って、結局耳にかけた。視界が少し広くなる。もう、隠す必要なんてない。
玄関で一度だけ振り返る。俺以外、誰もいない。音もない。それでも、少しだけ足が止まった。理由は考えないようにした。そのままドアを開ける。夕闇の気配が、すぐそこまで来ていた。
空気が、思っていたより冷たい。マフラーに顔を埋める。それでも頬に触れる風は避けられなかった。足を動かす。見慣れた道、歩きなれた道のはずなのに、少しだけ遠くに感じる。何も考えないようにして歩いた。
待ち合わせ場所のコンビニの明かりが見えてくる。店の前に人影があった。バイクに背を預けて、スマホを見ている。ここからでも分かる。伊織だ。
「もう来てたんだ」
「うん」
自動ドアの音が鳴る。店内の空気は少し暖かい。明るすぎる光に、少し目が慣れなかった。商品棚の色が、やけにくっきりして見える。こんな風に見えた事は、一度もなかった。何も変わってないはずなのに、どこか落ち着かない。
レジ横のケースに目がいく。湯気の向こうで、肉まんがひどく輝いて見えた。
「それ、ください」
「いいの?」
「もちろん」
ガラスケースの中で、白い湯気がゆらゆら揺れている。ぼんやり眺めていると、時間の感覚が少しだけ鈍く感じた。
「他に、何かいる?」
伊織が囁くように問いかける。少し迷ってから、小さく耳打ちした。
「……死ぬ前に煙草、吸ってみたい」
「いいけど、多分思ってるのと違うよ」
伊織は特に驚いた様子もなく、淡々と銘柄を告げる。そのまま、横に置いてあるライターを手に取った。ピッ、と軽い音が鳴る。画面に表示された年齢確認。伊織は迷うことなくボタンを押した。
「なんだか、悪いことしてるみたい」
「してるよ」
簡単に返される。それだけのことなのに、少しだけ可笑しかった。自動ドアの音がやけに鮮明に聞こえた。
外に出ると、空気がさっきよりも冷たい。もう、日は沈んでいた。袋から、煙草とライターを取り出す。伊織の見よう見まねで火をつけようとしたが、上手くいかない。何度か繰り返して、諦めようとしたとき、
「じっとしてて」
言われた通り、タバコをくわえる。顔を上げた瞬間、すぐそこに伊織がいた。思ってたよりも、近い。触れそうで触れない、ギリギリの距離。息がかかる。ジュッ、と小さな音がした。少し遅れて、火が移る。
「……できた」
一度息を吸い込む。次の瞬間、喉が焼けるように痛んだ。思わず咳き込む。
「っ、……なにこれ」
「だから言ったのに」
伊織は、なんでもないみたいに煙を吐き出す。その仕草が、やけに様になっていた。目が、離せなかった。
伊織は煙草を地面に落として、足で軽く踏み消す。
「後ろ、乗って」
言われるがままにバイクの後ろにまたがる。どこを掴めばいいかわからなくて、少し迷った。
「ちゃんと掴まって、危ないでしょ」
言われた通り、腕を回す。触れた体温が、思っていたよりも温かかった。エンジン音が響く。その瞬間、身体が後ろに引かれる。景色が、一気に流れ始めた。夜の風が、頬を撫でる。さっきまで感じていた寒さとは違う。ただ、気持ちよかった。
見慣れたはずの道が、少しずつ遠ざかっていく。信号の赤が、滲んで見える。何も考えられなかった。それが、ひどく楽だった。
どれくらい走ったのか、分からない。気がついたときには、知らない道に入っていた。街灯が減って、暗さが増していく。それでも、微塵も怖いとは思わなかった。むしろ、そのままどこかへ行ってしまいたかった。
風の音が強くなって、会話はもうない。しばらくして、バイクがゆっくりと止まる。エンジン音が消えて、急に静かになった。
ここがどこなのか、分からなかった。見上げると、見知らぬ建物が並んでいる。ネオンの光が、煌めいていた。伊織がバイクを降りる。少し遅れて、俺も足をついた。まだ、身体の奥に振動が残っている気がする。
「寒い?」
「……平気」
そう答えながら、少しだけ腕に力を入れた。離れるのが惜しかった。目の前の建物に、視線が止まる。何の建物かなんて、考えなくても分かった。
「ここにする?」
軽い声だった。選択肢みたいに聞こえるのに、どこか決まっているような言い方だった。――帰ろうと思えば、帰れる。ふと、そう思った。今ならまだ、引き返せる。何事もなかったことにして、家に戻って、いつも通りに。そこまで考えて、やめた。
「……うん」
小さく頷く。本当は、理由なんてなかった。ただ、もう少しだけ、近くにいたかった。自動ドアが開く。外の空気とは違う、甘い匂いがした。明るすぎない照明が、逆に落ち着かない。
フロントには、誰もいなかった。代わりに、無機質なパネルが並んでいる。伊織が、なんて事ないように操作した。画面の光が、横顔を照らしている。その間、何も言えなかった。ピッ、と音が鳴る。部屋番号が表示される。
「行こ」
短く言って、先に歩き出す。少しだけ間を置いて、その背中を追った。エレベーターに乗る。階数表示が、静かに変わっていく。隣にいるはずなのに、妙に遠く感じた。
手を引かれて、部屋に入る。扉が閉まる音が、思っていたよりも大きく響いた。それで、外界と切り離された気がした。
部屋の中は、妙に整いすぎていた。使われているはずなのに、生活の気配がない。ベッドも、テーブルも、最初からそこにあったみたいに整っている。どこに立てばいいのか分からなくて、その場に止まった。
「適当に座っていいよ」
伊織はそう言って、コートを脱ぐ。その仕草を、ぼんやり眺めていた。ここに来るまで、何も考えていなかったはずなのに。急に、現実に戻ってきたみたいだった。静かすぎる。さっきまであった音が、全部なくなっていた。
「……飲み物、いる?」
「いらない」
喉は渇いているはずなのに、何かを口に入れる気にはなれなかった。ベッドの端に、腰を下ろす。柔らかすぎて、少しだけ落ち着かなかった。手の置き場に困って、シーツを軽く握る。
足音が近づく。顔を上げると、すぐそこに伊織がいた。近い。さっきよりも、もっと。何も言わないまま、視線が合う。それだけで、息が少し詰まった。――ここで、やめてもいい。ふと、そんな考えが浮かぶ。でも、口には出さなかった。目も、逸らさなかった。逃げなかったのは、たぶんもう、戻る気がなかったからだ。
そのまま、少しだけ距離が縮まる。どちらからともなく、だった。息が触れる。逃げなかった。気づいたときには、距離がなくなっていた。何をされたのか、よく覚えていない。ただ、拒まなかったことだけは、覚えていた。




