第一楽章
朝、いつも通りの時間に目が覚めた。アラームなんてない。けど、この時間に起きるのが習慣になっていた。
一階に降りて、朝食を作る。目玉焼きと、味噌汁。そして、昨日のうちに炊飯予約していたご飯。それらを盛り付け終わったとき、二階から足音が聞こえた。一段、二段、ゆっくり降りて来る。それだけで分かった。今日は運の悪い日だ。
名前を呼ばれる。気づけば、すぐ後ろだった。何か言われていた。途中からよく聞こえなかったけど。いつの間にか、床が近づいていた。少し遅れて、頬が熱くなる。最後に一言、吐き捨てるように言われた。
「お前なんて、産まなければよかった」
こっちだって産んでくれなんて頼んでない。
玄関の全身鏡の前で、表情を整える。鏡の中の自分は、いつもと同じだった。顔の左側の色が違うのも、見慣れている。髪を指で整えて、そこにかかるようにした。
右頬は、少しだけ熱を持っていた。薄く残った赤は、いまだ消えそうにない。……まあいいか。誰も気にしない。
いつもと同じ道を歩く。足元だけを見ていた。道路端の白線を、外れないように。自転車が真横を通り過ぎる。ベルの音が、耳に残った。
信号が赤に変わる。止まる。しばらくして、青に変わる。歩き出す。前を歩く人の靴を、ぼんやりと眺めていた。追い越すことも、追いつくこともない。頬は、まだ少し熱かった。
気が付けば校門が見えてきた。足取りが重くなった気がした。
教室に入って、自分の席へ向かう。途中、誰かと肩がぶつかった。
「ごめん」
返事はない。代わりに、くすくすと笑い声が聞こえた。席に着く。机の上に、いくつかの細い線が引かれていた。なにかで、削り取られたような浅い傷。指でなぞろうとして、やめた。
「ああいうの、ほんと無理」
「わかる。関わりたくないよね」
「あの火傷も、気味が悪い」
思わず、左頬に触れかけて手を止める。何事も無かったように手を下ろした。いつもの事だ。だから、どうでもいい。……そう思うことにした。
帰りのSHRが終わる。椅子が引かれる音と、雑音が重なった。それに紛れるように、立ち上がる。荷物を取って、真っ先に三階へ向かった。
廊下に出る。階段に近づけば近づくほど、周囲の喧騒から切り離される。それでもまだ、笑い声が追いかけている気がした。階段を上る。一段、また一段。音が遠くなる。気が付けば、足音だけになっていた。
廊下の奥から、ピアノの音が聞こえてくる。音楽室の前、扉に手をかけようとして、少し迷った。けど、すぐに扉をあける。中は少しだけ暗かった。音楽室の奥、窓際に置かれたピアノ。そこから、音が流れていた。見なくても分かる。伊織だ。
「来た」
鍵盤を見たまま、声が落ちる。扉を閉める。それだけで、外の世界の音が消えた。
「うん」
「いつものでいい?」
「いい」
音色が変わる。ゆっくりと、空気に馴染んでいく。ベートーベンの、ピアノソナタ第十四番「月光」第一楽章。目を閉じる。音だけが、空間を支配する。何もかも、どうでも良くなる。この時間が、なによりも好きだった。
「澪」
呼ばれて、目を開ける。
「……なに」
「俺、澪のことが好きだよ」
鍵盤に触れたまま、伊織が言う。まるで、世間話をするように。少しだけ、音が揺れた気がした。
「……そう」
それ以上は何も言わない。言えない。言う資格なんて、ない。だから、音色に意識を戻した。さっきの言葉も、無かったみたいに。鍵盤の音だけが、静かに続いている。
「俺、」
「ん?」
「……死にたい」
自分でも、どうしていま言ったのか分からない。気づいたら、口をついていた。伊織は少しだけ指を止めた。一瞬、音が止まる。
「そっか」
それだけだった。否定も、肯定もしない。
「じゃあさ」
ゆっくりと、音が静まっていく。この終わり方が、好きだった。
「その前に楽しいこと、してみない?」




