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1.すべてを失った騎士

「残念だが、こうなってしまってはそなたにはもう王配は務まらぬだろう。わが娘、ツェツェーリアとの婚約は解消とする」

ラドリア王国の国王は王妃と王女とともに、新年を祝う宴に出席した大勢の貴族たちの前でそう宣言した。

大広間は着飾った貴族たちで埋め尽くされているが、国王一家の立つ壇の真正面で片膝をつき、深々と頭を垂れている騎士の周りには、ぽっかりと穴が空いたように人がいない。貴族たちはみな、呼吸の音を立てることすら憚るように、ことの成り行きを見守っていた。

それもそのはず、この騎士はいま全身から、近くで息をすることさえ難しいような悪臭を立ち上らせているのだった。皮膚には気味の悪い緑色の水疱がいくつもでき、その皮膚を人目にさらすことを厭ってか、顔ばかりか指の1本1本にも包帯が巻かれているが、その包帯にあちこちにどす黒い緑色の染みが出てきている。

沼地の魔物を倒した際に、その魔物が吐く毒を浴びた結果のことだった。

いまは皮膚の表層だけにその毒の影響が出ているが、おそらく徐々に体の奥深くまで蝕まれてゆき、やがて内臓が溶けて死に至るだろう。

魔物の毒に関する研究は盛んになされているとはいえ、どの魔物の毒に関しても完全な解毒に至った例はない。苦痛を和らげるための薬は数種類あるが、いずれも非常に高価である。

「ロディ……これまで本当にありがとう」

王女ツェツェーリアは、大きなアメジストのような瞳にいっぱいに涙をためて震える声を絞り出した。そのあまりの美しさといじらしさに、貴族たちの間から切ないため息がもれる。

「これ以上はお役に立てそうもありません。不甲斐ないあなたの騎士をお許しください」

ロディ、と呼ばれたその騎士は、感情を抑えた淡々とした声で答えた。

「つきましては国王陛下から賜りました所領も貴族位も返上させていただきたく。その代わりと申し上げては生意気かもしれませんが、今後数年間療養できる小さな家をどこかにいただければ、それで十分でございます」

この奏上は国王一家と貴族たちにとって意外なものだったようだ。場がざわりと揺れた。

「そなたには何も落ち度がないというのに、そなたから領地も貴族位も取り上げろと申すか」

「わたしには元より分不相応のもの、継ぐ者もいないとなれば領民たちも不安がりましょう」

「ふむ…そうか。しかし最強の騎士ロデリックの名はここラドリア王国だけでなく大陸中に轟いておる。そなたの名を継ぎたいと思う者はきっと簡単に見つけられようぞ」

「酷なことを。この身も心もすべて王女殿下にお捧げするものと思い定めて参りましたのに、ここに来て変節せよと仰いますか」

領地も貴族位も妻子に相続させることができる。大きな銀鉱のあるロデリックの現在の所領は、王女と結婚した後は王家の直轄領とされることになっていたが、ロデリックと王女の間に2人以上の子が生まれれば、王位を継承しないほうの子が臣籍降下した際に、その子に所領として与えてロデリックの家名を復活させることもできた。

貴族たちの常識から考えれば、王女との婚約が解消されたいま、ロデリックはその命が尽きる前に、妻を娶るか養子を取るかして多少なりとも彼の名誉を残そうとするものと思われた。気の早い貴族たちはすでに心の中で、自分の娘や親戚の中にロデリックに嫁がせる算段を巡らしていた。

しかしロデリックは、その気はないとはっきり宣言している。これに国王がどう答えるか、貴族たちは固唾を飲んで見守った。

「…そうか。そこまで王女を想ってくれたこと、感謝する」

それでは、と、国王はその場を見渡した。

「騎士ロデリックに、休息の地を提供する栄誉にあずかりたい者はいるか」

ふたたび場がざわりと揺れた。

莫大な利益を産む見通しのあるロデリックの所領を手に入れられる可能性があったのなら、貴族たちはここでこぞって手を挙げただろう。そして何としてでも自分か自分の縁者の娘と結婚させるなりなんなりして-籠絡できればよし、できなければ、毒で弱った後にいくらでもやりようはある-、ロデリックの死後は、銀鉱を我が物とする。

しかしロデリックは所領を返上するつもりでいるらしい。国王はまだ是とも否とも答えていないが、王家の側に何の損もない申し出である以上答えは火を見るよりも明らかで、それならば、ロデリックを世話することの損と利益は損の方に傾く確率のほうが高いように思われた。

「あなた、うちに来ていただいたらどう?私たちの領地も、ロデリックさまにお助けいただいたことがあったでしょう」

「そうだが…しかし、うちの娘も来年から王立学院に入るだろう。そんな余裕があるか」

広間のあちこちでそんなささやきが交わされている。騎士としての実績は目覚ましいとはいえ、もとはといえば平民の出で、この先はただただ薬代がかかるばかり、大きな武勲を立てることもあり得ない。それに以前王女の婚約者の座を争った他の貴族たちからはいまだに良い感情を持たれていない。

立場、名誉、展望、健康…そのすべてを失った騎士に損を覚悟で手を差し伸べる者はどこにもいないかと思われた、その矢先。


「国王陛下にご挨拶申し上げます」


凛とした若い女性の声が、広間のざわめきをぴしりと打った。

「っ、魔女だあっ」

「何!?まさかあれが例の死体蒐集家の」

「間違いない、あの黒薔薇をみろ」

広間の一角でにわかにどよめきが起こった。人垣がざっと左右に割れ、その間を悠々と、こつ、こつ、と靴音を立てながら、細身の人影が歩いてくる。頭からつま先まですっぽりと黒いヴェールに覆われていて顔かたちは判然としないが、ヴェールとドレスの裾にはなるほど確かに黒い薔薇がびっしりと鈴なりになって、ほのかに甘い香りを漂わせていた。

彼女はゆったりとした足取りで、しかし迷わずまっすぐに騎士ロデリックのもとに向かい、固唾を飲んで見守る諸貴族の前で、ロデリックの隣にふわりと膝を折った。ロデリックと肩が触れ合いそうなほどの至近距離で、そこにたちこめたえも言われぬ悪臭に、黒薔薇の芳香がさやかな抵抗を始める。

「黒薔薇の魔女。久しいな」

国王は、落ち着き払った声を出すという挑戦にからくも成功したといっていいだろう。しかし左右に立つ王女と王妃はあきらかに動揺して、とくにツェツェーリアは、さきほどまでの可憐な姫の仮面がすっかり剥がれ落ちて憎々しげに黒薔薇の魔女を睨みつけている。もっとも、その場にいたほとんどの者たちは黒薔薇の魔女のほうに視線を奪われていて、王女の様子に気を配ってなどいなかった。

「お久しゅうございます」

「そなたがこのような場に出てくるとはよほどのことがあってと見える。用向きを聞こうか」

黒薔薇の魔女は右手を胸に当てて立ち上がった。

「ではお言葉に甘えて。ロデリック卿の身柄はわたくしが責任をもって預からせていただきます」

ため息とも押し殺した悲鳴ともつかぬ声が広間のあちこちで上がった。

「…しかし」

「それとも」

国王の言葉に被せるように、魔女はぐるりと広間を見渡す。嫌悪、恐怖、憎悪、驚愕、警戒、ありとあらゆる負の感情を浮かべた、いくつもの顔を。

「他にどなたか、いらっしゃいまして?わたくしにはそうは聞こえませんでしたが」

魔女はいっそ傲慢なほどに穏やかに、重ねて問うた。

「陛下。お許しをいただけますか」

「……ああ。ロデリックはこの王国の英雄だ。ふさわしくもてなせ」

「もちろんです。ロデリック卿、それでよろしいですか」

黒薔薇の魔女はロデリックの意志を確かめるように、そっと肩に触れた。しかしロデリックは答えず、その体はぐらりと傾いだ。

「…あら大変。熱がすごいわ。すぐに御前を失礼させていただきます」


すべてを失った騎士はこのとき、気を失っていたのである。

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