あわいにて
二月の空の下、人はときどき「帰れなかった場所」と向き合う瞬間に出会います。
それは勇気かもしれないし、後悔かもしれないし、ただの思いつきかもしれません。
けれど、その一歩を踏み出したとき、世界は思いがけない表情を見せることがあります。
本作は、そんな“あわい”に立つひとりの女性の物語です。
懐かしさと緊張、期待と不安、言えなかった言葉と、言いたかった言葉。
そのすべてが、静かに、しかし確かに胸を打ちます。
ページを開く前に、深呼吸をひとつ。
あなたの中の「まだ言えていない言葉」が、そっと反応するかもしれません。
二月の空は、どこまでも青かった。
ロケバスの窓から見える景色が、少しずつ見慣れたものに変わっていく。都会の喧騒を抜け、高速道路を降り、田んぼと住宅が混在する郊外の道へ。松本美咲は、膝の上に置いた封筒を何度も確認した。
白い封筒。中には便箋が三枚。
昨夜、何度も書き直した手紙が入っている。
「美咲さん、緊張してます?」
隣に座るカメラマンの田中さんが、にこやかに声をかけてきた。四十代半ばのベテランで、美咲が入社した頃から何かと面倒を見てくれている人だ。
「あ、はい。やっぱり、ちょっと」
「そりゃそうですよね。でも大丈夫、自然体でいきましょう」
田中さんは気楽そうに言うが、美咲の心臓は朝からずっとバクバクと鳴り続けていた。
テレビの制作側にいる自分が、まさかカメラの前に立つ日が来るなんて。
きっかけは、三週間前の飲み会だった。
番組のクランクアップを祝う打ち上げの席で、美咲は珍しく酔っていた。隣に座っていた上司の村田さんに、気がつけば実家の話をしていた。八年前に飛び出したこと。一度も帰っていないこと。父の顔を思い出すと胸が苦しくなること。
「松本、お前さ」
村田さんは焼酎のグラスを置いて、真剣な目で美咲を見た。
「後悔してんなら、会いに行けよ」
「でも、八年も経っちゃって……」
「八年経ったから何だよ。九年目に会うか、一生会わないか、どっちがいい」
その言葉が、胸に刺さった。
「……うちの番組でさ、企画組んでやろうか」
「え?」
「家族の和解企画。お前が出ろよ」
冗談かと思った。でも村田さんの目は本気だった。
「いや、私はスタッフですし……」
「スタッフだから何だよ。届けたい思いがあるなら、届けろ。それがテレビだろ」
その夜、美咲は泣きながら帰った。
そして一週間悩んで、村田さんに「お願いします」と頭を下げた。
ロケバスが減速する。見覚えのある交差点。美咲は窓の外を見つめた。
この道を何百回通っただろう。小学校への通学路。中学の部活帰り。高校の頃、自転車で走り抜けた夕暮れ。
全部、覚えている。
なのに、八年も帰らなかった。
「そろそろ降りましょうか。ここから歩きで撮影開始です」
ディレクターの声で、美咲は我に返った。封筒をバッグにしまい、深呼吸をしてからバスを降りる。
二月の風が頬を撫でた。冷たいけれど、どこか懐かしい匂いがした。
「じゃあ美咲さん、まずは軽く周辺を歩きながら思い出を語ってもらって、最後にお店に向かう流れでいきますね」
「はい、わかりました」
胸の前でピンマイクの位置を確認しながら、美咲は笑顔を作った。
カメラが回り始める。
「えーと、ここが私の地元で、八年ぶりに帰ってきました!」
声が少し上ずった。普段は絶対にカメラの前には立たない。慣れないことをしている緊張感が、全身を強張らせる。
でも、やると決めたのだ。
美咲は歩き始めた。カメラマンの田中さんが横を歩き、ディレクターが少し離れた場所からついてくる。
「あ、ここ!私が通ってた小学校です」
校門の前で立ち止まる。校舎は記憶の中のままだった。壁の色が少し褪せたくらいで、何も変わっていない。
「六年間通いました。朝、お母さんが作ってくれたお弁当を持って……あ、でもうちは定食屋なんで、お弁当のおかずがいつも豪華で、友達に羨ましがられてました」
思い出すと、自然と笑顔になった。緊張がほんの少しほぐれる。
さらに歩く。商店街に差し掛かると、懐かしい店が並んでいた。
「わあ、このお好み焼き屋さん、まだあったんだ!」
美咲は思わず声を上げた。高校時代、部活帰りによく通った店。赤い暖簾が風に揺れている。
「高校の時、バスケ部だったんですけど、練習終わりにここで友達と食べるのが定番で。豚玉とご飯セットで八百八十円。高校生にはちょっと贅沢だったんですけど、月に二回くらいは来てました」
カメラに向かって話しながら、美咲は当時の自分を思い出していた。汗だくのまま暖簾をくぐって、友達と並んで座って、鉄板の上でじゅうじゅう焼ける音を聞きながら、たわいもない話をした。
あの頃は、自分が実家を飛び出すなんて、想像もしていなかった。
さらに歩くと、小さな公園が見えてきた。
「あ、ここ……」
足が止まる。ブランコと滑り台、砂場だけの小さな公園。街灯が一本だけ立っていて、ベンチが二つ。
「ここ、初めて付き合った彼氏と、日が暮れるまで話した場所なんです」
カメラに向かって笑いながら言った。
「高二の夏でした。告白されて、嬉しくて、何話したか全然覚えてないんですけど、暗くなるまでずっと話してて。帰ったらお父さんに『どこ行ってた』って怒られて」
言ってから、少しだけ胸が痛んだ。
お父さん。
あの頃はまだ、普通に話していた。反抗期特有のぶっきらぼうさはあったけど、ちゃんと親子だった。
「じゃあ、そろそろお店の方に向かいましょうか」
ディレクターの声。美咲は頷いて、歩き出した。
角を曲がると、見慣れた通りに出る。商店街のはずれ、住宅街との境目にある小さな定食屋。
「定食屋まつもと」
父が三十年以上続けてきた店。
看板が見えてきた。緑色の地に白い文字。子供の頃から見慣れた、あの看板。
美咲の心臓が早鐘を打ち始めた。
もうすぐ会える。八年ぶりに、お父さんに会える。
手紙を読む。ちゃんと準備した言葉を、伝える。
美咲は封筒の感触を確かめるように、バッグの外側からそっと触れた。
あと五十メートル。
あと三十メートル。
「すみません、ちょっとストップで」
突然、ディレクターがカメラマンに声をかけた。
美咲は立ち止まった。田中さんもカメラを下ろす。
「どうかしましたか?」
「あ、いえ、ちょっと……美咲さん、すみません、少しだけロケバスで待っていてもらえますか」
ディレクターの表情がわずかに強張っていた。何かを隠そうとしている顔。美咲はテレビの仕事を八年もやっているから、そういう空気を読み取るのは得意だった。
「機材トラブルですか?」
「あ、まあ、そんな感じで。すぐ戻りますんで」
腑に落ちなかったが、美咲は頷いた。
ロケバスに戻り、座席に座る。窓から定食屋の方向を見つめた。ここからでは看板は見えない。
何だろう。機材トラブルにしては、ディレクターの様子がおかしかった。
三分経ち、五分経ち、十分が過ぎた。
美咲は落ち着かない気持ちでスマートフォンを触っていた。SNSを開いては閉じ、ニュースアプリを開いては閉じ、何も頭に入ってこない。
ロケバスのドアが開いた。
ディレクターが乗り込んでくる。その顔を見て、美咲は息を呑んだ。
明らかに動揺していた。
「美咲さん、落ち着いて聞いてください」
「……何かあったんですか」
「お父様が……」
ディレクターが言葉を詰まらせた。
その瞬間、美咲の頭の中が真っ白になった。
「救急車で運ばれたそうです。営業中に倒れられて……心筋梗塞の疑いがあると」
聞こえているのに、意味が理解できなかった。
お父さんが?倒れた?
「今、どこの病院に……」
「市民病院です。今から向かいます」
美咲は立ち上がった。
「走ります」
「え、いや、バスで……」
「走った方が早い」
バッグを掴んで、ロケバスを飛び降りた。
走った。定食屋の前を駆け抜けた。暖簾が出ていた。店は営業中だった。中にお客さんがいるのが見えた。でも、父の姿はなかった。母の姿も。
「すみません!」
店に飛び込んだ。カウンターに座っていた年配の男性が驚いて振り返る。
「あ、あんた、美咲ちゃん?」
常連さんだった。名前は思い出せない。でも、顔は覚えている。
「お父さんは、どこの病院に……」
「市民病院。救急車で運ばれてったよ。お母さんも一緒に」
「ありがとうございます!」
また走り出した。
市民病院までは二キロ以上ある。普段なら無理な距離だった。でも、足は止まらなかった。
息が上がる。肺が痛い。それでも走った。
なんで。
なんで今日なのよ。
八年ぶりに会いに来た、今日。
ようやく「ごめんなさい」って言えると思った、今日。
神様って、こんなに意地悪なの?
途中で、ロケバスが追いついてきた。ディレクターがドアを開けて「乗ってください」と叫んだ。
美咲は乗り込んだ。息が荒い。汗が額から流れ落ちる。
病院までの数分間、誰も何も言わなかった。
車が病院の駐車場に入る。止まりきる前にドアを開けて、美咲は飛び降りた。
受付に駆け込む。
「松本譲一の、家族です。どこにいますか」
受付の女性が端末を操作する。その数秒が永遠に感じられた。
「三階の……」
聞き終わる前に走り出した。階段を駆け上がる。エレベーターを待つ時間すら惜しかった。
三階。長い廊下。病室の番号を探す。
ナースステーションの前に、母が立っていた。
幸子は、美咲の姿を見て目を見開いた。
「美咲……?」
八年ぶりの再会だった。母は少し痩せて、白髪が増えていた。でも、美咲を見つめる目は昔のままだった。
「お母さん、お父さんは」
幸子の目から涙がこぼれた。
その瞬間、美咲は全てを悟った。
「嘘……」
「救急車の中で処置してくれて……すぐに手術室に運ばれたんだけど……」
幸子が言葉を詰まらせた。
「間に合わなかった」
美咲の膝から力が抜けた。
その場に崩れ落ちそうになるのを、幸子が支えた。
嘘だ。
嘘だ。
今日会えるはずだった。手紙を読むはずだった。
「美咲、お父さんに会ってあげて」
幸子に支えられながら、美咲は病室に入った。
白いベッドに、父が横たわっていた。
目を閉じて、眠っているようだった。
でも、もう目を開けることはない。
「お父……さん……」
美咲はベッドの横に膝をついた。
父の手を取った。まだ温かかった。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
涙が止まらなかった。
謝りたいことがあった。伝えたいことがあった。全部、今日伝えるはずだった。
バッグの中の封筒。便箋三枚。昨夜、何度も書き直した手紙。
もう、届かない。
美咲は父の手を握りしめたまま、声を上げて泣いた。
葬儀は三日後に行われた。
小さな葬儀場に、驚くほど多くの人が集まった。定食屋の常連さんたち、近所の商店主たち、父の友人たち。
美咲は喪服を着て、受付の横に立っていた。
次から次へと訪れる弔問客に、頭を下げ続けた。
「美咲ちゃん、大きくなったねえ」
「譲一さんにはお世話になって」
「あの唐揚げ定食、もう食べられないんだな」
皆が父の話をしてくれた。皆が父を惜しんでくれた。
父がどれだけ愛されていたか、美咲は改めて知った。
そして、それを知らないまま八年も離れていた自分を、殴りたくなった。
焼香の時間になった。
読経が流れる中、弔問客が一人ずつ焼香台に向かう。
美咲は祭壇の前に座っていた。遺影の中の父が、少しだけ笑っている。写真は五年前のものだと、母が言っていた。
父は、五年前から少し白髪が増えたのだろうか。皺が深くなったのだろうか。
美咲は知らない。
知らないまま、父は逝ってしまった。
ふと、バッグの中の封筒に手が伸びた。
白い封筒。読めなかった手紙。
美咲はそっと封筒を取り出した。
便箋を広げる。自分の字が滲んで見えた。
あの日、何を伝えたかったのか。
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お父さんへ
八年ぶりに手紙を書きます。
こんなことをテレビの企画でやるなんて、お父さんは怒るかもしれません。「何を大げさな」って、鼻で笑うかもしれません。
でも、どうしても伝えたいことがあって、勇気を出してここに来ました。
私がお父さんの料理で一番好きだったのは、チキン南蛮です。
覚えていますか?私が小学三年生の時、初めてお店のメニューに加わったんですよね。お父さんが「新メニューの試作だ」って言って、私に一番に食べさせてくれました。
甘酸っぱいタレと、タルタルソースと、カリッと揚がった鶏肉。
一口食べて、「おいしい!」って叫んだら、お父さん、すごく嬉しそうな顔をしていました。普段は怖い顔ばっかりしてるのに、あの時だけは、なんだか照れくさそうに笑ってました。
それから、私は毎週のようにチキン南蛮をおねだりしました。「また食べたい」「今日も作って」って。お父さんは「しょうがないな」って言いながら、いつも作ってくれました。
高校生の時、部活で疲れて帰ってきたら、何も言わなくてもチキン南蛮が出てきたこともありました。お父さんは「残り物だ」って言ってたけど、絶対嘘でした。私のために、わざわざ作ってくれたんですよね。
もう一つ、忘れられない思い出があります。
小学五年生の時、初めて自分で料理を作りました。卵焼きです。
お母さんに教わりながら、フライパンを持つ手がガタガタ震えて、何度も失敗しました。焦がしたり、形が崩れたり、ぐちゃぐちゃになったり。
でもようやく、なんとか形になったものが一つできました。
お父さんに食べてもらいたくて、お店に持っていきました。
お客さんがいない時間を見計らって、カウンターに置いて、「これ、私が作った」って言いました。
お父さんは何も言わずに、箸で卵焼きを取って、口に入れました。
私、ドキドキしながら見てました。
そしたらお父さん、「うまい」って言ってくれたんです。
それだけでした。「うまい」って一言だけ。
でも、その一言が、今でも私の宝物です。
お父さん。
私は大学二年生の時、映画を撮りました。文化祭で上映するためだけに作った、短い映画です。
上映が終わった時、観客が拍手してくれました。友達が「すごい」って言ってくれました。
その瞬間、私の中で何かが変わりました。
この道で生きていきたい。映像の世界で、自分の作品を作りたい。
お父さんに言った時、最初は笑ってましたよね。「趣味だろ」って。
でも私が本気だとわかったら、すごく怒りました。
「上手くいくかもわからない。苦労して生きていくより、この店なら常連さんも多い。売上も安定している。お前が映画が好きなのは俺も知ってる。でも、好きと仕事は違うんだ。どうしても映画が撮りたいなら、趣味でやればいい」
お父さんの言葉は、全部正しかったと思います。
実際、私は映画監督にはなれませんでした。テレビの制作会社に入って、裏方の仕事をしています。お父さんが思い描いていた「映画の世界」とは、きっと違うと思います。
でも、後悔はしていません。
毎日が大変で、辛くて、泣きたくなることもあるけど、この仕事が好きです。
私は、好きなことを仕事にできました。
それは、お父さんが「好きなことを仕事にする姿」を見せてくれたからです。
お父さんは料理が好きで、定食屋を続けて、お客さんに喜んでもらうのが好きだった。
その背中を見て育ったから、私も「好きなことを仕事にしたい」と思えたんです。
お父さん。
私、ずっと言えなかったことがあります。
小さい頃から、ずっとずっと。
反抗期の時も、大学生の時も、喧嘩した時も、家を出た後も。
ずっと。
お父さんのことが、大好きでした。
でも、言えませんでした。恥ずかしくて。照れくさくて。素直になれなくて。
家を出る時も、本当は抱きしめてほしかった。「頑張れ」って言ってほしかった。でも、自分から言い出せなくて、黙って出ていくことしかできませんでした。
八年間、連絡しなかったのは、怖かったからです。
お父さんに嫌われてるんじゃないか。許してもらえないんじゃないか。
そう思うと、電話もできなかった。
でも、今日、勇気を出してここに来ました。
お父さん。
今まで一度も言えなかった言葉を、今日初めて言わせてください。
お父さん、大好きです。
ずっとずっと、大好きでした。
ありがとう。
美咲
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美咲は便箋を膝の上に置いた。
涙で文字が滲んでいた。
この手紙を、父に読み上げるはずだった。
カメラの前で、照れながら、泣きながら、一言一言伝えるはずだった。
父は、どんな顔をしただろう。
「何を大げさな」って言っただろうか。
でも、きっと、嬉しかったんじゃないかと思う。
あの時の卵焼きみたいに、ぶっきらぼうに「ああ」とか言いながら、心の中では喜んでくれたんじゃないかと思う。
もう、確かめようがない。
読経が終わり、出棺の時間になった。
幸子が美咲の隣に来た。
「美咲」
「……うん」
「お棺に、何か入れてあげる?」
美咲は手紙を見つめた。
便箋三枚。読めなかった手紙。届かなかった言葉。
「……これを」
美咲は立ち上がり、棺の前に進んだ。
父の顔は、穏やかだった。眠っているように見えた。
美咲は便箋を三つ折りにして、父の手のそばにそっと置いた。
「お父さん」
声が震えた。
「届けられなくて、ごめんね」
涙が棺の縁に落ちた。
「でも、読んでね。そっちで、読んでね」
美咲は父の頬にそっと触れた。
冷たかった。
もう、温かくはなかった。
でも、触れていたかった。
「大好きだよ、お父さん」
声に出して言ったのは、生まれて初めてだった。
聞こえていないとわかっていても、言いたかった。
火葬が終わり、葬儀場に戻ったのは夕方だった。
弔問客は帰り、広い部屋には美咲と幸子だけが残っていた。
二人とも疲れ切っていて、しばらく無言で座っていた。
やがて幸子が、ぽつりと言った。
「お父さんね」
美咲は顔を上げた。
「あんたの番組、毎週観てたよ」
心臓が跳ねた。
「……え?」
「土曜の夜の番組でしょ。エンドロールにあんたの名前が出るやつ」
美咲は息を呑んだ。
自分がADとして関わっている番組。名前がクレジットされるようになったのは三年前からだ。
「……お父さんが?」
「毎週欠かさず。録画までしてね」
幸子は少しだけ笑った。
「最初はね、私も知らなかったの。ある日、居間に行ったら、お父さんがテレビの前でじっと画面を見てて。何してるのかと思ったら、エンドロールだったの」
美咲は言葉が出なかった。
「『美咲の名前が出る』って言うから、私も一緒に見たの。そしたら本当に、あんたの名前が出て」
幸子の目に涙が浮かんだ。
「お父さん、泣いてた」
「……」
「普段は絶対泣かない人なのに。テレビの前で、声も出さずに泣いてた」
美咲の視界が滲んだ。
「なんで……」
「連絡しなかったのかって?」
幸子は首を振った。
「できなかったんだと思う。意地っ張りだから。自分から連絡したら、負けだと思ってたんじゃないかな」
負け。
そんなの、美咲も同じだった。
自分から連絡したら負け。謝ったら負け。
そんなくだらない意地を張り続けて、八年が経った。
「お父さん、あんたのこと、ずっと自慢してたよ」
「……え?」
「常連さんにね。『うちの娘、テレビの仕事してるんだ』って。嬉しそうに話してた」
美咲は両手で顔を覆った。
知らなかった。
父が自分のことを見ていたなんて。自慢していたなんて。
八年間、嫌われていると思っていた。許してもらえないと思っていた。
でも、父は見ていた。
毎週、娘の名前を探して、テレビを観ていた。
「ごめんなさい……」
美咲は嗚咽した。
「ごめんなさい、お母さん。私、ずっと連絡もしなくて……」
幸子は美咲の肩を抱いた。
「あんたは悪くないよ」
「でも、もっと早く……」
「誰が悪いとか、もうどうでもいいの」
幸子は美咲の髪を撫でた。
「お父さんはね、あんたのこと、ずっと愛してた。それだけは、覚えておいて」
美咲は母の胸に顔を埋めて、子供のように泣いた。
伝えたかった。
「大好き」って、伝えたかった。
でも、父も同じだったのだ。
言えなかっただけで、ずっと愛してくれていた。
不器用な父と、不器用な娘。
お互い、同じだった。
なのに、八年も気づかなかった。
そして、もう取り返しがつかない。
葬儀の翌週、美咲は仕事に戻った。
村田さんは何も言わなかった。ただ「無理するなよ」とだけ言って、いつも通りに接してくれた。
ロケに行き、編集室に籠り、会議に出席する。日常が戻ってきた。
でも、夜になるとふと手が止まる。
父の顔を思い出す。父の声を思い出す。「うまい」と言った時の、あのぶっきらぼうな声を。
もう聞けない。
永遠に、聞けない。
ある日の夜、美咲はスマートフォンで父の店の写真を検索した。
食べログのレビューが出てきた。
「ここのチキン南蛮は絶品。店主のこだわりを感じる」
「優しい味のする定食屋。また来たい」
「無口だけど温かいご主人。常連さんに愛されてるのがわかる」
美咲は画面を見つめた。
父は、愛されていた。
たくさんの人に、愛されていた。
そして、私も愛されていた。
知らなかっただけで、ずっと。
美咲は目を閉じた。
瞼の裏に、父の後ろ姿が浮かんだ。
厨房に立ち、フライパンを振る父。
大きな背中。
あの背中に「大好き」と言いたかった。
生きているうちに、一度だけでも。
言葉にしていれば、何か変わっただろうか。
わからない。
でも、言えなかった後悔だけは、一生消えない。
美咲は空を見上げた。
星が瞬いていた。
あの星の向こうに、父はいるのだろうか。
手紙は、届いただろうか。
「お父さん」
美咲は呟いた。
「大好きだよ」
声は夜空に消えていった。
届いたかどうかは、わからない。
でも、これからは毎日言おうと思った。
空に向かって、父に向かって。
言えなかった八年間を取り戻すように。
届かなくても、伝え続けようと。
読み終えた今、胸の奥に残っているものは何でしょうか。
後悔かもしれないし、温かさかもしれないし、言葉にならない何かかもしれません。
人は誰しも、誰かに伝えそびれた思いを抱えて生きています。
それは決して弱さではなく、むしろ「大切にしていた証」なのだと思います。
本作の美咲がそうであったように、私たちもまた、不器用なまま誰かを想い続けています。
もし、あなたの心の中にも“あの人に言えなかった言葉”があるのなら、
それはまだ終わっていない物語なのかもしれません。
たとえ届かなくても、たとえ遅すぎても、
思い続けることそのものが、ひとつの祈りになるのだと思います。
この物語が、あなたの中の静かな場所に、そっと灯りをともしてくれていたら嬉しいです。




