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あわいにて

作者: 桜餅 詩音
掲載日:2025/12/30

 二月の空の下、人はときどき「帰れなかった場所」と向き合う瞬間に出会います。

 それは勇気かもしれないし、後悔かもしれないし、ただの思いつきかもしれません。

 けれど、その一歩を踏み出したとき、世界は思いがけない表情を見せることがあります。


 本作は、そんな“あわい”に立つひとりの女性の物語です。

 懐かしさと緊張、期待と不安、言えなかった言葉と、言いたかった言葉。

 そのすべてが、静かに、しかし確かに胸を打ちます。


 ページを開く前に、深呼吸をひとつ。

 あなたの中の「まだ言えていない言葉」が、そっと反応するかもしれません。

 二月の空は、どこまでも青かった。

 ロケバスの窓から見える景色が、少しずつ見慣れたものに変わっていく。都会の喧騒を抜け、高速道路を降り、田んぼと住宅が混在する郊外の道へ。松本美咲は、膝の上に置いた封筒を何度も確認した。

 白い封筒。中には便箋が三枚。

 昨夜、何度も書き直した手紙が入っている。

「美咲さん、緊張してます?」

 隣に座るカメラマンの田中さんが、にこやかに声をかけてきた。四十代半ばのベテランで、美咲が入社した頃から何かと面倒を見てくれている人だ。

「あ、はい。やっぱり、ちょっと」

「そりゃそうですよね。でも大丈夫、自然体でいきましょう」

 田中さんは気楽そうに言うが、美咲の心臓は朝からずっとバクバクと鳴り続けていた。

 テレビの制作側にいる自分が、まさかカメラの前に立つ日が来るなんて。


 きっかけは、三週間前の飲み会だった。

 番組のクランクアップを祝う打ち上げの席で、美咲は珍しく酔っていた。隣に座っていた上司の村田さんに、気がつけば実家の話をしていた。八年前に飛び出したこと。一度も帰っていないこと。父の顔を思い出すと胸が苦しくなること。

「松本、お前さ」

 村田さんは焼酎のグラスを置いて、真剣な目で美咲を見た。

「後悔してんなら、会いに行けよ」

「でも、八年も経っちゃって……」

「八年経ったから何だよ。九年目に会うか、一生会わないか、どっちがいい」

 その言葉が、胸に刺さった。

「……うちの番組でさ、企画組んでやろうか」

「え?」

「家族の和解企画。お前が出ろよ」

 冗談かと思った。でも村田さんの目は本気だった。

「いや、私はスタッフですし……」

「スタッフだから何だよ。届けたい思いがあるなら、届けろ。それがテレビだろ」

 その夜、美咲は泣きながら帰った。

 そして一週間悩んで、村田さんに「お願いします」と頭を下げた。

 ロケバスが減速する。見覚えのある交差点。美咲は窓の外を見つめた。

 この道を何百回通っただろう。小学校への通学路。中学の部活帰り。高校の頃、自転車で走り抜けた夕暮れ。

 全部、覚えている。

 なのに、八年も帰らなかった。


「そろそろ降りましょうか。ここから歩きで撮影開始です」

 ディレクターの声で、美咲は我に返った。封筒をバッグにしまい、深呼吸をしてからバスを降りる。

 二月の風が頬を撫でた。冷たいけれど、どこか懐かしい匂いがした。

「じゃあ美咲さん、まずは軽く周辺を歩きながら思い出を語ってもらって、最後にお店に向かう流れでいきますね」

「はい、わかりました」

 胸の前でピンマイクの位置を確認しながら、美咲は笑顔を作った。

 カメラが回り始める。

「えーと、ここが私の地元で、八年ぶりに帰ってきました!」

 声が少し上ずった。普段は絶対にカメラの前には立たない。慣れないことをしている緊張感が、全身を強張らせる。

 でも、やると決めたのだ。

 美咲は歩き始めた。カメラマンの田中さんが横を歩き、ディレクターが少し離れた場所からついてくる。

「あ、ここ!私が通ってた小学校です」

 校門の前で立ち止まる。校舎は記憶の中のままだった。壁の色が少し褪せたくらいで、何も変わっていない。

「六年間通いました。朝、お母さんが作ってくれたお弁当を持って……あ、でもうちは定食屋なんで、お弁当のおかずがいつも豪華で、友達に羨ましがられてました」

 思い出すと、自然と笑顔になった。緊張がほんの少しほぐれる。

 さらに歩く。商店街に差し掛かると、懐かしい店が並んでいた。

「わあ、このお好み焼き屋さん、まだあったんだ!」

 美咲は思わず声を上げた。高校時代、部活帰りによく通った店。赤い暖簾が風に揺れている。

「高校の時、バスケ部だったんですけど、練習終わりにここで友達と食べるのが定番で。豚玉とご飯セットで八百八十円。高校生にはちょっと贅沢だったんですけど、月に二回くらいは来てました」

 カメラに向かって話しながら、美咲は当時の自分を思い出していた。汗だくのまま暖簾をくぐって、友達と並んで座って、鉄板の上でじゅうじゅう焼ける音を聞きながら、たわいもない話をした。

 あの頃は、自分が実家を飛び出すなんて、想像もしていなかった。

 さらに歩くと、小さな公園が見えてきた。

「あ、ここ……」

 足が止まる。ブランコと滑り台、砂場だけの小さな公園。街灯が一本だけ立っていて、ベンチが二つ。

「ここ、初めて付き合った彼氏と、日が暮れるまで話した場所なんです」

 カメラに向かって笑いながら言った。

「高二の夏でした。告白されて、嬉しくて、何話したか全然覚えてないんですけど、暗くなるまでずっと話してて。帰ったらお父さんに『どこ行ってた』って怒られて」

 言ってから、少しだけ胸が痛んだ。

 お父さん。

 あの頃はまだ、普通に話していた。反抗期特有のぶっきらぼうさはあったけど、ちゃんと親子だった。

「じゃあ、そろそろお店の方に向かいましょうか」

 ディレクターの声。美咲は頷いて、歩き出した。

 角を曲がると、見慣れた通りに出る。商店街のはずれ、住宅街との境目にある小さな定食屋。

「定食屋まつもと」

 父が三十年以上続けてきた店。

 看板が見えてきた。緑色の地に白い文字。子供の頃から見慣れた、あの看板。

 美咲の心臓が早鐘を打ち始めた。

 もうすぐ会える。八年ぶりに、お父さんに会える。

 手紙を読む。ちゃんと準備した言葉を、伝える。

 美咲は封筒の感触を確かめるように、バッグの外側からそっと触れた。

 あと五十メートル。

 あと三十メートル。

「すみません、ちょっとストップで」

 突然、ディレクターがカメラマンに声をかけた。

 美咲は立ち止まった。田中さんもカメラを下ろす。

「どうかしましたか?」

「あ、いえ、ちょっと……美咲さん、すみません、少しだけロケバスで待っていてもらえますか」

 ディレクターの表情がわずかに強張っていた。何かを隠そうとしている顔。美咲はテレビの仕事を八年もやっているから、そういう空気を読み取るのは得意だった。

「機材トラブルですか?」

「あ、まあ、そんな感じで。すぐ戻りますんで」

 腑に落ちなかったが、美咲は頷いた。

 ロケバスに戻り、座席に座る。窓から定食屋の方向を見つめた。ここからでは看板は見えない。

 何だろう。機材トラブルにしては、ディレクターの様子がおかしかった。


 三分経ち、五分経ち、十分が過ぎた。

 美咲は落ち着かない気持ちでスマートフォンを触っていた。SNSを開いては閉じ、ニュースアプリを開いては閉じ、何も頭に入ってこない。

 ロケバスのドアが開いた。

 ディレクターが乗り込んでくる。その顔を見て、美咲は息を呑んだ。

 明らかに動揺していた。

「美咲さん、落ち着いて聞いてください」

「……何かあったんですか」

「お父様が……」

 ディレクターが言葉を詰まらせた。

 その瞬間、美咲の頭の中が真っ白になった。

「救急車で運ばれたそうです。営業中に倒れられて……心筋梗塞の疑いがあると」

 聞こえているのに、意味が理解できなかった。

 お父さんが?倒れた?

「今、どこの病院に……」

「市民病院です。今から向かいます」

 美咲は立ち上がった。

「走ります」

「え、いや、バスで……」

「走った方が早い」

 バッグを掴んで、ロケバスを飛び降りた。

 走った。定食屋の前を駆け抜けた。暖簾が出ていた。店は営業中だった。中にお客さんがいるのが見えた。でも、父の姿はなかった。母の姿も。

「すみません!」

 店に飛び込んだ。カウンターに座っていた年配の男性が驚いて振り返る。

「あ、あんた、美咲ちゃん?」

 常連さんだった。名前は思い出せない。でも、顔は覚えている。

「お父さんは、どこの病院に……」

「市民病院。救急車で運ばれてったよ。お母さんも一緒に」

「ありがとうございます!」

 また走り出した。

 市民病院までは二キロ以上ある。普段なら無理な距離だった。でも、足は止まらなかった。

 息が上がる。肺が痛い。それでも走った。

 なんで。

 なんで今日なのよ。

 八年ぶりに会いに来た、今日。

 ようやく「ごめんなさい」って言えると思った、今日。

 神様って、こんなに意地悪なの?


 途中で、ロケバスが追いついてきた。ディレクターがドアを開けて「乗ってください」と叫んだ。

 美咲は乗り込んだ。息が荒い。汗が額から流れ落ちる。

 病院までの数分間、誰も何も言わなかった。

 車が病院の駐車場に入る。止まりきる前にドアを開けて、美咲は飛び降りた。

 受付に駆け込む。

「松本譲一の、家族です。どこにいますか」

 受付の女性が端末を操作する。その数秒が永遠に感じられた。

「三階の……」

 聞き終わる前に走り出した。階段を駆け上がる。エレベーターを待つ時間すら惜しかった。

 三階。長い廊下。病室の番号を探す。

 ナースステーションの前に、母が立っていた。

 幸子は、美咲の姿を見て目を見開いた。

「美咲……?」

 八年ぶりの再会だった。母は少し痩せて、白髪が増えていた。でも、美咲を見つめる目は昔のままだった。

「お母さん、お父さんは」

 幸子の目から涙がこぼれた。

 その瞬間、美咲は全てを悟った。

「嘘……」

「救急車の中で処置してくれて……すぐに手術室に運ばれたんだけど……」

 幸子が言葉を詰まらせた。

「間に合わなかった」

 美咲の膝から力が抜けた。

 その場に崩れ落ちそうになるのを、幸子が支えた。

 嘘だ。

 嘘だ。

 今日会えるはずだった。手紙を読むはずだった。

「美咲、お父さんに会ってあげて」

 幸子に支えられながら、美咲は病室に入った。

 白いベッドに、父が横たわっていた。

 目を閉じて、眠っているようだった。

 でも、もう目を開けることはない。

「お父……さん……」

 美咲はベッドの横に膝をついた。

 父の手を取った。まだ温かかった。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」

 涙が止まらなかった。

 謝りたいことがあった。伝えたいことがあった。全部、今日伝えるはずだった。

 バッグの中の封筒。便箋三枚。昨夜、何度も書き直した手紙。

 もう、届かない。

 美咲は父の手を握りしめたまま、声を上げて泣いた。


 葬儀は三日後に行われた。

 小さな葬儀場に、驚くほど多くの人が集まった。定食屋の常連さんたち、近所の商店主たち、父の友人たち。

 美咲は喪服を着て、受付の横に立っていた。

 次から次へと訪れる弔問客に、頭を下げ続けた。

「美咲ちゃん、大きくなったねえ」

「譲一さんにはお世話になって」

「あの唐揚げ定食、もう食べられないんだな」

 皆が父の話をしてくれた。皆が父を惜しんでくれた。

 父がどれだけ愛されていたか、美咲は改めて知った。

 そして、それを知らないまま八年も離れていた自分を、殴りたくなった。

 焼香の時間になった。

 読経が流れる中、弔問客が一人ずつ焼香台に向かう。

 美咲は祭壇の前に座っていた。遺影の中の父が、少しだけ笑っている。写真は五年前のものだと、母が言っていた。

 父は、五年前から少し白髪が増えたのだろうか。皺が深くなったのだろうか。

 美咲は知らない。

 知らないまま、父は逝ってしまった。

 ふと、バッグの中の封筒に手が伸びた。

 白い封筒。読めなかった手紙。

 美咲はそっと封筒を取り出した。

 便箋を広げる。自分の字が滲んで見えた。

 あの日、何を伝えたかったのか。


-------------------------

   お父さんへ

 八年ぶりに手紙を書きます。

 こんなことをテレビの企画でやるなんて、お父さんは怒るかもしれません。「何を大げさな」って、鼻で笑うかもしれません。

 でも、どうしても伝えたいことがあって、勇気を出してここに来ました。

 私がお父さんの料理で一番好きだったのは、チキン南蛮です。

 覚えていますか?私が小学三年生の時、初めてお店のメニューに加わったんですよね。お父さんが「新メニューの試作だ」って言って、私に一番に食べさせてくれました。

 甘酸っぱいタレと、タルタルソースと、カリッと揚がった鶏肉。

 一口食べて、「おいしい!」って叫んだら、お父さん、すごく嬉しそうな顔をしていました。普段は怖い顔ばっかりしてるのに、あの時だけは、なんだか照れくさそうに笑ってました。

 それから、私は毎週のようにチキン南蛮をおねだりしました。「また食べたい」「今日も作って」って。お父さんは「しょうがないな」って言いながら、いつも作ってくれました。

 高校生の時、部活で疲れて帰ってきたら、何も言わなくてもチキン南蛮が出てきたこともありました。お父さんは「残り物だ」って言ってたけど、絶対嘘でした。私のために、わざわざ作ってくれたんですよね。

 もう一つ、忘れられない思い出があります。

 小学五年生の時、初めて自分で料理を作りました。卵焼きです。

 お母さんに教わりながら、フライパンを持つ手がガタガタ震えて、何度も失敗しました。焦がしたり、形が崩れたり、ぐちゃぐちゃになったり。

 でもようやく、なんとか形になったものが一つできました。

 お父さんに食べてもらいたくて、お店に持っていきました。

 お客さんがいない時間を見計らって、カウンターに置いて、「これ、私が作った」って言いました。

 お父さんは何も言わずに、箸で卵焼きを取って、口に入れました。

 私、ドキドキしながら見てました。

 そしたらお父さん、「うまい」って言ってくれたんです。

 それだけでした。「うまい」って一言だけ。

 でも、その一言が、今でも私の宝物です。

 お父さん。

 私は大学二年生の時、映画を撮りました。文化祭で上映するためだけに作った、短い映画です。

 上映が終わった時、観客が拍手してくれました。友達が「すごい」って言ってくれました。

 その瞬間、私の中で何かが変わりました。

 この道で生きていきたい。映像の世界で、自分の作品を作りたい。

 お父さんに言った時、最初は笑ってましたよね。「趣味だろ」って。

 でも私が本気だとわかったら、すごく怒りました。

 「上手くいくかもわからない。苦労して生きていくより、この店なら常連さんも多い。売上も安定している。お前が映画が好きなのは俺も知ってる。でも、好きと仕事は違うんだ。どうしても映画が撮りたいなら、趣味でやればいい」

 お父さんの言葉は、全部正しかったと思います。

 実際、私は映画監督にはなれませんでした。テレビの制作会社に入って、裏方の仕事をしています。お父さんが思い描いていた「映画の世界」とは、きっと違うと思います。

 でも、後悔はしていません。

 毎日が大変で、辛くて、泣きたくなることもあるけど、この仕事が好きです。

 私は、好きなことを仕事にできました。

 それは、お父さんが「好きなことを仕事にする姿」を見せてくれたからです。

 お父さんは料理が好きで、定食屋を続けて、お客さんに喜んでもらうのが好きだった。

 その背中を見て育ったから、私も「好きなことを仕事にしたい」と思えたんです。

 お父さん。

 私、ずっと言えなかったことがあります。

 小さい頃から、ずっとずっと。

 反抗期の時も、大学生の時も、喧嘩した時も、家を出た後も。

 ずっと。

 お父さんのことが、大好きでした。

 でも、言えませんでした。恥ずかしくて。照れくさくて。素直になれなくて。

 家を出る時も、本当は抱きしめてほしかった。「頑張れ」って言ってほしかった。でも、自分から言い出せなくて、黙って出ていくことしかできませんでした。

 八年間、連絡しなかったのは、怖かったからです。

 お父さんに嫌われてるんじゃないか。許してもらえないんじゃないか。

 そう思うと、電話もできなかった。

 でも、今日、勇気を出してここに来ました。

 お父さん。

 今まで一度も言えなかった言葉を、今日初めて言わせてください。

 お父さん、大好きです。

 ずっとずっと、大好きでした。

 ありがとう。

                  美咲

-------------------------


 美咲は便箋を膝の上に置いた。

 涙で文字が滲んでいた。

 この手紙を、父に読み上げるはずだった。

 カメラの前で、照れながら、泣きながら、一言一言伝えるはずだった。

 父は、どんな顔をしただろう。

 「何を大げさな」って言っただろうか。

 でも、きっと、嬉しかったんじゃないかと思う。

 あの時の卵焼きみたいに、ぶっきらぼうに「ああ」とか言いながら、心の中では喜んでくれたんじゃないかと思う。

 もう、確かめようがない。


 読経が終わり、出棺の時間になった。

 幸子が美咲の隣に来た。

「美咲」

「……うん」

「お棺に、何か入れてあげる?」

 美咲は手紙を見つめた。

 便箋三枚。読めなかった手紙。届かなかった言葉。

「……これを」

 美咲は立ち上がり、棺の前に進んだ。

 父の顔は、穏やかだった。眠っているように見えた。

 美咲は便箋を三つ折りにして、父の手のそばにそっと置いた。

「お父さん」

 声が震えた。

「届けられなくて、ごめんね」

 涙が棺の縁に落ちた。

「でも、読んでね。そっちで、読んでね」

 美咲は父の頬にそっと触れた。

 冷たかった。

 もう、温かくはなかった。

 でも、触れていたかった。

「大好きだよ、お父さん」

 声に出して言ったのは、生まれて初めてだった。

 聞こえていないとわかっていても、言いたかった。


 火葬が終わり、葬儀場に戻ったのは夕方だった。

 弔問客は帰り、広い部屋には美咲と幸子だけが残っていた。

 二人とも疲れ切っていて、しばらく無言で座っていた。

 やがて幸子が、ぽつりと言った。

「お父さんね」

 美咲は顔を上げた。

「あんたの番組、毎週観てたよ」

 心臓が跳ねた。

「……え?」

「土曜の夜の番組でしょ。エンドロールにあんたの名前が出るやつ」

 美咲は息を呑んだ。

 自分がADとして関わっている番組。名前がクレジットされるようになったのは三年前からだ。

「……お父さんが?」

「毎週欠かさず。録画までしてね」

 幸子は少しだけ笑った。

「最初はね、私も知らなかったの。ある日、居間に行ったら、お父さんがテレビの前でじっと画面を見てて。何してるのかと思ったら、エンドロールだったの」

 美咲は言葉が出なかった。

「『美咲の名前が出る』って言うから、私も一緒に見たの。そしたら本当に、あんたの名前が出て」

 幸子の目に涙が浮かんだ。

「お父さん、泣いてた」

「……」

「普段は絶対泣かない人なのに。テレビの前で、声も出さずに泣いてた」

 美咲の視界が滲んだ。

「なんで……」

「連絡しなかったのかって?」

 幸子は首を振った。

「できなかったんだと思う。意地っ張りだから。自分から連絡したら、負けだと思ってたんじゃないかな」

 負け。

 そんなの、美咲も同じだった。

 自分から連絡したら負け。謝ったら負け。

 そんなくだらない意地を張り続けて、八年が経った。

「お父さん、あんたのこと、ずっと自慢してたよ」

「……え?」

「常連さんにね。『うちの娘、テレビの仕事してるんだ』って。嬉しそうに話してた」

 美咲は両手で顔を覆った。

 知らなかった。

 父が自分のことを見ていたなんて。自慢していたなんて。

 八年間、嫌われていると思っていた。許してもらえないと思っていた。

 でも、父は見ていた。

 毎週、娘の名前を探して、テレビを観ていた。

「ごめんなさい……」

 美咲は嗚咽した。

「ごめんなさい、お母さん。私、ずっと連絡もしなくて……」

 幸子は美咲の肩を抱いた。

「あんたは悪くないよ」

「でも、もっと早く……」

「誰が悪いとか、もうどうでもいいの」

 幸子は美咲の髪を撫でた。

「お父さんはね、あんたのこと、ずっと愛してた。それだけは、覚えておいて」

 美咲は母の胸に顔を埋めて、子供のように泣いた。

 伝えたかった。

 「大好き」って、伝えたかった。

 でも、父も同じだったのだ。

 言えなかっただけで、ずっと愛してくれていた。

 不器用な父と、不器用な娘。

 お互い、同じだった。

 なのに、八年も気づかなかった。

 そして、もう取り返しがつかない。


 葬儀の翌週、美咲は仕事に戻った。

 村田さんは何も言わなかった。ただ「無理するなよ」とだけ言って、いつも通りに接してくれた。

 ロケに行き、編集室に籠り、会議に出席する。日常が戻ってきた。

 でも、夜になるとふと手が止まる。

 父の顔を思い出す。父の声を思い出す。「うまい」と言った時の、あのぶっきらぼうな声を。

 もう聞けない。

 永遠に、聞けない。

 ある日の夜、美咲はスマートフォンで父の店の写真を検索した。

 食べログのレビューが出てきた。

「ここのチキン南蛮は絶品。店主のこだわりを感じる」

「優しい味のする定食屋。また来たい」

「無口だけど温かいご主人。常連さんに愛されてるのがわかる」

 美咲は画面を見つめた。

 父は、愛されていた。

 たくさんの人に、愛されていた。

 そして、私も愛されていた。

 知らなかっただけで、ずっと。

 美咲は目を閉じた。

 瞼の裏に、父の後ろ姿が浮かんだ。

 厨房に立ち、フライパンを振る父。

 大きな背中。

 あの背中に「大好き」と言いたかった。

 生きているうちに、一度だけでも。

 言葉にしていれば、何か変わっただろうか。

 わからない。

 でも、言えなかった後悔だけは、一生消えない。

 美咲は空を見上げた。

 星が瞬いていた。

 あの星の向こうに、父はいるのだろうか。

 手紙は、届いただろうか。

「お父さん」

 美咲は呟いた。

「大好きだよ」

 声は夜空に消えていった。

 届いたかどうかは、わからない。

 でも、これからは毎日言おうと思った。

 空に向かって、父に向かって。

 言えなかった八年間を取り戻すように。

 届かなくても、伝え続けようと。

 読み終えた今、胸の奥に残っているものは何でしょうか。

 後悔かもしれないし、温かさかもしれないし、言葉にならない何かかもしれません。


 人は誰しも、誰かに伝えそびれた思いを抱えて生きています。

 それは決して弱さではなく、むしろ「大切にしていた証」なのだと思います。

 本作の美咲がそうであったように、私たちもまた、不器用なまま誰かを想い続けています。


 もし、あなたの心の中にも“あの人に言えなかった言葉”があるのなら、

 それはまだ終わっていない物語なのかもしれません。

 たとえ届かなくても、たとえ遅すぎても、

 思い続けることそのものが、ひとつの祈りになるのだと思います。


 この物語が、あなたの中の静かな場所に、そっと灯りをともしてくれていたら嬉しいです。

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