第20話 課長、魔王城へ向かう
雪が溶け、地面がぬかるみ始めた。
枝先に新芽が膨らみ、日中の空気にもようやく春の匂いが混ざり始めてきた。
──異世界で迎える、初めての春である。
村もまた、変化の季節を迎えていた。
かつて十五人だったゴブリンたちは、今や八世帯、総勢四十名を超えるまでに増えている。
課長の言うところの「明るい家族計画」は、一定の成果を挙げているようで、本能に任せた繁殖を何とか制御しているらしい。放っておいたら二倍以上になっていたとか。
それでも赤ん坊は次々と生まれており、ゴブ姐さんをはじめとする母親たちは「兄さん、また産まれました」と誇らしげに俺のところへ報告に来る。 抱っこをねだられ、渋々受け取った赤ん坊が小さな手で俺の服を掴んでくる。もういい加減見慣れた光景である。
冬の間は資材不足もあって建設は停滞していたが、これから再び人口の増加増加を考慮し住居の増築が始まる予定だ。 名古屋城風の本拠地を中心に、これまでに建てられた家屋の修繕と増築が同時進行で進められていく。指揮を執るのは勿論ボス君。指示を受けて動くのはゴブリーマンたち──その数、三十四名の職人たち。作業は驚くほど手際がよく、道具の手入れも徹底されている。課長曰く「もう全部任せて問題ない」とのことだ。
役割の多様化に伴って、最近では“進化”とは異なる”転職”と呼んでいる変化も見られるようになってきた。たとえば、ゴブ姐さん。もともと釣りに長け調理の腕も一級品だった彼女は、課長に魚の焼き加減を褒められたことをきっかけに、『ゴブリンシェフ』という新たな職能を獲得した。本人の名乗りだけでなく、実際にステータスにも表記が追加されているらしい。外見や能力に目立った変化はないものの料理の腕はより鋭く、繊細になったようにも感じる。
他にも、元の食糧調達班にいた美女ゴブリンたちはそれぞれの得意分野を伸ばしながら、新たな班を率いる準備を進めているようだ。課長曰く「役割が生まれることで思考と行動が発展し、やがては社会性の獲得に繋がる」とのこと。
──正直よくわからないが、村に秩序と文化が芽生えているのは間違いない。
一方で、課長はガンザムさんリリルさんコンビと防衛設備の整備にも力を入れている。春は何かとトラブルが増える季節らしく、これを見越して、ボス君やガンザムさん、リリルさんと何度も打ち合わせを重ねていた。 防壁の補強、監視台の増設、落とし穴や警戒用の魔法陣など、地味ながら確実に機能する仕組みが村の周囲に張り巡らされている。 クッコロさん、レオン、カレン、そしてバルドさんは自警団として定期的に村を巡回しており、近隣の動向にも目を光らせている。クッコロさんはあいかわらず若干残念な性癖を隠せていないものの、実務能力は極めて高くゴブリンたちからも厚い信頼を得ていた。
俺と課長にとっての初めての春を迎え、益々生活環境が改善されていくことが予想される。
そんな村の成長にあわせて、俺自身もますます忙しくなってきた。
朝は剣術訓練から始まる。これはもう完全に習慣になっていて、もはややらないと気持ち悪いレベルだ。気温が少しずつ上がってきたとはいえ、まだ寒さが残る早朝。そんな中でも、ゴブリンたちは元気いっぱいに「師範、お願いします!」と俺に頭を下げてくる。
最初は戸惑いながら始めたこの訓練も、今では習熟度や特性別にいくつかの班に分かれて進めるようになっていて、それぞれの進捗にあわせてメニューを調整している。素早さ重視の軽量班、力任せの突進型班、反応を鍛える技術班──俺の方が頭を使うことの方が多い。
特に優秀な二人は、村の中で『ゴブリン師範代』と呼ばれるようになった。いや、単なる呼び名ではなく、実際にステータス上でも「師範代」として表記されるようになっているらしい。今では俺の補佐として基本訓練を任せられるレベルにまで成長していて、教える側としてもだいぶ助かっている。
訓練が終わると、釣り班や食糧調達班と合流して、午前中は魚の選別や保存、調理用の下ごしらえなどを手伝う。午後は燻製の管理や備品の点検など、作業内容は多岐にわたる。しかも最近は燻製の出来が良いからか、外部の流通を見据えた保存法なんかも話題になっていて、うかうかしていられない。
ゴブリンたちは皆真面目で、何かを覚えることに対して貪欲だ。こちらが少しでも手を抜くとすぐに見抜かれるし、適当な指示では満足してくれない。俺自身、手を抜けない空気の中で日々を送っている。
それでも嫌ではない。たしかに忙しいし、時にはくたびれることもあるけれど、それだけ俺の手を必要としてくれる仲間がいるというのはありがたいことだと思う。
この世界に来たばかりの頃は、自分がこんな立ち位置になるなんて思ってもみなかった。でも今は、この村の中で自分なりの役割がある…。
そして──俺たちは、いよいよ村を出る準備を整えつつあった。
行き先は、魔王城。 ……正確には、魔王軍の本営にあたる拠点で、そこにいる魔王と接触することが今回の目的だ。
そろそろこの村の存在を、無視できないと感じ始めている勢力が出てくる頃だ──そう助言してくれたのは、バルドさんやクッコロさん、ガンザムさんたちだった。力を見せつけるつもりはないが、黙っていても疑われるなら、こちらから筋を通しに行ったほうが後々面倒が少ないだろうとのこと。
もちろん、その交渉がうまくいけば、魔王軍の庇護を受けられるかもしれないし、日本への帰還方法についての情報が得られるかもしれない。
というわけで、俺たちは、村の名物である川魚の燻製を土産に、魔王城への挨拶回りに向かうことになった。課長と俺に加え、クッコロさんとバルドさん、それと村の代表としてボスくんとゴブ姐さんが選ばれた。
*
「嫌だぁぁ! 俺は行きたくない!! 村で留守番している!!」
「そうは言っても村の最高戦力のお前が行かない訳にはいかないだろ…あんま課長さんを困らせるもんじゃないぞ」
「そうよ田中、課長やクッコロ様をサポートできるのは貴方しかいないわ」
レオンとカレンが困ったように俺を説得するが俺の知った事ではない。魔王城とか怖い所に決まっている。
バルドさんがいるから行くだけならまだいいが、うちの課長がいる以上絶対に何事もなく終わる訳がない。
俺の日常はいつ取り戻せるのだろうか……。