第14話 魔王軍南方辺境監察官、危機感を抱く
朝、まだ陽も昇りきらぬ時間帯。空気は澄んでおり、森の中にある村は静寂に包まれていた。
──と思ったのは一瞬。
ドン、ドン、と太鼓の音が遠くから響いたかと思うと、ゴブリンたちがぞろぞろと広場に集まってくる気配があった。
魔王軍・南方辺境監察官のクーロンは、その様子を高台の建物からぼんやりと眺めていた。
広場では、ゴブリンたちが木刀を振るっている。整列や掛け声はないが──よく見ると、各々が微妙に違う動きをしている。最初は適当に振っているだけに見えたが、しばらく観察を続けていると、それぞれが“自分の型”のようなものを繰り返しているのが分かった。
しかも、その動きが決して素人の我流ではない。重心移動、呼吸、間合い──見様見真似にしては、あまりにも完成度が高すぎる。
「……これは……」
その中で、二体のゴブリンが模擬戦をしていた。
一方は新しく進化したばかりの若い個体。もう一方は、村の中堅らしき体格の良いゴブリン。
木刀が交錯するたびに乾いた音が響き、最後には中堅のゴブリンが寸止めで首元に刃を止めていた。
新入りは汗を拭きながら礼をし、中堅は頷いて木刀を下ろす。
──これが、訓練の“日常”だというのか。
クーロンは息を呑んだ。
進化した知能だけではない。これではまるで、
「──魔王軍の精鋭部隊より強いのでは……」
思わずそんな呟きが漏れる。
だが、その中心にいる存在を見た瞬間──さらなる衝撃が襲ってきた。
田中。
あの人間が、一人の女性──”王国の悪魔”クッコロと手合わせしている。
互いに木刀を持ち、間合いを測る二人。
次の瞬間、視界に収まったのは、ほんの一瞬の閃き。
田中の動きが見えなかった。気付けばクッコロの木刀は吹き飛ばされており、田中の剣は寸前で止まっていた。
「……なっ」
”瞬殺”
目を疑うような光景に、クーロンは身を乗り出した。
魔王軍四天王の中でも純粋な武力が一番高いと言われる自分の上司であるバルド様。そのバルドがライバルと認めている王国最強の女騎士クッコロ…。だが、あの田中は──
「今のは……偶然か? それとも……」
田中は木刀を下ろし、クッコロに何か言葉をかけていた。
それを神妙な顔でうなずきながら聞くクッコロ。昨日は冗談かと思って聞いていたがクッコロのその対応は明らかに師にたいするものだった。
クーロンの中に、妙な緊張感が生まれ始めていた。
*
朝の訓練が終わると、村のあちこちが一気に活気づく。
「今日は魚にしようかしら」
とてもゴブリンに見えない美しい女性が笑顔で言うと、数名の美女たちが籠と網を持って連れ立っていく。
どうやら川へ釣りに向かうらしい。その他の者は山菜や果物の採取、罠の確認などに散っていった。
クーロンはその様子を見て、ふっと肩の力を抜いた。
「……普通だな」
通常のゴブリンは虫や木の実を食べていたはずなので異常と言えば異常だが、魔族の中には自分で獲物を取って食べる種も存在する。
自身の常識の範疇内の営みを見て少しだけ安心した。
その横で、田中が腰を上げる。
「クーロンさん、今日は焼き魚になるそうですよ」
「……あ、ああ。そうか」
王国最強を圧倒していた男に気軽に話しかけられ若干緊張を含んだ返事をしながらも、クーロンは心の中で小さく安堵していた。
──やっぱりこの村、ちょっと変わってはいるけど、危険じゃないかもしれない。
そんな風に思い始めていた。
*
「こちらです」
昼過ぎ、案内役のボスくん、と呼ばれるゴブリンに連れられてクーロンは村の施設を見学していた。
まず案内されたのは住居群。
一見すると粗末な小屋に見えるが、中に入った瞬間、クーロンは言葉を失った。
床は土ではなく平らにならされた木の板張り。隙間風を防ぐための泥壁。そして、内部の排水を自然に外に逃がす床の傾斜──。
「……これは……どうやって?」
「課長に教わりました」
ボスくんはにこやかに答える。
「材料の切り出し方、組み方、隙間の埋め方、すべて図面で示していただきました。最初は難しかったですが、慣れてくると面白いんですよ」
クーロンは次第に青ざめていった。
用水路の設計。小型倉庫の湿度対策。工具の保管ルールと名札の管理……。
そのどれもが、魔王軍の野営地や補給基地を上回る効率と清潔さで整えられていた。
「……正気か?」
思わず口に出していた。
ボスくんはくすっと笑って、首をかしげる。
「どうかされましたか?」
クーロンは震える手でメモを取りながら、内心ではすでに警告を鳴らしていた。
──これはただの村ではない。進化のスピードが尋常ではない。
*
その後、クーロンは「教育の現場」へと案内された。
広場の一角には黒板と簡素な机と椅子が並べられ、授業のようなものが行われていた。
教師役は皆から”課長”と呼ばれている人間。そしてその補助に田中の姿もあった。
教育対象は、村に住む全ゴブリンらしい。
課長が黒板に『24÷6=?』と書き込むと、数人のゴブリンが勢いよく手を挙げた。
「はい、そこの君」
指名された子ゴブリンが自信満々に答える。
「4です!」
「正解。よくできました」
どよめきもなく、当たり前のように進行する授業。クーロンは目を疑った。
──わり算ができる? 読み書きだけではなく、算術まで?
続けて課長が言う。
「では、“36÷9”は?」
「4です!」
またも即答。しかも違うゴブリンが答えていた。明らかに全員が理解している。
その後も授業は進み、課長が提示する文章問題に対しても、ゴブリンたちは的確に回答を返していた。四則演算、文章読解、さらには倫理的な問いにまで──。
「“助け合い”とは何か、考えてみましょう」
しばらく考え込んだ後、一人のゴブリンが手を挙げる。
「困ってる仲間を、見捨てないこと……だと思います」
クーロンは背筋に寒気が走った。
──これは教育じゃない。文明だ。
ただ“教わっている”のではない。彼らは明確に“理解”している。
しかも、まだ生まれてから一週間程度のはずの子ゴブリンが、成人の姿を取りながら大人びた受け答えをしている。
クーロンの手帳はもはや走り書きでは追いつかず、彼の思考の中で警鐘が鳴り続けていた。
──ここには、何かがある。
彼は、無意識のうちに背筋を正していた。