渇愛
この世はいつだって、色褪せている。
だから私は――。
「まあ、そうなの? うれしいわ。大好きなふたりが結ばれるなんて…ああ、夢みたい。きっと、国一番のしあわせな夫婦になるわ」
両手を組みながら薔薇色に頬を染め、エメリナは自分の婚約者と妹にうっとりと微笑んだ。
―――ああ、やっぱり。
フィデリアは姉の反応に、悔しさから掌を握り締める。
彼女の記憶するかぎり、エメリナは声を荒げたり、怒りで血相を変えたこともない。
お気に入りの人形を取られようが、
(最初はただ羨ましかった)
お気に入りのドレスを切り裂かれようが、
(だって腹が立ったから)
両親の愛情を奪おうが、
(感情をぶつけて欲しかったのに)
エメリナはいつだって笑みを崩さない。
それに気付いたとき、幼かったフィデリアはエメリナに恐怖を抱いた。
どうしたら、どうすれば姉は感情を昂らせるのかと頭を捻り、様々な嫌がらせをしてきたが、どんなときだって「あら、まあ」と目を丸くするだけで、笑って許してしまう。
許されてしまう。そのことに虚しさを覚えてから、フィデリアは今までの嫌がらせをぱったりやめた。
そのような変化に戸惑うこともなく、エメリナは変わらない笑みを浮かべていた。
今回だって自分の婚約者を寝取られたというのに、エメリナはそれこそが至高の選択だと言わんばかりに喜んだ。
「挙式はいつ? ドレスはどんな型にするのかしら。昨年の王太子妃殿下のドレスは美しかったわね。きっとフィデリアにもお似合いよ。ああ、はやくふたりの御子が見たいわ。ふたりに似て愛らしい子が生まれてくるに違いないもの」
艶やかな吐息交じりにそう語るエメリナの眸に嫉妬の色はなく、傍目から見てもすべて本心から言っていると伝わってくる。
フィデリアとロレンソが初めて顔を合わせたのは、エメリナに婚約者だと紹介された日だった。
公爵家の世継ぎなのにそれを鼻にかけることなく、まだ社交界デビューしていない少女であるフィデリアにもロレンソは紳士的な態度で接してくれた。
素敵なひと。この人なら姉を変えてくれるかもしれない。この人なら姉の表情を豊かにしてくれるかもしれない。
そう思っていたのに、ロレンソがエメリナのもとへ訪れる日、エメリナは決まってフィデリアも同席させ、笑顔でふたりの会話を聞いているだけだった。
話を振れば相槌を打つものの、「そうなのですか?」「それは素晴らしいですね」「まあ大変」とくすくす喉を鳴らすだけ。
そんなエメリナの薄い反応とは逆にフィデリアは彼の巧みな話術の虜になり、驚き、笑い、頭を捻り、質問を繰り出したりと、いつの間にかこの時間が何よりも至福となっていた。
だから、駄目だとわかっているのに心奪われるのにそう時間は掛からなかった。
エメリナの、姉の、婚約者なのに。
*
つまらない女だ。
エメリナと初めて対面したとき、ロレンソの第一印象はそれだった。
話を振っても相槌を打つだけ。驚きに目を丸くすることはあっても笑みは絶えることなく、口を動かしながらじっと観察してみても、どんなことに興味があるのかさえわからない。
ただ他の女と違って容姿に魅了されず、浪費癖もない自然体な彼女に妥協しようと決めたのはロレンソだった。
ふたりの婚約が決まり、周囲に知れ渡ると彼の悪友は意外そうに片眉を上げた。
「あのおっとりエメリナを娶ろうなんて、君はいつから好みが変わったんだい?」
「おっとりエメリナ? なんだそれは」
「おや、知らないのかい? それは意外だ。ふふっ、エメリナ嬢は意外と人気が高いんだよ。あの癒しの笑み、小鳥の囀りのような声、奥ゆかしく控えめな姿勢! 嫁にしたいと乞う男は数知れず。男たちは今頃、悔し涙で咽び泣いているだろうね」
ああ、哀れ。ミチェルの芝居掛かった仕草に眉根を顰め、ロレンソは口を曲げた。
彼自身思ったように、妻とするなら最適な性格だと思う。
少し太めの体型はちゃんとメリハリがあり、森林を彷彿とさせる自然色の瞳は暖かく、笑うと垂れ目になるが、そういう女性は探せば他にもいるだろう。
手に入れたいと乞うほどの人物ではない。
もし彼の胸中を男たちが聞いてしまったら、憎しみの込もった視線で殺されたかもしれないが、ロレンソが釈然としないのもまた本音だった。
それに気付いたのだろうか、ミチェルは唇を弓なりに吊り上げてロレンソの目を覗き込んだ。
「疑ってるのかい? 僕の言葉を?」
「いや……お前が言うなら、そうなんだろう」
些か納得し難いものの、ことこういう情報に関してミチェルのことは信頼している。
なにせ彼はこの国の第二王子なのだから、沢山の情報を耳にしているだろう。
現に今まで間違った情報はなく、ロレンソも幾度か助けられている。
ロレンソの返答に満足したのかミチェルは大きく頷いて、愉悦の色をした目を細めた。
「だから僕は宣言するよ―――君はエメリナと、結婚しない」
*
ミチェルの宣言通り、ロレンソはエメリナと籍を入れなかった。
教会で隣に寄り添う相手はエメリナの実妹フィデリア。
華々しく社交界にデビューした彼女は、多くの男性の目を止めた。
その様子に焦ったロレンソが秘めていた胸の内を明かし、晴れてふたりは結ばれたのだ。
元婚約者であり姉のエメリナは悲嘆するどころか笑顔で祝福していた。
その姿は誰よりも今回の結婚を喜んでいるのがわかり、下世話な憶測を立てていた人々が口を噤んだほど。
ロレンソがフィデリアに心を寄せていく過程を、相談を受けていたミチェルは勿論知っていた。
話を聞くかぎりフィデリアも好意を寄せているのがわかり、他の男に取られたらと焦燥しているロレンソの背を押したのも彼だ。
当初無自覚だったロレンソの恋心に気付いたときは驚いたものだが、聞けば彼の好みに沿った女性だとわかる。
どうせ歳の近さから選ばれた婚約者。ならば多少歳が離れていても同じ家柄の娘ならば問題ないだろう。
そう伝えたあとの行動の素早さにミチェルは目を瞠ったが、恋はひとを狂わすと言う。
「ほうら、僕の言うとおりになった」
「あぁ、お前の勘は当たってる」
「結婚おめでとう、ロレンソ。君の幸せを願ってるよ」
愉しげに笑うミチェルに苦笑し、ロレンソはシャンパングラスを掲げた。
*
例え親兄弟だろうと、他者や物に愛着を抱かない人間もいる。
エメリナは、生まれたときからそちら側の人間だった。
与えられれば受け取るが、それが手を離れても気に留めない。
だがらこそ、自分と同じような理解のできない人間は、恐怖でしかなかった。
「君も馬鹿だよねえ」
ミチェルはくすくすと笑いながら、恐怖に瞳を濡らすエメリナを見下ろした。
常に笑みを絶やさないエメリナの、初めて歪んだ表情。
否、正確には初めてではない。ミチェルはエメリナの様々な表情を何度も見ている。
泣き喚く姿も、声を荒げる姿も、笑顔が喪失している姿も、痛みに顔を歪める姿も、恍惚に頬を染める姿も。
エメリナはミチェルの前でしか表情を変えない。そこに笑顔があったのは初めの頃ぐらいなものだろう。
ミチェルは恍惚とした表情でエメリナの頬を撫で上げた。
短い悲鳴が彼女の喉を鳴らしたが、その声はくぐもっており、小さな口が布で縛られている。
よく見れば両手も同様に縛り上げられ、エメリナは寝台の上で組み敷かれていた。
「ロレンソに他の女をあてがえとは言ったけど、君を解放するとは言ってないよ?」
エメリナの絶望に暮れる瞳にぞくりと背筋が粟立つ。
なにか呻いているがそれは言葉にならず、ミチェルは目尻に流れる粒を舐めとった。
「かわいいかわいい僕のエメリナ。これからはずうっと一緒にいようね」
はじまりが何であったのか、エメリナはよく覚えていない。
ただ、いつのまにかこのような関係になっていた。
家族も知らない秘密の逢瀬。
そこに甘美な響きなどなく、ただただ苦痛に満ちた時間がそこにあった。
何が彼をそうさせるのか。エメリナには理解ができなかった。
いたずらに嬲って、縛って、快楽を教え込む。
逃げようとすれば笑いながら追いかけてくる。婚約者を作れば怒りながら追い詰めてくる。
ミチェルから逃げる術を、彼女は知らない。
*
ミチェルが彼女と運命的な出逢いをしたのは、避暑地の別荘で散歩をしていたときだった。
広大な庭には有名な薔薇の迷路があり、いつでも開放されているため、よく貴族たちが訪れていた。
エメリナの家族もその中の一人だった。
小鳥の囀るような声を辿って歩いてみれば、休憩所として開けた場所に彼女はいた。
何かに苛立った様子で地団駄を踏む少女と、薔薇の花弁を髪に絡ませ、乙女の頬に薄らと傷がついているのに微笑みを浮かべる少女。
「もう! どうしてそうなのよ!」
「あら、フィデリアは今日もおこりん坊ね」
「そうじゃないでしょう! 怒りなさないよ! 傷跡が残ったらどうしようって焦りなさいよ!」
「まあ、心配してくれるの? ありがとうフィデリア、あなたってとてもやさしい子ね」
「もう! もう! お姉様なんて嫌いよ!」
涙を浮かべ、立ち去っていく少女。その後ろ姿を見ても微笑んでいる彼女を見て、ミチェルはぞくりと粟立つ背に笑った。
彼女は誰だろうか。名前を知りたい。
どんな風に過ごし、何を食べ、何を嗜んでいるのか。
――欲しいな、と思った。
それ以上に、微笑み以外の表情を見てみたかった。
だから、彼女のことを徹底的に調べ上げ、偶然を装って対面を果たし、秘密の逢瀬を重ねた。
ミチェルが公務で国外を訪れていたとき、勝手に婚約を結んだと知って身を焦がす嫉妬に狂いそうだった。
その程度で彼から逃げられると思ったら大間違いだ。
けれど、その行動も愛おしいものでしかない。
ミチェルを意識し、避け、恐怖し、足掻こうとする姿を見るたび愛しさが募っていく。
*
王宮主催の舞踏会。着飾ったエメリナにダンスを申し込むと、彼女は引き攣った笑みで震える指先を伸ばした。
茫然とするロレンソ夫妻を尻目に、彼女の腰を掴む。
あぁ、愉しいなあ! 我が世の春を、友は祝福してくれるだろうか。
あの日と違い、傷ひとつない頬を撫でる。怯え震えるエメリナに、僕はうっそりと笑んだ。
「愛してるよ、エメリナ。僕のお嫁さんになってくれるよね?」
断る筈がない。彼女は選択を間違えない。
だって君は――善人であろうとするから。