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結局私は、ほとんど何も買わずに帰ってきた。
というのも、必要なものは既に屋敷に揃っているし、今まで浪費してきたお金のことを考えると、両親に対して申し訳ない気持ちになったからだ。
唯一買った刺繍入りのハンカチは、屋敷に戻ってからグレースに贈った。
グレースの就任祝いと、今までのお詫びとして。
案の定グレースは酷く混乱してしまい、可哀想なほど狼狽えていた。
今まで虐げられてきた相手に、突然プレゼントなんてもらったらそりゃあ混乱する。
何か裏があるのではないかと勘繰るに決まっている。
別に、今はそれで良かった。
そしてこの日から、私の信頼を取り戻す日々が始まったのである。
まず、どの召使いに対しても丁寧に接するようにした。メイドも、庭師も、料理人も関係ない。
ありがとうとごめんなさい、お疲れ様、おはよう、こんにちは、何気ない会話を少しずつ増やして、何か困ったことがあれば聞くようにした。
両親にも、ワガママは言わなくなった。
前世の記憶があるので、そもそもワガママを言う発想が無くなってしまったのもある。
中身は成人女性だし。
両親から貰うお小遣いは、断ると面倒なので貰ってはおくが、必要最低限以外は使わずに取っておいた。
そうしてアナベルが前世の記憶を思い出して5年。
私は17歳になった。
両親は相変わらず与えたがりの親バカだが、使用人たちは私に怯えることは無くなった。
仕事の合間に一緒にケーキを焼いてくれたり、庭に植える花の種を選びに行ったり、お裁縫を教えてもらったり、私の生活は充実していた。
なんなら、リリアのこととかちょっぴり忘れかけていた。それくらい普通に生きていた。
しかし、やはりここは乙女ゲームの世界。
進展はあるものである。
「リファラ国が滅んだそうですよ」
庭で母と紅茶を飲んでいる時、庭師のロファがふいにそう言ったのだ。
ロファは若い青年だが、ブラウン家の庭師としては長い。幼い頃に庭師へ弟子入りし、そのほとんどをブラウン家で過ごしているのだ。
そしてこのロファ、乙女ゲームの攻略対象の一人だったりする。
年は17歳でアナベルと同い年、両親はおらず、ブラウン家にもともといた庭師が育ての親だ。
背が高く黒髪で、どこかあどけなさが残る男の子だ。
本来ならアナベルに庭を荒らされるなどの嫌がらせを受け、心を病んでしまい、それを同じ境遇のリリアと乗り越える…というのが彼のルートなのだが、今のアナベルとロファの関係は良好である。
アナベルが手作りしたお菓子を、母と一緒に庭で食べながらお喋りするくらいには、良好である。
「リファラって、確か西の方にある小さな国でしょう?」
アナベルの母、ソフィア・ブラウンが言った。
「夫と新婚旅行で行ったことがあるの。海が綺麗なところよ。最近は情勢が怪しいからって行ってなかったけど、滅んだって…」
ソフィアは悲しげに俯いた。
アナベルと同じ、赤い髪が揺れる。
「今朝、市場で苗を買い付けに行ったらその話が出てて…まあ、小国なので僕らに何か影響があるわけではないと思いますが」
市場の情報の回りは早い。
その分、正確さには欠けるが、「国が滅んだ」などと大事になるくらいなのだから、ただの噂というわけでもないだろう。
それに、私はリファラが滅ぶことを知っている。
だって……
「アナベル、ソフィア、ここにいたのか」
屋敷の方から声がしたので見ると、ちょうど父がこちらに向かってきているところだった。
「すまない、大事な話があるんだ。私の部屋まで来てくれないだろうか」
父、アーサー・ブラウン。
一見厳格そうに見える彼は、実のところ優しくて親バカで、娘の頼みなら汚職にも手を出してしまう、そんな人である。
「あら、あなた。どうなさったの?」
母の問いかけにはゆっくりと首を振り、父は「ついてきてくれて」とだけ言って歩き出してしまう。
その後を、母が慌てて追いかけていき、私も同じく立ち上がった。
「ロファ、お茶の途中でごめんなさい。お父様が呼んでいるから行かなきゃ。お菓子はあなたが食べてしまっていいわよ、紅茶は後で私が片付けに戻るから」
「お気になさらず、片付けは僕がしますので。それと、その…」
珍しく歯切れの悪いロファに、私は首を傾げた。
「なあに?どうしたの?」
「いえ…なんでもありません」
彼はどこか諦めたような様子で、そう言った。
私は気になって更に話を聞こうとしたが、屋敷から父に呼ばれてしまい、結局そのままロファと別れる形になった。