焦らして犯す
「本職は何をしてるんですか?」
アルバイトの休憩中、休憩室の左向かいに座った女がそう尋ねてきた。
彼は少し困った顔をして、間の空いた時間にさらに、んー。と悩んで、本職なんてないですよ。これが本職みたいなもんです。と何か隠し事をしているかのような口ぶりで答えたものだから、女は絶対うそだぁ。と砕けた笑い顔で彼の腕に平手を軽く打った。
彼は、にやけそうになるのを我慢して少し咳払いをした。
女は素知らぬ顔をしていたが、にやけそうになった彼の顔の、微妙な変化にはもちろん気づいていて、さっきまでの彼の興味を引くような行為はピタリとやめ、わたしはお利口さんだよ。とでも言わんばかりに上の空に目を泳がせ、手は膝において、足を少しだけブラブラさせた。
彼は女をチラチラ見たが、女が話しかけてくるような素ぶりは一切ない。
女はテーブルに肘をついて、手を組んだ上に顎を乗せ、目線は依然と上の空だった。
それに気づいていた彼は、喫煙所にタバコを吸いに行った。
喫煙所から出る時、ラベンダーの香りのする消臭スプレーをいつもより多めに振りかけ、女の元へ戻った。
「お疲れ様でーす。」
元気な声で挨拶したのは、今日夜番で出勤した草川くんだ。
「さっきこれ買ってきたんですよ。どうですか?このコート!」
「きゃー。可愛いじゃん!バーバリー?」
「バーバリーっす。さっき古着屋でタイムセールやってて、20%オフですよ!20%オフ!バーバリー!」
さっきまで重い空気だったこの空間に、一人の人間が加わるだけでこうも明るくなる。
彼は、顎に下げていたマスクをスッと鼻まで隠し、今度は彼が上の空に目を泳がせ始めた。
その日以降、彼女と休憩が2人になることはなくなって、その代わり仕事中、女は彼に時折話しかけた。
「どこに住んでるの?」とか。何日か空いて、「好きな食べ物は何?」とかそんな風に話しかけた。
それに対して彼は、さいたま。焼肉。とか素っ気ない返答をした。
いつまでもその素っ気のない返答をする彼に痺れを切らした女は、ついに彼への興味はなくなった。
1ヶ月かそれぐらい経ったある日の休憩中。
久しぶりに彼と女は2人きりになった。
しかし、女の頭の中では、彼は大人しくて他人に興味のない人。というレッテルがすでに貼られていたので、別段気にもしない感じで、スマホの画面に没頭していた。
しかし、彼はこの時を待ってましたと言わんばかりに、「村上さんって、もしかして〇〇〇〇?」
目にかかるか、かからないかくらいの前髪の下から覗く生に満ちた眼光。
乗り出した上半身を肘で支えて、
如何にもあなたに興味がありますよ。という姿勢を、彼はこの時初めて取り繕った。
女は、キモいと思った。
キモいと思ったが、こんな一面もあるんだ。と素直に思った。
「どうして分かるんですか?」
「いや、何となくですよ。人間観察が自分の得意とする所で、見てて分かるんです。例えば、右眼と左眼のバランスが悪かった時、精神的に疲れてるな。とかね。」
女はさらにキモいと思った。
それと同時にさらにこんな一面もあるんだと思った。
女はあの日のことを思い出し、やっぱり何かやってるんだ。という確信を得て、
「仕事、他に何かやってるんですか?」
と聞いた。
彼はおもむろに鞄の中をゴソゴソやりだして、仕事じゃないんですけどね。と言ってハガキサイズの「まつり」と大きく書かれたフライヤーを取り出した。
そこには出演者escape・library1030・etc.と書かれていて、このescapeっていうバンドでベースをやっていること、今週土曜日に「まつり」というイベントに出演することを話した。
「村上さん。よかったら遊びに来ませんか?」
彼は女をイベントに誘った。
女は少し考えて、「気が向いたら。」と言って、スマホの画面に目を落としたが、私はきっと行くだろう。とステージに立つ彼の姿を思い浮かべて、にやけるのを少し我慢した。
土曜日の夜。
20時半に仕事を切り上げた女は、友達の華を誘い、渋谷のライブハウスJB'sに向かった。
21時スタートのイベント。
1000円ワンドリンク付のチケットを買い、地下への階段を降りて行くと、これまでに出演したであろうバンドグループの剥がれかかったステッカーが壁にいくつも貼られていた。
重い扉を開けると、スモークが焚かれた薄暗い空間に青白い光が差していて、DJのかけるイベントスタート直後の、緩やかなJ-hiphopが流れていた。
少し早く来すぎたね。と、女は華に笑いかけ、無造作に置かれた壁際のハイスツールに座ると、透明カップに注がれたビールで乾杯した。
20分もすると、徐々に人が集まり始めた。
キャップを後ろ向きに被り、ぶかぶかのデニムを腰に履いた男。
黒のキャミソールに白いショーパン、網タイツに高いヒールを履いた女。
BGMにはブラックミュージックがかかっていて、街中やテレビなどで聴いたことのある曲も時折あったが、普段生活していて絶対に聴かないような重苦しい音が、女の脳を次々と殴りつけていた。
オシャレはしてきたつもりだったけど、華と二人、ナチュラル系とも言えるロングスカートにカジュアルなデニムジャケットの私。少し心細くなった。
こんなことならもっと詳しく聞いておけばよかった。
それに、彼は大丈夫なのか。
彼はどちらかと言うとひ弱なタイプだ。
女は、自分のことのように彼を心配した。
しばらくして、ステージで準備をする彼の姿を見つけた。
10時半の第一ステージの一番目に彼のバンドが演奏するのは、入り口に貼ってあるタイムスケジュールで確認していた。
もうすぐだ。
それにしてもやはり彼の立ち姿は弱々しい。
「少し前に行こっか?」
華に誘われてステージ近くに寄り、彼を見ていると、女に気づいた彼は、今まで見せたことのないような笑顔で笑いかけ手を振った。
少年のようで、だけどいつもの彼の冷たい感じが残った笑顔だった。
「彼、なかなかカッコいいじゃん。」
からかう華をキッと睨んだ女は、かっこいいのかな?と少し首を傾げた。
MCが即興ラップで客を煽ると、その流れで前の人は座って下さい。と言った。
「前の人は座って下さい。」
どこのイベント会場でも聞くようなありきたりな言葉だが、雰囲気とラップに乗せて言うその言葉はなぜだか、女を乗り気にさせて、「楽しいじゃん。」とつい独り言を呟いた。
先ほどまでの脳を殴りつけるような重い音は消え、辺りは静かで真っ暗だった。
ステージに明かりがつくと、大きな白い布が被された彼らの輪郭が居て、静かなピアノ音が聞こえた。
白い布は徐々に上がっていき、長髪を後ろで束ねた高身長のボーカルがカウントを取り、音が鳴り響いた。
音楽に疎い女だったが、この音楽がロックでもなく、ポップでもないことは分かった。
聴いたことのないジャンルだ。
歌うと思っていたボーカルは、あー。とかうー。とかっていう声しか出さない。
トランペット?の人、ギターの人、ドラムの人、キーボードの人、ボーカルの人は今タンバリンを鳴らしていて、あとベースの彼。
”escape。カッコイイかも。”
女は彼らの音に、それぞれの立ち姿に魅了された。
中でも彼の立ち姿は独特で、一人だけ妙な違和感があった。
普段の弱々しさは、やはり相変わらずで、いつもよりも生気に満ちていないようにすら感じた。
ふと彼の目を見ると、彼の目はどこを見ているのか分からない。遠くを見ているのか。近くを見ているのか。
しかし、没頭しているのは確かだった。
それは音が証明していた。
感情が伝わってくる。と言うと少し大袈裟な言い方になるが、あの休憩中や仕事中に言葉で話した時よりも、彼のことがよく分かるような気がする。
こんな世界もあるんだ。
女は少し関心した。
一曲目が終わると、いつの間にか集まっていた彼らのファンの黄色い声援が飛んだ。中でも彼の人気はすごかった。
男からも人気があるようで、「タク〜!」という声がしきりに飛び交う。
女はこの時初めて、彼の下の名前を知った。
ふと隣を見ると、華の目はいつの間にか彼を追っていた。
彼らはその後、2曲演奏して、ステージを降りた。
第一ステージは彼らescapeを含め計3組のバンドが演奏したが、どれも耳に入ってこなかった。
イベント関係者が「順番間違えたな。」と話していたのを聞いて、女も華も確かに。と顔を見合わせて納得した。
女が外に出ると、演奏を終えたメンバーが居て、その中に彼も居た。
女と目が合った彼は近づいてきて、
「ありがとう。来てくれて嬉しかったよ。どうだった?」
まっすぐで、清々しい声だ。
女は彼を自分のモノにしたい。と思った。
どう応えるのが正解?
別に。ってつっぱねる?
スゴイ格好よかったよ〜。ってぶる?
と、そんなことを考えていると、
「タクさん!すごいカッコよかったです〜。あっ私、友達の華です。今日観にきてよかった〜。」
華は彼の手を取り、彼の目を見つめている。
素直にカッコイイと言える華が羨ましい。
「ありがとう。華ちゃん。これから打ち上げするんだけど、来ない?」
「私、行きます!」
「あっ村上さんも!」
しかし、女は断った。
明日も出勤だから。そう言った。嘘だった。
自分のモノにしたいと思った自分が恥ずかしい。
「じゃあ帰るね。」
そう言った女だが、彼と華に別れを告げて、電車で揺られている間、ずっと胸が高鳴っていた。
女は彼の虜になっていた。
家に着いた女は、2年ぶりに自慰をした。
彼を自分だけの所有物にして、何度も何度もイッた。
気づくと朝になっていて、携帯を見ると10:37分。メールの履歴を開くと彼らと華が
楽しそうに飲む写真が送られていた。
華はしっかり彼の横をキープしている。
昨日した妄想に少しだけ嫌悪感を抱いた。
5年後。
短大を卒業した女は、看護師になっていた。
あれから同じバイトだった草川と、2年間付き合ったが別れた。
いつまでも子供。年下だし、将来生がなかったからだ。
彼と華はあれからすぐ付き合い始めて、今はもう別れている。
彼はバンドを続けているらしいが詳しいことは分からない。
連絡先もどこに住んでいるのかも知らない。
休憩中、SNSにメッセージが届いているのに気がついた。
「覚えてる?」
彼だった。
「覚えてますよ〜。懐かしい。」
「今、関東に帰ってきてて、久しぶりに会えない?」
あの時の感情なんてもう忘れていたが、久しぶりの連絡に少し嬉しくなった。
華とのこともあるし、
「仕事、終わったらいいですよ。」
そう返信した。
「じゃあ、連絡待ってます。」
待ち合わせは、あの日行ったライブハウスの近く、桜丘のカフェ。待ち合わせ場所に近づく度、なぜだかドキドキする。忘れていた感情が溢れてくるように。
「よぉ。久しぶり!元気にしてた?村上さん!」
見た目の弱々しさは変わらなかったが、あの時よりも垢抜けた印象だった。
ドキドキしていた感情も話すとそうでもなく、バイトの時のこととか、華のこととか懐かしい話をいっぱいした。
成り行きで彼の車でドライブに行くことになった。
都市高を抜けて、郊外へ。
コンビニで飲み物を買ってもらい、また車を走らせた。
無言で走らせる車の中はしばらく異様な空気が流れていた。
車をふと端によせた彼は、女の目を見つめた。
あの時の目だ。
遠くでもない。近くでもない。
でも、彼の目はたしかに女の目の前にあって、女の目をまっすぐと見ている。
女はあの時の光景を思い出していた。
タク〜。と叫ぶ声援。
彼の立ち姿。
彼の出す音。
彼を自分のモノにしたい。と思ったこと。
それで何度もイッたこと。
女は彼の手に触れ、彼は女にキスをした。
女は感情を抑えきれなくなった。
「タクくん。タクくん。」
女は、再び彼を自分のモノにしたいと強く想った。
彼の名前を呼んだ。
東京郊外の深夜。
路肩に停まった黒い普通車の中で、
それを聞いた彼の顔は少しだけにやけていた。