【10】
アンリがそばを離れて行くと、シャルロットは見張りも兼ねて再び外に視線を向ける。
「おい。いくら夏とはいえ、風邪ひくぞ」
日が傾いてきてもぼんやり外を眺めていたシャルロットに、ジスランが声をかけてきた。もしかしたら、アンリに言われて見に来たのかもしれない。振り返ったシャルロットはジスランを見て言った。
「ジスランって、何気に面倒見いいわよね」
「うるせぇ」
ちっと舌打ちされた。シャルロットが動かないので、ジスランが隣まで来る。
「王都に戻るそうだ」
「そう。戦線を縮小するのね」
アルトーを放棄するのだろう。アンリが王都を戦場に変えるとは思えないが、シャルロットも王都に帰る必要性がある以上、アルトーは放棄されたも同然だ。
「……悲しい、のか?」
何故か片言でジスランが尋ねてきた。シャルロットは「悲しいわ」と答える。ため息をついた彼女は言った。
「力が欲しいなぁ……」
「お前、それ以上強くなってどうすんだ」
「いや、そう言うことじゃなくて」
遠回しに強いと言われたが、そう言うことではなくてだ。
「物理的な力じゃなくて、権力? とか、そう言うの。私の力では、戦争を終わらせることはできないんだなって……」
彼女はただ戦うことしかできないのだ。終わらせるための力がないから。
それでも利用価値があるから、残される。残されていく。残されてしまう。
シャルロットはふらりとジスランの側によると、その肩に額を乗せた。彼の服をつかんで身を寄せると、目を閉じる。
「みんな、私に『できるだろう』って言って置いていくのだわ。私一人だけ、残される。やらなければならないことがあるから。決めたのだから、放棄することなんてできない……でも、私はさみしいと思ってしまうわ……」
わかるようなわからないようなことを言われて、ジスランはさぞかし戸惑ったことだろう。だが彼は、シャルロットを抱きしめるとその背中をたたいた。
「そうだな。お前は残されるのかもしれん。だが、一人で抱え込むな。お前は一人じゃねぇだろ」
優しく頭を撫でてくれる手に、シャルロットは一瞬目を見開き、再びまぶたを閉じた。両目から涙が零れ落ちる。
「……何。慰めてくれるの」
「そうだな」
思いがけない返答に、シャルロットは顔をあげた。しかし、すぐに力強く抱きしめられた。
「お前以上に、俺は何もできねぇよ。……もどかしいな」
「……」
もしかしたら、ジスランも泣きたいのかもしれない。近しい人を失ったのは、彼も同じだ。シャルロットは彼の背にすがりつくように手をまわした。彼の体は温かくて、少し安心した。
アンリは、シャルロットとジスランを連れて早急に王都に戻った。アルトーの戦線は放棄され、帝国に占領される日も目前に迫ってきていた。
「お帰りなさい」
マリアンヌが戻ってきた夫を見て安心したように微笑んだ。アンリは笑ってただいま、などと言っているが、逆に顔をこわばらせたのはシャルロットだ。
「シャル」
強張った顔をしたシャルロットを見て、マリアンヌが困った表情になる。シャルロットは、彼女とその子を守らなければならない。
「感動の再会のところ、申し訳ないが」
話しかけてきたのは、宰相のドゥメール侯爵だった。こほん、と咳払いした彼はアンリとシャルロットを交互に見た。
「アンリ殿下が国王に、シャルロット嬢がフィリドール公爵になると考えてよろしいか」
国の今後を決めるに当たり、重要なことなのだろう。アンリとシャルロットはうなずいた。
「フィリドール公爵には申し訳ないが、アルトーの戦線は放棄した。……宰相。今後の方針を話し合おう」
「かしこまりました。早々に申し訳ないが、シャルロット殿も」
「わかりました」
硬い声でドゥメール侯爵にうなずくシャルロットに、マリアンヌが不安げな表情になる。アンリが先ほど、アルトーを放棄したと言った。戦況が良くないということは、察しがつくだろう。
部屋を移した三人は、早急に話し合いに入った。
「降伏しよう」
アンリがきっぱりと言った。シャルロットは沈黙を貫き、ドゥメール侯爵も唇をかんだ。
「もう持たん。実際に戦場を見てきて、はっきりわかった。帝国の力は圧倒的だ。今の状況では、俺達に勝ち目はないだろう」
「……私も、そう思います」
ドゥメール侯爵も同意した。早い段階、被害が少ない段階で降伏し、例え帝国に占領されたとしても、形だけは残るであろう宰相のドゥメール侯爵なら、ファルギエールを国の形として残せるだろう。
「ですが、そうなれば……おそらく、陛下は処刑されるでしょう」
「ああ、俺も同意見だ」
ドゥメール侯爵の言葉に、アンリは少し笑った。
「それでも、これ以上人々が傷つくのは見たくないからな」
はー、とアンリが息を吐いた。
「父上も、叔父上も、その役目をはたして逝ってしまった。俺も、役目を果たすべきだ」
残されたのなら、その役目を果たさなければならない。そう思ったのは、アンリも同じであったらしい。
「側にいると、マリアンヌとフランソワにも危害が加わるかもしれん。シャルに預かってもらう」
「……シャルロット殿も、今や王位継承権第二位の方ですが……」
「私は王にはならないわ」
シャルロットがきっぱりと言うと、ドゥメール侯爵は「でしょうね」と笑った。
「あなたは、大きな権力を手にするより、ささやかな幸せを大切にする方だ」
そんな事を言われて、シャルロットはちょっと面食らった。先日、権力が欲しいなどと思ったばかりだったからだ。
「とにかく、俺の心は変わらん。残すことになる二人には申し訳ないが、後を頼む」
「……あくまでもあなたは、戦争を終わらせるために即位するのですね……」
ドゥメール侯爵の言葉は悲しげだった。シャルロットも静かに目を伏せる。
間もなく、アンリはファルギエール国王として即位した。同時に、シャルロットもフィリドール公爵位を正式に引き継ぐ。
そして、それから半年後、アンリ王は帝国に降伏した。アイヒベルク帝国は、その日のうちに王都に乗り込み、宮殿を制圧したが、その時、アンリ王の妻と子の姿はなかった。
宮殿に乗り込んできた帝国元帥ゲルラッハ公爵は、国の支配について詳しかった。アンリ王の妻子を執拗に追うことはせず、ただ、ひと月も経たないうちにアンリ王のことを処刑した。
この時代、処刑は見世物だった。尤も、先王の次代からその傾向は薄れて言ったが、ゲルラッハ公爵は、帝国の支配を知らしめるためにもアンリ王を公開処刑した。
そして、それをシャルロットは見ていた。従兄の首が落ちる瞬間を、見ていた。彼女はそっと息を吐く。
もう、残ったのは彼女一人。フィリドール公爵位を継ぎ、マリアンヌたちを宮殿から連れ出した時から、もう覚悟はできている。
シャルロットは踵を返した。待っている人がいるので、帰らねばならない。やることがあるので、生きねばならない。
ただ、この時の彼女は本当の意味では気づいていなかった。帝国に対して反発するとき、彼女が旗頭として、最もふさわしいと人々が考えていることに。
△
初夏の風を受けながら、シャルロットは細く息を吐きだした。瀟洒なパイプを片手に紫煙をくゆらせている彼女は、自身が所有する領地、アルトーのフィリドール公爵本邸にいた。一度、先の王アンリが戦線放棄した土地である。
「ここにいたんですか、メートル」
「ああ、ユーリ。この期に及んで逃げたりしないから大丈夫だよ」
「どうでしょうね」
疑われるのは、普段の彼女の生活態度が悪いからだ。あれからもう、七年の月日が経ち、シャルロットも二十五歳になっていた。
この金髪碧眼のかわいらしい少年は、何年か前に人さらいに捕まっているところを言い値で買いあげた少年で、名をユーリと言う。戦闘民族の出身のようで、一応、建前はシャルロットの秘書兼護衛だ。
「どうかしたんですか」
ユーリがバルコニーに出てくる。あの時、アンリやジスランもこうしてシャルロットに近づいてきたっけ。
「少し、昔を思い出していただけだよ。私はここから始まったんだ」
「まあ、そうなんでしょうけど……子供のころのメートルなんて、想像できませんね」
「そりゃあね。君が私と出会ったときはもう私はこの状態だったからねぇ」
多少老けたりはしているだろうが、性格は出来上がっていた。
「私だってねぇ。昔は可憐な公爵令嬢だったわけだよ」
「可憐な……末っ子だったとは聞きましたけど」
「ああ。まさか、自分が爵位を継ぐとは思わなかったよ」
爵位にも遠い、王位継承権も低い。まさか、それらが目の前まで落ちてくると思わなかった。爵位は今保持しているし、手に入れようと思えば、王になることだってできるだろう。
しかし、彼女はそう思わない。いつか、ドゥメール侯爵が言ったように、シャルロットは、今ある幸せを目いっぱい大切にしたい。しかし、状況はそれを許さない。
「さて。君が来たということは、フランソワの支度が終わった?」
「はい。いつでも行けます」
「そうか」
シャルロットは煙草を携帯用灰皿に捨てると、パイプをしまう。バルコニーから建物の中に入った。
「さて。ちょっと王都に行ってみようか」
「そろそろジスラン様のところに行ってあげないと、あの人、発狂するんじゃありません?」
「ははは。それもちょっと見てみたいな」
何かまかり間違ってジスランと夫婦になってしまったが、後悔はしていない。ジスランのことは好きだし、昔からシャルロットのことを知っているので、甘えられる。ユーリは「ジスランが発狂する」と言ったが、会えなくて発狂するのはシャルロットの方な気がする。それでも、顔を合わせづらいことだってあるのだ……。
「シャル。どこ行ってたの」
旅支度を終えたフランソワ……シャルロットにとって従兄の子にあたる彼がシャルロットを見上げて言った。彼女は微笑み、「ごめんごめん」と謝る。
「昔の自分は馬鹿だったなぁと感慨にふけっていたんだよ」
「ふーん……?」
いくら聡明とはいえ、十歳の子供には難しかったらしい。フランソワは首をかしげていた。
幼い子を、母親から引き離してしまった。その負い目があるのに、シャルロットは彼を王にしようとしている。彼が嫌がるのであれば、シャルロットが王位を継ぐことはやぶさかではないが。
「……さて。行こうか」
さまざまな思惑を振り払うように、シャルロットはそう言った。
ファルギエール奪還まで、あと数か月。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
過去篇はこれで終了です。
いかにしてシャルロットがフィリドール公爵になったのか、というつもりだったのですが、そうはなっていないかも…。