【13】
初エメ・リエル視点。
血だ。どこを向いても、血、血、血……。真っ赤に染まっていた。
乾きかけた血で滑りかけながら走る。
「誰か! 誰か、生きている人はいないの!?」
次々と開ける扉の先には、生きている人間はいなかった。その中に父や母、兄や姉たちの姿を認めて駆け寄るが息はなかった。
……この城の中生きているものなど本当にいないのではないか。壁に手をついて息を整える。
誰だ。私の大切な人たちを奪ったのは。私がいない間に、全てを踏みにじったのは。
ここは国境。攻め込んできたのだ。隣国ではない。隣国を占領した帝国が。
「絶対に……っ」
許さない。
△
ファルギエール王国の筆頭貴族、フィリドール公爵の王都邸。フィリドール女公爵シャルロットは目を覚ました。何度か瞬きをする。ベッドに手をついて身を起こすが、まだ夜だ。それほど眠っていなかったようだ。
「すまん、起こしたか」
声が聞こえ、緩慢な動きでそちらを見る。夫のジスランが小さな明かりの元で手紙を読んでいた。
「夜中だ。寝ろ」
端的に言って、ジスランは手紙に目を戻す。シャルロットはしばらくその背を見つめていたが、不意にベッドから降りた。ジスランに近づくと、無言で背後から彼を抱きしめる。斜め上から抱きしめられたジスランは腕をあげてシャルロットの頭を撫でた。
「どうした?」
「……」
何も答えず、シャルロットはただジスランを抱きしめる力を強め、彼の肩に顔をうずめた。
ジスランは様子のおかしい妻の頭をただ撫でる。
「怖い夢でも見たのか」
からかっている様子はなく、むしろ気遣っているようにも聞こえた。普段は悪口の応酬をするほどであるが、結婚するほどであるから仲は良いのだ。
「シャル」
名を呼ばれる。やっと、シャルロットは少しだけ顔をあげた。ジスランがシャルロットの顎をつかみ、口づけた。触れるだけのキスはすぐに離れて行く。
「……ねえ。どうしてジスランは私と結婚したの」
二人が結婚したのは帝国との侵略戦争終結間際だった。つまり、ファルギエールが帝国によってほぼ占領されていた時期のことである。あれから、もう七年も経つ。
混乱期であったから不思議ではないのかもしれないが、公爵家と言う高位の貴族の出身でありながら、シャルロットは恋愛結婚だった。まあ、政略結婚ではない、と言うことだが。
ジスランはリエル伯爵家の長男で、シャルロットが偽名として使っているエメ・リエルは自分のミドルネームと夫の旧姓から取っていた。
結婚して七年。初めて会ってから、もう十二年になる。出会ったころは二人ともまだ子供で、喧嘩ばかりしていたのが懐かしい。あれから、二人の関係も国の状況もだいぶ変わってしまった。
「……妙なことを聞くな」
「……うん。ちょっと、夢が……」
「悲しかったか」
「……」
言い当てられてシャルロットは少しむくれた。ジスランがくくっと喉の奥で笑う。
「一緒に寝てやるからちょっと待ってろ」
「うん」
素直にうなずき、シャルロットはジスランから一度離れた。ジスランは手紙を片づけると、シャルロットの腰を抱き寄せる。そして彼女を見上げて舌打ちした。そのまま彼女を抱き上げる。みんなの前では気にしていないように気障なことを言っていたが、なんだかんだで彼も気にしているのだ。シャルロットだって、まさかこんなに背が高くなるとは思わなかったが。
翌朝、朝食をとりながらジスランがシャルロットに尋ねた。
「お前、今日は何をする気だ」
「いつも何かをたくらんでるみたいに言わないでくれる」
すっかりいつも通りのシャルロットである。そして、ジスランとの応酬もいつも通りだ。家族同然に一緒に朝食をとっているマリアンヌの息子フランソワと、シャルロットの秘書兼護衛ユーリは、またか、と言わんばかりで気にも留めない。
「仕事がたまってるからね。家で書類仕事だね。午後になったら出かけるかもしれないけど」
「一人で行くんじゃねぇぞ。ユーリを連れて行け。撒くなよ」
「はぁい」
一応、この屋敷の主はフィリドール女公爵であるシャルロットなのだが、何故かジスランの方が立場が強い。使用人たちも何故かシャルロットより、ジスランの言うことを優先する。もちろん、家の采配や領地経営はシャルロットが行っているが、それ以外……つまり、私的なことに関してはジスランの意見が優先される。たぶん、シャルロットが突拍子もないことを言いだすからだけど。
ジスランは短気であるが、寛大な夫であると思う。シャルロットは彼と結婚したとき、すでに公爵位を継いでいたが、彼が彼女から爵位を奪うようなことはなかった。そのため、ジスランが公爵家に婿入りした形となっている。
小言は言うが、それはシャルロットを思っているからだ。共もつけずにふらふら出歩く彼女が悪い。そもそも、公爵でありながら各地に出歩いて半年も夫と顔を合わせない人間がどこにいるのだ。ここにいるが。
ジスランは怒るし怒鳴るし舌打ちするし、シャルロットに対する扱いも雑だ。だが、その裏には彼の優しさがある。のだと思う。
まあ、シャルロットのジスランへの評価はともかく。フィリドール公爵領の経営確認と彼女がエメ・リエルの名で設立した商社レーネック・カンパニーの現状を確認する。幅広い事業を行う商社であるレーネック・カンパニーは、毎年巨額の利益を得ている。そのため、エメ・リエルは『ファルギエール一の資産家』などと言われるのだ。
通商やミエル・ド・フルールなどのカフェ、レストラン、病院、学校なんかも経営している。普通に雑貨屋やブティックのような店もあり、我ながらいろんなところに手を出しているな、と思う。
そのほか、彼女は福祉活動も行っている。救貧院や孤児院の経営を行い、通常では経験できないスポーツや絵画を見に行くイベントなどを企画したりもしている。
シャルロットにはいろんな顔がある。レーネック・カンパニーの社長エメ・リエルも一つの顔だし、フィリドール女公爵も顔の一つ。資産家とも言われるし、福祉を幅広く行っていることから聖女と呼ばれることもある。そして、一番有名なのが反乱同盟のファルギエール王国の首魁である、という噂だろう。噂は噂にすぎないが、事実でもある。
シャルロットが帝国を憎んでいるのは事実だ。家族を皆殺しにされ、一人だけ残された。憎むには十分な理由だろう。
だが、それだけで帝国に反旗を翻そうとしていると思われては困るのだ。シャルロットはファルギエールの反帝国をあおるつもりはなかった。だが、彼女の周囲が彼女をリーダーへと押しやった。プロパガンダとして都合がよかったのだと思う。家族を殺されて爵位を継いだ十七歳の少女。うん。文字にすると結構インパクトがある。
まあ、今となってはその立場を利用させてもらったりしているのだから文句は言えないが、もう少し人の事情も考えてほしいものである。
ひとまず書類仕事を終えたシャルロットは「出かける」と言って屋敷を出ようとする。エメ・リエルの恰好で、男装姿だ。
「メートル。お待ちください。僕も行きます」
すかさずユーリがやってきて言った。その後からフランソワもやってきて「どこに行くの?」と尋ねた。
「ちょっと救貧院の様子を見に行こうかなって。フランソワも一緒に行く?」
「行く」
フランソワが即座にうなずいた。ユーリがやや不安そうにシャルロットを見上げたが、彼女は気にしない。ひとまず、自分が銃を持っているか確認した。
「大丈夫だよ。これでも、戦闘には自信があるから」
「はあ……まあ、侵略戦争時代の武勇伝なら、ジスラン様からいくつか聞きましたけど」
「……ユーリ、うちの夫と仲いいよね」
正反対にも見える二人だが、結構仲がいい。いや、性格は二人ともクールだし、気が合うのか? あ、いや、ジスランはクールなのではなく気障なのか?
「お待たせしました」
外出着に着替えてきたフランソワが駆け寄ってくる。シャルロットはそんな彼を見て眼を細め、「行くか」と言って歩き出した。
若干わけのわからない面子だが、ひとまず職質をかけられることはなかった。
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