【10】
マルシェでユーリと遭遇した翌日、ミエル・ド・フルールに珍しい客が訪れた。オーナーのエメ・リエルだ。今日もパンツにコートを合わせた男装である。
「こんにちは」
挨拶をされたミレーヌは、「あ」と声を上げる。
「昨日、ユーリが探してましたよ」
「うん、そうだね。君は追いかけるよりも追いかけられる女になりたいと思わない?」
にこっとそんなことを言われ、ミレーヌは半眼でエメ・リエルを見上げた。
「ミレーヌ、その馬鹿の相手はしなくていいから、コーヒー運んでくれる?」
「あ、はい」
食器を下げに行ったミレーヌは、あわててそれを持ってカウンターに戻った。代わりにコーヒーとガトーを受け取った。その間にエメ・リエルがカウンター席に行き、ミレーヌに声をかけたエリゼと話をしていた。
「君さぁ、あんまり心配かけちゃだめだよ」
「いや、誰も私のことなんて心配してないでしょ」
「確実に一人は心配してくれる人がいるよね」
「……どうだろうね」
そう言ってエメ・リエルはエリゼが出したコーヒーをすすった。さらにガトー・ショコラをほおばっている。
「まだ逃げてんの、君」
「別に逃げてるわけじゃないよ。まあ、しばらく王都にいる予定だから、そのうち顔を合わせるでしょ」
「そのうちって……まあいいけど」
エリゼは肩をすくめる。その日、コーヒーを飲みに来ただけだったのかエメ・リエルはすぐに帰っていった。その後すぐにユーリが入れ違いにやってきた。何かと彼もタイミングが悪い。
その次にエメ・リエルを目撃したのは翌々日の夜だった。たまたま、ミレーヌは夜のバーの方のシフトに出ていたのである。
「あらー、今日はお酒?」
「こんばんは、マリアンヌ。今日も麗しいね」
今日もエメ・リエルはカウンター席を選んだ。マリアンヌがカクテルを彼女の前に出した。
「あなた、あまり強くないんだから飲み過ぎないようにね。ニコチン中毒でカフェイン中毒の上にアルコール中毒とかシャレにならないわよ」
「ははっ。わかっているよ」
眼を細めたエメ・リエルを横目で見つつ、ミレーヌは厨房に入った。料理をもらいに行ったのだ。
気づけばエメ・リエルは席からいなくなっていた。帰ったのかと思ったら、店の裏にごみを出しに行ったら、そこで遭遇した。店の壁に寄りかかって紫煙をくゆらせている。
「……」
パイプを吸う姿が妙に様になっていて見つめていると、目があった。彼女は微笑んで「やあ」と声をかけてきた。ミレーヌはとりあえずごみをゴミ箱に入れた。
「何してるんですか」
「パイプを吸ってるの。店の中で吸うとマリアンヌに怒られてしまうからね」
まあ店の中だしね。普通に店内で吸っている客もいるが、煙たくなるので店長のマリアンヌはあまり好まないのである。
「ユーリとは会えたんですか」
「ああ、まあね。君の家にお邪魔したと言っていたよ」
「……私のこと、知ってるんですね」
「一応ねぇ。これでも記憶力はいい方なんだ」
そう言って彼女はパイプを口にする。紫煙を吐きだす様子はどこか憂いがあるように見えた。それから彼女は灰を携帯用灰皿に入れると、パイプを布でくるんだ。
「さて、そろそろ中に……うん?」
「……何の騒ぎですかね」
店の中から何やら怒鳴り声が聞こえてきた。目を見合わせたミレーヌとエメ・リエルはそろって裏口から中に入った。
「どうかしたんですか?」
「ああ、ちょっと……って雇用者まで」
「ああ、私のことは気にしないで」
にっこり笑ってエメ・リエルが言っている間にも怒鳴り声、さらに殴ったような音も聞こえてきた。エメ・リエルが尋ねる。
「今日、エリゼはいないんだっけ」
「明日の朝が早いので、今日は店長だけですね」
「ふうん……そうか」
エメ・リエルはそう言うと、どうやら客が騒いでいるらしいホールに出た。背後から料理人が「ちょっと、雇用者!」と叫んでいるが、彼女は止まらない。ミレーヌはあわててついて行ったが、カウンターから出るつもりはない。
「お客様、落ち着いて!」
男性店員がなぐり合っている客たちに声をかけている。ミレーヌはカウンター内にいるマリアンヌに声をかけた。
「何があったんですか?」
「……まあ、喧嘩よね。くだらないわよぉ。女性の取り合い」
ああ、そう言えば、離れたところで「私のために喧嘩しないで!」と白々しいことを言っている女性がいる。喧嘩している男性二人にエメ・リエルが声をかけた。
「何楽しそうなことしてるの? 私も混ぜてくれない?」
「なんだテメェ」
男に馬乗りになっていた男の方が振り返り、上から声をかけるエメ・リエルを睨んだ。だが、彼女はひるまない。
「店の中で喧嘩なんてねぇ。どうせなら外でやろうよ」
それ、自分も参加する前提ですか。
「なんだと、ひょろっとした身なりしやがって。お坊ちゃんが入ってきていい問題じゃねーよ!」
と。男はエメ・リエルを殴ろうとした。ミレーヌは思わず悲鳴をあげたが、マリアンヌは冷静に目を細めて見ていた。
エメ・リエルは微笑んだまま、男の拳を自分の腕でいなすと、男の腕をひねりあげた。背後に締め上げられた腕に男が悲鳴を上げる。
「迷惑だって言ってるんだよ。女性の取り合い? 大いに結構。だが、マリアンヌの店の評判を下げるようなまねはよしてもらおうか」
低い声だった。ぞっとするほどの恐怖を覚えたのはきっと気のせいではない。
「な、何だ、お前」
「なんだって、この店の客だよ」
いや、オーナーです……。エメ・リエルは文字通り、喧嘩をしていた男二人を店の外につまみ出した。
「お帰り下さ~い」
しーんと店内は静まり返っている。マリアンヌが軽く手をたたいた。
「騒がせちゃってごめんなさい。もう大丈夫だから、引き続き楽しんでいただけると嬉しいわ」
店長がそう言うと、すぐに活気が戻ってきた。この店では珍しいが、喧嘩はよくある話なのでみんなさほど気にしないのである。
「さっきのお坊ちゃん、店長のいい人か?」
「なかなかのハンサムだったなぁ」
常連客がマリアンヌに絡んでいる。やはり、エメ・リエルは男性に見えるらしい。じっと見たら女性だとわかるのだけど。
「違うわよ。まあ、あの子ほどの美形はお目にかかったことはないけれどね」
その時、なかなか戻ってこないエメ・リエルの悲鳴が聞こえた。ドアの近くにいたミレーヌはドアを開けて外を見る。外ではなぜか、攻防戦が繰り広げられていた。
「てめぇ何故逃げる」
「別に逃げるつもりはないんだけど……!」
エメ・リエルがジスランに腕をつかまれていた。ジスランはエメ・リエルを逃がさないようにつかむし、エメ・リエルは逃れようと腕を引く。エメ・リエルは踏ん張っているが、どう見てもジスランに分がある。
「放してくれないかなぁ。逃げないから」
「信用できん」
「あーららぁ」
頭上から声が聞こえて見上げると、マリアンヌも顔を出して様子を見ていた。でも、手出しはしない。二人とも怖いから。
「痛っ」
エメ・リエルが声をあげた。本当に痛かったのかもしれないし、そうでもないのかもしれない。しかし、ジスランがひるんだ。その瞬間にエメ・リエルは腕を振り払い逆方向に逃走した。が。
「無駄ですよ、メートル!」
進行方向からユーリが現れた。エメ・リエルは「おおっ!?」と声をあげて立ち止る。すると、背後からジスランに、今度は本格的に拘束された。
「謀ったな!」
「てめえほどじゃねぇ。散々逃げ回りやがって覚悟しろ」
背後からエメ・リエルを拘束したジスランの地を這うような低い声に、さしものエメ・リエルも青くなった。
「お……お手柔らかにお願いします……」
弱弱しい主張に、ジスランは「さて、どうかな」と鼻で笑った。さすがにちょっとエメ・リエルが可愛そうな気がしたが、自業自得のような気もした。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
エメ・リエルは平気で人の頬を引っ張るタイプ。