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恋、想ふ日は  作者: 小花衣 杏佳
8/10

中君

それからはあっという間だった。

桜の君は邸から離れてしまった。行方はわからず、桜の君に仕えていた紫乃や村雨という女房もいない。


朝霧の妹、中君(なかのぎみ)に会いに行くことを理由にしても良いのだが、何の想いも寄せていない中君に言い寄るのも桜の君を裏切るようで嫌だった。

心から愛するのは、桜の君ただ一人。他の女性が彼女に成り代わることはできないし、白露はそれを望まない。


一刻も早く、桜の君が戻ってくることを願うばかりだ。そんな白露の思いとは裏腹に、毎日のように中君からは文が送られてきていた。

夕霧や朝霧も、何かと白露に中君を推してくる。訊きたいのは桜の君のことなのに、それとなく訪ねると、貝のようにぴったりと口を閉ざしてしまい、うんともすんとも言わなくなる。

桜の君の居場所さえ分かれば文を送れるものを、手掛かり一つ掴めないのだから、桜の君を完璧なまでに隠しているのだ。


季節は夏。桜の君と初めて出会ってから、四ヶ月ほどが経とうとしていた。朝霧が持って来た名酒を飲んでいると、ついつい酔いが回ってしまった。


「朝霧。桜の君はどうしてる?」


「姉上?姉上は東三条…」


「朝霧!!」


夕霧が慌てて制止するが、白露は聞き逃さなかった。


「東三条か」


それだけ言うと、部屋を脱兎の如く出て行った。だから、朝霧と夕霧が顔を見合わせて目で合図するのには気づく余地がなかったのである。


部下に知らせると、桜の君の隠れている邸はあっさりと見つかった。馬を走らせて駆け込む白露が肩透かしを食らうほど、桜の君は喜んで白露を迎えた。部屋は白露が来ると分かっていたかのように、調度品まで全てが整えてある。


「白露様…お待ちしておりました」


声が普段よりもか細く、高いように思えた。それだけでなく、姿形がいつもより小さく感じる。だが、それは白露が気にとめるには不十分だった。


「たくさんの文、嬉しゅうございました」


「受け取っていたのですか」


「ええ、朝霧からもらっていました。お返事ができなくて、申し訳ありません。ですが…よくぞ私を見つけてくださいました」


「貴女を見つけるためなら、どんなことでも致しましょう。」


桜の君が微笑むのを見届けて、白露は再び口を開いた。


「桜の君。聞いていただきたい事がございます」


「何でございましょう?」


「私は貴女がいかなる病にあっても、北の方にお迎えしたい」


「病?」


桜の君が訊いた。心外だというように、だ。


「え?」


「ああ、いえ。何でもございませんわ」


取り繕ったような声音に、白露はかすかな違和感を覚えた。


「桜の君?大丈夫ですか」


「ええ、白露様がおいでになって下さいましたから」


桜の君は、このように飾ったような言い回しをしただろうか。もっと、端的な話し方をしたと思ったが。


「私の北の方になってくれますか」


「ええ、もちろん。産まれる御子が楽しみですわ」


楽しげに言う桜の君に、とうとう白露は、はっきりと違和感を覚えた。


「今、何とおっしゃられた?」


「え?生まれてくる御子が楽しみだと申し上げたのですが」


白露は慌てて御簾から出ている出し衣を見た。それを見て、白露の脳裏に桜の君の言葉が蘇った。確か、まだ通って一週間ほどだっだと思う。


桜の君は牡丹襲などを好んで着ており、黄色が組み合わせに入っている袿をあまり着ていないのが気になった。


「山吹の襲がお嫌いなのですか」


「そういう訳ではありませんが…黄色は似合わない気がして、あまり好みません」


「とんでもない。貴女なら、どんな襲も似合います」


「ありがとうございます」


ありがとうございます、と言っているが、どうやら乗り気ではなさそうなので、数日後に上等な絹で仕立てた青山吹襲を送った。


「青山吹の襲(表が緑で裏が黄)です。是非、着てみて下さい」


「では…少しだけなら」


そう言って着てみたが、確かに青山吹でなければ桜の君には不似合いだった。


「ではお礼に、一つ秘密をお教えいたしましょう。実は私、中部・おめり仕立てが好きですから、普段からこの仕立ての襲を着ているのです」


中部・おめり仕立てとは、本来着ているのは一枚の袿なのだが、それを三枚着ているように見せる事ができる便利な衣である。

そう言って、柔らかに微笑んだ。


しかし、今の桜の君と名乗る女人が着ているのは青唐紙の襲(表が黄で裏が青)であるし、中部・おめり仕立てではない。


「桜の君…ではありませんね」


ぽつりと白露が言った。桜の君、いや、桜の君になりすましている女人は、口を閉ざして何も言わない。

先ほどまでの饒舌が嘘のようだ。しかし、この女人は桜の君をよく知っているようだし、似ているところがある。

そこで思い出したのは、中君だった。


「中君様ですか」


「…白露様」


中君の声は震えていた。


「本物の桜の君はどこですか」


「存じ上げません」


即答したが、やがて、中君はせき止めいた何かが一気に溢れてきたように話し始めた。


「どうして、どうして殿方は皆、姉上にばかり惹かれるのでしょう。私だって、見劣りしない娘ですのに」


中君は、たまらなくなったように御簾から出て、白露の横にある記帳に隠れた。

確かに、華奢で可愛らしい顔立ちの娘だ。桜の君とは別の美しさを感じさせる。だが、桜の君が持つような、目の覚めるような美貌や艶やかな微笑み、男達がこぞって競い合ってしまうような桜の君が持つ魅力は持ち合わせていない。桜のように、気高く華やかで優美なものではなく、控えめな例えるならば、菫ように慎ましやかな女人だ。


「ねえ、白露様。私のどこが不満ですの?私は姉上にも見劣りしないでしょう?姉上にはないものだって持っているのに。姉上のように、殿方を誑かしまいし、浮世に名を馳せたりもしません。でも、それなのに、姉上さえいなければと、いくど思ったと思います?幾度と、姉上になり代れたらと。どんなに姉上が羨ましくて憧れたことか。白露様だってそうですわ。他の殿方と同じように、姉上に夢中になってしまわれた。私だって、白露様が好きなのに。姉上よりも、ずっとお愛申し上げているのに…」


どうして、どうしてと、中君は泣き出した。

だが、そんな中君を見ても白露は桜の君が気になって仕方がなかった。ひどい男だ、と白露は内心で苦笑した。


桜の君は、つい惹かれてしまうほどの天性の魅力を持つ。思わず、感動の嘆息してしまう。そして、彼女の素はとても優しく賢い姫だ。だから中君も桜の君が憎くても憎めないのだ。


「…でも、分かってしまいますの。殿方がどうしてそれほど姉上に惹かれるのかも。だって、妹である私でさえ、惚れ惚れしてしまうのですもの。冴えない殿方にも、文さえくれば必ずと言って良いほどお返事しますの。お断りのお返事でも、優しくて。でも、そのせいでさらに惹かれてしまうから、姉上をよく知らない者達が、姉上を中傷するのです。天下の悪女などと、酷いあだ名までつけて。白露様は、それでも姉上の元へ通い続けてくださった」


よほど姉上に心酔しているのですね、と笑う中君の顔は、今までで一番、愛らしく清々しいものだった。


「姉上は、母上のお邸におられます。ですが、もう少しお待ちください。白露様に姉上が自らお会いになる日が来ます。ですから、その日までは待っていてください」


中君の心から姉を慕い、思う気持ちが紡いだ言葉だった。

この言葉は信用に値する。桜の君が自ら会ってくれるのならば、どんなに長くても待てる。その日が、どんなに遠くても。


後からこっそりと東三条に来た朝霧と夕霧は、すっかり友人になってしまった中君と白露を見て、訝しげに眉を寄せたが、これまでの経緯を手短に話すと呆れた様子になった。


「どこまで姉上に惚れ込んでるんだ?」


「姉上に陶酔しすぎて他を疎かにするな」


と、釘を刺されたりもした。


「桜の君に会えるのは、いつだろうな」


ふと庭を見れば、蛍が飛んでいる。夏の夜風に揺られる葉は涼しげだ。


夢より 儚きものは 夏の夜の

暁がたの 別れなりけり

(意味:夢よりも儚いものは明け方の別れであった 作者:詠み人知らず)


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