嘘と噂
東の対の桜の君の部屋に通された白露は、御簾の中にかくれてしまった桜の君が愛しくてたまらなかった。
紫乃や村雨は不安げに白露を見ていたが、桜の君の一暼で、ごゆっくり、と言って奥へ去った。
「桜の君」
「あなた様が謝られることではありません。あなた様からの文がありました。とても嬉しかったのですよ。それに、私、そんなことをあまり気にする方ではありませんの」
寂しげな笑みをもらす桜の君は、庭の方を見ていた。
「昔から、私はそういう標的になりやすかったのです」
脇息にもたれかかりながら、桜の君は苦笑した。
「何事もそつなくこなせる美しい姫など、女の嫉妬を買うものはないでしょう?」
優秀なばかりに、嫉妬を抱かれる者の典型である。
「昔は、恋も遊びの一貫でしたの。でも、それが父上の評判を傷つけかねないと分かった時、そういうものを一切捨てましたわ。噂が沈静化したと思えば、また盛り返してしまいましたけれど」
悔しそうな思いを滲ませながら、桜の君は言う。それから、毅然とした態度で白露に言った。
「ですから、左近の少将殿。私が今後、あなた様にお会いすることはございません」
桜の君が発した言葉を理解するのに、白露は時を要した。
「は?」
間抜けな返事をしてしまった白露を、失笑するように桜の君は言う。
「私が貴女に、本気で想いを寄せるわけないでしょう。私は、天下の悪女ですのよ?」
かつて、恋人を桜の君に奪われた女人達が陰で桜の君を恨んで呼んだ名だ。
白露は信じられないと言わんばかりに、首をゆるゆると振る。
「ありえません」
「ありえるのですわ。今まで、何人の男がそう言って涙を呑んできたことか」
嘲笑うように、桜の君は言う。これが彼女の本性なのだろうか。
「では何故、貴女は中君を私に勧めたのです?本気で私を嫌っているのなら、大切な妹君と恋仲になられたい訳がない。それでも、そうしたのは、私を守るためですか」
「違いますわ」
即答だった。
「貴女は傲慢だ。私を守る為などと偽って、自分を守ろうとする」
桜の君が息を呑むのが分かった。
「傲慢で、何が悪いのです?」
桜の君の声が震えるのを白露は聞き逃さなかった。
「貴女は、私が好きなのでしょう」
「そんなこと」
震える声でそう言った桜の君は、とうとう泣き出した。
「貴方なんて、貴方なんて大嫌いよ。私をこんなに乱す人なんて…」
白露は衝動的に立ち上がると、御簾をめくった。叫びかけた桜の君の唇を自らの唇で塞ぐ。
抵抗する桜の君を胸に抱き寄せ、動きを封じ込める。桜の君が完全に戦意を喪失したのを確認して、白露は唇を離した。
「泣いている姿も、とても魅力的ですよ、桜の君」
白露の胸に顔を埋め、桜の君は動かない。白露はそんな桜の君の頭を優しく撫でる。
見事な黒髪は、邪魔にならない長さに切り揃えられていた。白露は桜の君の顎を持ち上げて、顔を上げさせた。そして、再び口づけを落とす。
唇を離すと、桜の君は顔を真っ赤にして、白露に寄りかかった。
「悪魔の手ほどきを受けたようです…」
桜の君がそう呟くと、白露は声をあげて笑った。
暫く、そのような事を繰り返していると、心配そうな顔つきで部屋に入ってきた紫乃を絶句させた。
当たり前である。未婚の姫君の御簾の中に、勝手に入って良いわけがないのだから。
だが、紫乃はにっこり微笑むと、すごすごと再び奥に戻って行った。
白露が満足したところで、ようやく桜の君は解放された。
「桜の君。次にお会いするのは、吉日ですよ。覚悟を決めておいて下さいね」
そう言って御簾を出て、やがて寝殿の方へ歩き去った白露を見て、桜の君は、幸せそうな笑みを浮かべた。




