朝霧の君
ようやく、久しぶりに内大臣邸を訪れることが出来たのは、宿直明けにたまたま朝霧と夕霧に会ったためである。
二人とも、やつれて覇気がない。
車に乗って帰る時も三人とも泥のように眠り、喋る暇などなかった。
内大臣邸に着き、引きずるような足取りで朝霧の部屋に行く。三人で雑魚寝をし、昼を少し過ぎた頃、ようやく目が覚めた。
先に起きていた夕霧が冷水を白露に差し出した。
「これから、姉上のところに行くのか」
「ああ、そのつもりだ」
桜の君会えなかった二週間は、本当に長く感じた。今すぐにでも桜の君に会って、彼女を抱き締めたい。
残念ながら、それはさせてもらえないだろうが。
「その件なんだが…梓、いや、中君にしてもらえないか」
「中君?」
「妹だ。梓の君とも呼ばれている。姉上にはあまり似ていないが」
白露が顔を強張らせるのを見計らったといわんばかりに、夕霧はトドメを刺す。
「姉上は、諦めろ」
夕霧は、白露が見たこともないほど真剣な顔をしていた。
「桜の君がそう言ったのか?」
白露の声が震える。そうではないことを信じたかった。
「そうだ」
縋るところもない端的な肯定であった。
「まさか」
あまりのことに白露は絶句した。
「姉上が…どんなに酷い仕打ちをされたか、知らない訳ではないだろう」
不意に声をあげたのは、朝霧であった。
眠っていたと思っていたが、しっかりと目を見開らいている。
「だからと言って、桜の君と別れれば彼女はさらに傷つくではないか」
「時が経てば人も、姉上も、お前も…忘れる」
「忘れるか!」
朝霧の胸元を掴みあげるが、朝霧は全く動じない。
目は、恐ろしいほどにまで据わっており、底が読めない。
「俺が…」
低い声で朝霧が言った。
「俺が姉上の幸せを望まないと思うか!そんな訳ないだろう!」
そう吐きすてるように言うと、白露の手を振り払い、床に抑えつける。
綺麗な顔に怒りを滲ませて、今にも泣きそうな傷ついた表情をして、朝霧は白露を見下ろす。
「ふざけるな!」
白露も、負けじと朝霧の直衣を掴みあげた。
まもなく取っ組み合いになった二人を止めようと、夕霧も奮闘したが、左近衛府で一、二を争う優秀な二人の喧嘩に介入できるはずもなく───。
ばたん、と大きな音を出しながら几帳が倒れようが、お互いの唇から出血しようが、そこにいないはずの者の悲鳴を聞くまで、止まらなかった。
お互い、負けられないと思っていた。
「二人とも、おやめなさい!」
その声を聞いた時、白露は一瞬、油断した。
その隙を逃さず、朝霧は鳩尾に拳を入れようとするが、その少しの間に声の主が自らの身体を入れたせいで、白露の代わりにその拳を受けることとなった。
「桜の君!」
「姉上!」
夕霧と朝霧、白露の声が重なる。
支えようと手を伸ばしたが、その前に彼女はくるりと向きを変えて、重心をとり、桧扇で朝霧と白露の頬を立て続けに叩いた。
信じられない早業であった。
だから結局、桜の君を受け止めたのは夕霧であった。
間近に顔を見たのは桜の宴の夜以来のことである。以前のような、生き生きとした笑顔はない。
「桜の君」
最早、理性は働かず、桜の君を腕の中にかき抱く。
「し白露の君!」
桜の君は、腕の中で必死に抵抗するが、ぽかぽかと白露の胸を叩くだけでは、全く効果がない。
白露の気が済むまで、桜の君を抱きしめた後は、顔を茹でダコのようにした桜の君に手当をされ、お説教を受けることになった。
「全く、二人ともいい歳をして取っ組み合いなど、何をしているのです?几帳は倒れるわ、唇から血は流れているわ…私が駆けつけなければ、骨の一本二本折れていてもおかしくないのですよ!」
しょぼん、とすっかり反省気味の白露と対照的に朝霧は不貞腐れた態度である。
「特に朝霧。姉である私に拳を叩き込むなど、何てことですの」
辛辣に言い放つ姉に、朝霧も項垂れた。
「ですが、私を思ってくれたことには感謝しています」
そう言って、朝霧の頭を優しく撫でる。
「姉上」
うるうるとした目を向けられても、桜の君は全く動じない。
もとより、そんな小手先のものは不愉快であって、何の意味もなさないというのは、後から聞いた話だ。
「姉上を大切にしろ。浮気は許さん」
と、夕霧と朝霧にしかめっ面で言われながら、白露と桜の君は、東の対に足を運んだ。




