氷の姫君
その頃、白露の君は左近衛府の同僚達に詰め寄られていた。
「白露の君、あの氷の姫君と恋仲だというのは本当か?」
「氷の姫君?」
訝しげな表情になる白露に、夕霧があっさり答えを明かした。
「姉上のことだ」
夕霧は朝霧の双子の弟である。
朝霧は華やかな太陽のような色男とするならば、こちらは涼やかな北風のような色男である。
どちらも女からの人気が高いが、夕霧は朝霧のように女遊びをしない。
というか、恋人すらいない。興味がないのではなく───どちらかといえば情報通であるのだが───群がってくる女には魅力を感じないのだとか。
本人の好みの趣向も、姉の桜の君のような者だというのだから、単純に良いと思える女子自体がいないのだろうが。
「桜の君のことか。あの方は氷の姫君ではないぞ」
おお、と同僚たちから歓声が上がる。
普段は無表情な夕霧も、今ばかりはにやりと口元を歪めて笑っている。
「いやいや、あの氷の姫をいとも簡単に攻略とは…色男は違うな」
さざ波のような笑いが広がる。
冷やかしながらも、ぞろぞろと持ち場に帰って行く同僚達に背を向けながら、桜の君を想う。
桜の君は、今まで自分が相手にしてきたどんな女よりも白露の心を引いた。
桜の精が人になったような、あの美しい姫。はっとして、頭をぶんぶんと横に振る。
彼女のことばかりを考えていた自分が恥ずかしい。珍しく頬を赤く染めながら、白露は仕事に戻った。
その夜。
言葉通り、白露の君はやって来た。
桜の君はお気に入りの桜の袿を着て白露の君を待った。小袿を着ようかと迷ったが、やはりくつろいだ五衣に留めた。
御簾を通して会うのが何とも惜しかったが、それが普通であって昨日が異常なのである。
「桜の君。昨日は失礼致しました」
まだあどけないと言っても、白露の君は同い年の朝霧よりずっと大人びている。
「お気になさらず」
沈黙が流れるが、居心地の悪いものではなかった。
「今日は…ずっと貴女のことが頭から離れませんでした」
思わず顔が火照る。
「わたくしも…貴方のことばかり考えていましたわ」
はっとしたように顔を上げる白露の君の顔は、喜びがかくしきれていない。
白い涼やかな袍は今日のような暑い日は紗の素材を使っているので、下に重ねた袙の紅が透けて見える。
その艶やかな出で立ちに、桜の君はふう、とため息をもらす。
「白露様は…私のどこがお気に召されましたの?巷では氷の姫などと呼ばれる、冷たい私などに」
白露は不思議そうに桜の君を見つめて笑った。
「昨日の貴女をどう見れば氷の姫などと思うのでしょうか」
桜の君は思いがけない言葉に、微笑した。
「では、昨夜の私は…どう見えましたの?」
「素直で可愛い女人に見えました」
「嬉しゅうございます」
溢れんばかりの頬笑みを浮かべた桜の君は、どんなに美しい女でも敵わないに違いなかった。
「貴女の笑った顔を間近で見てみたい。御簾越しでは、よく見れませんから」
柔らかな笑い声が響く。
「白露様は大胆ですのね」
「え…?」
指摘されてから気づいたのだが、白露は桜の君に「御簾の中に入れろ」と言ったようなものだったのだ。
「いえ、それは…」
慌てて否定する白露を見て、ほほほ、と優雅に笑う桜の君を白露は好ましく思った。
桜の君は同僚達が言うような、顔色一つ変えない気位の高い姫ではない。
そう、むしろ親しみやすいのではないか。
ふと、空を仰ぎ見れば山の端が白くなり始めていた。
「そろそろ、夜が更けます。また後日、お伺いします」
「お待ちしておりますわ」
嬉しそうに白露を見送る桜の君ほど、白露が惹かれるものはなかった。




