桜の散る頃
桜の君が白露の君と結婚して、三年の月日が過ぎようとしていた。
結婚後は内大臣邸を離れ、北の方として白露の邸で暮らしている桜の君、改め、桜の上は久しぶりに里帰りをしていた。
白露は二条の一角に邸を構えており、とりわけ大きい訳ではないが、大納言を父とする彼は年齢の割には随分と豪華な邸だった。
桜の上は、自らのふくらんだ腹を見つめ、愛おしそうに優しく撫でる。
三年間かけて白露と父、双子の弟を説得することにようやく成功した。
理由は、もちろん分かっている。
桜の上は代々の血筋のせいで、子を産むと命は長くないと言われる。現に、伯母や祖母がそうだったし、今までに往生したという者はただの一人もいない。
当初、桜の上はどうしても子が欲しいと泣き落とすつもりでいたのだが、結局は持ち前の話術で論破したのだった。
「私が子を産めば死ぬと随分と騒いでいるけれど、実際は分からないじゃない。そんなに死んで欲しいのかしら」
「お方様を案じてのことですよ」
と、苦笑して言ったのは紫乃である。
「父上などは子を堕ろせなどと叫んだのよ。全く、やや子が可哀想だわ」
口調とは裏腹に、桜の上の顔は穏やかで嬉しそうだった。
「臨月とはいえ、やや子は生まれてくる気配が全くないわね。私に会いたくはないのかえ」
「その方が安産になります。きっと、良い御子になりますわね」
うきうきと言う紫乃は、既に三児の母となっている。桜の上が妊娠している子は、紫乃が乳母を務めることになっているが、桜の上は自らの手で育てたいと思っているらしく、ぷいと顔を背ける。
「私は長くない。ならば、生きている間は我が子を自らの手で育てたいと思うのが普通ではないの?乳母じゃないと認めないなどと愚かしい考えをするのかしら」
本当に悲しそうに、悔しそうに桜の上は言った。
「私はこの子しか産めないわ。だから、この子に忘れられたくない」
珍しく我儘で子供染みたことを桜の上が言った。だが、それは彼女の本心であるし、どの母親でもそう思うだろう。自らを忘れて欲しいなどと思う母親は滅多にいない。
「ですが、長生きする事が一番でしょう。さすれば、御子様とも長く過ごすこともできるし、その成長も見届けることもできるかもしれないではありませんか」
「………。」
長い沈黙の後、桜の上は儚げに笑った。
「そうは言っても、私は長くは生きれないわ。自分のことくらい、誰よりもよく分かっているつもりよ」
ぽたり、と雫が桜の上の頬を伝う。
「どうして、私が長女なのかしらね」
紫乃は、桜の上を黙って見つめることしか出来なかった。
「中君が、梓が羨ましくて仕方ないわ」
中君である妹の梓も、白露に好意を寄せていた。結果として桜の上が北の方に収まったが、梓でも何の不足もない、それどころか桜の上よりもふさわしかった。
子を産んでも長生きできる可能性は高いし、北の方としての務めもしっかりと果たせる。
「辛気臭い話は終わり!」
パン、と膝を叩き、桜の上はまた微笑みを浮かべる。
「私にはこの子だけで十分だわ」
桜の上が産気づいたのは、そらから三日と経たなかった。
白露達の不安は的中し、桜の上は一日経っても出産を終えることはできなかった。
祈祷が行われ、薬師と産婆が必死に処置をしていたが、それでも生まれる気配はない。
それどころか、桜の上は日に日にやつれていくのが目に見えてわかった。
白露が我慢ならない、といった体で桜の上の元に駆けつけると、桜の君の顔は蒼白で苦痛に顔を歪めていた。
「ああ、上!」
白露の叫びにも、曖昧な笑みを浮かべるだけで声は出ない。
桜の上の手を握りしめた白露は、泣くのを必死に堪えるのが精一杯だった。
「だから、あんなに止めたのに…!」
「……殿」
喘ぐ合間に桜の上は言葉を紡ぐ。
「やや子を絶対に大切にしてください」
「貴方は父親になるのです、しっかりして下さいませ」
「私は必ずこの子を生みます。ご心配なさらぬように」
などと、必死に白露だけでなく自らにも言い聞かせるように言った。
その甲斐あってか、桜の上は無事に姫君を出産した。間違いなく桜の上の血を継いでいるのが一目でわかる美貌の持ち主で、黒真珠のような、くりくりとした可愛らしい鮮やかな瞳、ふっくらとした桃のように赤い頬、あどけない寝顔を武器にした姫君は、一瞬にして白露や内大臣をはじめ、朝霧や夕霧の心を鷲掴みにした。
桜の上も肥立ちは良く、健康は徐々に回復の兆しが見えてきた。もちろん、自らの手で育てたいという桜の上の願いは、到底叶う見込みはなかったが。
「我が娘ながら、本当に可愛いですわね」
桜の上を訪れていた白露と、紫蘭の君と呼ばれる愛娘、麻子を二人であやしていた。
「貴女にそっくりですよ」
「あら、口元は殿に似ておりますわ」
などと、姫君の顔立ちについて様々な批評をしているうちに、当の本人は眠ってしまった。
「殿」
不意に桜の上が白露にもたれかかった。
「私に、遺伝はないのかもしれませんわ」
そう言って、自身の腹を見つめる。
「伯母や祖母は元から病弱でしたが、私は生まれつき健康でしたから。難産ではありましたけど」
「そうかもしれませんね」
この話は終わりだ、とでも言うような白露を無視して、桜の上はぽつりと呟いた。
「…懐妊しましたの」
白露は目をまん丸にしている。
よほど驚いたのだろう。
「お腹の子が最後です。男の子が産めなければ、何があろうと、愛人を作ってください」
「上…!」
「ごめんなさい。でも、授かったものは大切にするつもりですから」
桜の上は、以前のような冷たさは影を潜め、穏やかな表情が多くなっていた。
そして今は、母親の表情をしている。
「直霧」
「は?」
「もし、男の子が生まれたら、仮名にしてください 」
「上がつけてください」
「麻子が生まれた時のように、多分、しばらくは抱けません。ですが、仮名がないと女房達が困るでしょう?」
白露は心配そうに桜の上を見る。
「本当に、本当にこれが最後ですよ」
白露の言葉に桜の上はにっこりと微笑んだ。




