お人好し
走り続けた白猫がようやく金魚を解放したのは橋の下に生えた雑木の影に着いてからだった。
「これでもう追って来ないだろう」
「そうですね」
宙に浮き、金魚が答える。横腹にひびのような傷が入っているのは先程、割れた鱗の痕で牙が肉深く食い込まなかったお陰で血は出ていない。
(一思いにやればよかった)
そうすればここまで逃げる必要なんて無かったというのに。
白猫はため息を吐いた。
(まぁ、もう邪魔は入らないだろう)
「じゃあ、改めて――っておい」
「ハッ、す、すいません!」
ふらふら、彷徨とした表情で引き寄せられるようにいつの間にか流れる川に近づいていた金魚。白猫の声に正気を取り戻したらしい金魚は慌てて白猫の目の前に戻って来た。
今から喰われるというのに恐怖も緊張も捨てて、それ以上に水が気になるようでちらちらと視線を向ける金魚に白猫はため息交じりに問う。
きっと、これは興がそがれた故の行動なのだろう。
「なぁ、何で魚は空魚になったんだ? お前みたいに水が恋しくて降りてくるぐらいならなる必要無かったんじゃないか?」
金魚は困ったように笑った。
「私は例外ですよ。私は生まれながらに空魚だったので、水で暮らしていた方に話を聞いて憧れたんです。水ってどんな所なんだろうって。空魚が生まれた経緯は地上では語られていないんですか?」
「聞いた事がない」
「そうですか。なら、お答えしますね。といっても、私が生まれる前の話なので大した内容を知っている訳じゃないんですけど、正しく言えるのは空魚が生まれたのは水神様の力によるものということです」
「えっ、神が関係してんの?」
「はい。私が聴いて育った話ですが……」
そう言って金魚は昔話を語り出した。
昔、とある魚が兄弟を人に喰われて失った。その魚は水神に仕える御使いであり、小さくとも働き者の魚は水神のお気に入りだった。しかし、兄弟を失った悲しみから魚は病み、遂に息絶えた。それを哀れに思った水神は二度と同じ悲しみを生み出さないようにと魚を空に上げた。
「こうして、魚は空魚になったそうです。ただ魚は本来水に住む生き物。それが水から出て生きるという事は最早、別の生き物と同じ。先程も言いましたが、一度、捨てた場所に戻る事は赦されないみたいで弾かれてしまうのです」
「はぁ……」
なんと壮大な話だ。まさにお伽話な事情に白猫は反応に困った。故にふと思った事を口にする。
「なら、水神に頼めば水に戻してくれるんじゃねぇの?」
金魚は哀しげに目を伏せ、顔を横に振った。
「確かに会えれば可能かもしれませんね。しかし、水神様は深い水の底にある社で暮らしております。場所も分かりませんし、そもそも水に入れない私では会いに行けなのです」
「ふーん。なら、他の神に頼んで会いたいって伝えて貰えば?」
「えっ?」
「ん?」
何かおかしな事を言ってしまっただろうか。
水神は場所も分からない水の中。水に弾かれるという金魚は会いに行けず、勿論、水中で呼吸できない白猫も論外。しかし、同じ神ならば場所が分からずとも持ち前の神通力で探せるだろうし、たかが伝言を伝えるのは簡単な筈。
そう思っての発言だった。ただ思い付きで喋るというのは代償が高い。
その事に首を傾げていた白猫か気付いたのは金魚の驚愕に相応しい表情がキラキラと希望に満ちた表情に変わるのを目の当たりにした時だった。
(あっ、俺は今、確実に余計な事を言ったわ)
時、既に遅し。
金魚は興奮した様子で白猫に近づいた。
「素晴らしいです、猫さん! 私、そんな事に気付きもしませんでした。そうですよね。同じ神様なら水神様に会える筈ですよね。問題は協力してもらえるかどうかですけど、専心誠意、お願いすれば引き受けて下さる神様も居る筈です」
「えっ、お……」
「そうと分かれば早速、神様を探しましょう。猫さん、どうか私に協力して下さい。この辺りに社はありますか?」
今にも飛び出しそうな勢いで金魚は問う。対して白猫はコイツ、馬鹿だと呆れていた。
「ちょっと、待てって。お前、俺に喰われたいんだろ。喰っていいんだろ。そんな事を言われても困る」
「あっ……」
ハッと己の身を差し出した事実を思い出したのか、金魚は固まる。そして、急速にしおらしくなった。
「そうですよね。急に話を変えて迷惑ですね。馬鹿ですね、私……ごめんなさい、猫さん」
「でも」と今度は挑むように金魚は続ける。
「約束から逃げるつもりもありません。ですが、私は僅かな可能性に賭けてみたい。どうか、猫さん。私に時間を下さいませんか?」
(コイツ、本当に馬鹿だ)
何故、己の命を奪う相手に懇願するのだ。絶対に懇願する相手を間違っていると思う。
餌に情けをかけるなんて馬鹿らしい。例えば本当に願いが叶ったとして金魚が空や水の中へ逃げない保証が何処に在る。頼みなど聞かずにそのまま一思いに喰らってしまえばいいのだ。
(きっと、それが正しい。俺は喰らう側、あっちは喰われる側。どうなろうと自然の摂理というやつだろう。しかしなぁ……)
未だ真剣な眼差しで見据えてくる金魚に居心地の悪さを感じる。何というか、このまま喰らってしまう事を申し訳なく、喰らったとしても美味しく感じるのか自信が無い。所謂、良心が痛むというやつだ。
ここで白猫は今日、何度目かになるため息を吐いた。
「俺はお前を喰らうぞ」
「はい」
「例え、お前の願いが叶わなくても喰らう」
「はい。お約束致します。私は必ず猫さんに食べられます」
「お人好し」もしもこの場に虎猫が居たならばそう白猫を馬鹿にした事だろう。けれど、仕方がないではないか。乗りかかった船だ。金魚の味を知るのは全てが終わった後でも遅くない。
「いいだろう。お前に時間をやる。協力もしよう」
「ありがとうございます! では、早速社に――」
「その前に!」
白猫の大声に身を翻しかけた金魚の動きが止まる。白猫は少し下を向いた。
「朝から何も食べてないんだ。食事を先にさせろ……」
弱った声と同時にぐぅと腹が鳴った。