味
「見ての通り、私は空から降りて来た金魚です。空で生まれ、空に生き、空で死ぬ空魚の一匹です。けれど、空魚とはいえ、故郷は水。せめて一度でもこの身で水中を泳ぎたいと夢見て降りて来たのですが、水が私を拒絶するのです」
白猫の頭がようやく現実に戻って来た頃、金魚はそう語り始めた。
前ひれで目を多い、目の前で泣く金魚に白猫はまるで自分が泣かせているみたいで居心地が悪いと思いながら黙って話を聞いてやる。
「ずっと憧れていました。けれど、川も水たまりも水瓶の水でさえ私を拒絶します。いざ、入ろうとすると弾かれてしまうのです。今日、この井戸で駄目ならば死のうと思っていました。そこへ猫さんがやって来たのです」
金魚は前ひれを胸の前で重ねる。
「お願いします、猫さん。私はもう絶望しました。空に帰っても悲しみで生きていける気がしません。どうか私を食べて下さい」
「落ち着け。取り敢えず、事情は理解した」
金魚が目の前に居る。これは夢か幻か。いや、現実だ。
未だに混乱している頭を振った白猫は落ち着く為に息を吐く。
つまりだ。金魚は水に戻りたいと願ったが、叶わないことに絶望し死のうとした。そこに白猫がやって来て今に至るという訳だ。
魚を喰いたいと思っていた白猫には好都合な展開。逃せば次は無いだろう。
(ただな……)
白猫はジッと此方を見据え続けている金魚に視線を落とす。
白に紅が滲み、波打つような線が入った身体、揺れる尾ひれは透き通るように薄くどんな味がするのか気になて仕方がない。しかし、今までの獲物は全て、逃げ惑うものを捕まえたものばかりだ。自ら喰らえと身を差し出して来る馬鹿は居なかった。思わず、本当に喰らっていいのか躊躇いを感じてしまう。
「お願いです、猫さん!」
「お、おう……」
金魚の懇願は止まらない。更に近づいて来た金魚から仄かに水の香りが混じった血肉を持つ獲物の香しい芳香に白猫は「まぁ、本人がいいならいいか」と躊躇いを投げ捨てた。
これは願っても無い好機だ。何度も言うが、逃せば次があるなんて保証は無い。自分は運が良い。つい先程、虎猫に馬鹿にされた事を思い出し「ざまぁみろ」と心の中で言い返した。
「分かった。そこまで言うなら喰らってやるよ。ただし、動くなよ」
白猫は舌を出すと味見とばかりに金魚を舐め上げた。
「ひゃあ⁉」
ざらついた生温かい感触に金魚は小さな悲鳴を上げて、宙で反転した。
「動くなよ。喰いにくい」
「す、すいません。鱗に引っ掛かったもので……」
「鱗?」
「これですよ。この私の身体を覆っているキラキラした膜の事です。硬いんですけど人間で言う着物、いえ鎧のようなものですね」
「ふーん」
不思議な生き物だ。ぜひ味わってみようじゃないか。
白猫は金魚に噛みついた。弾くような弾力に確かに牙を通さんとする隔たりを感じた。
(あぁ、確かに少し硬い……)
だが、破れない程ではない。顎に力を込める。すると、自然と牙の食い込む圧が強まる。
パキリ、鱗を破る音と金魚が苦痛に身をよじるのはほぼ同時だった。
「いっ――!」
「こらっ!」
「⁉」
唐突に響いた人間の声に白猫は驚き思わず、金魚を放した。
地面に落ちた金魚に構わず、声がした屋敷の方を見ると屋敷の奉公人らしき女が廊下に立ち、此方を睨みつけていた。
「猫が入り込んでいい場所じゃないよ。とっとと出てお行き!」
「チッ」
邪魔が入った。害ある何かをしたという訳でも無いのに直ぐに怒鳴る。これだから、人は嫌なのだ。
白猫は金魚を銜えると、逃げた。女は白猫が銜えた金魚に気付いたようで何か目の色を変えた様子で追いかけようとしてきたが、知った事では無い。
「猫さん、何処に行くのですか?」
「黙ってろ」
兎に角、邪魔の入らない静かな所へ。
白猫はなるべく人気の無い路地を通り、影に隠れるようにして街を駆けた。