金魚
橋から見下ろす川には魚の影一つ無い。目に付くのは無邪気に川遊びを楽しむ子供だ。水中から引っ張り出したゲンゴロウを捕まえては濡れるのも構わず、友達と跳ねまわっている。
「まぁ、無駄足だよな」
結果は分かっていた。空を見上げれば直ぐに魚を見て取れる。
かつて、魚はもう水辺の生き物だったという。魚は水が恋しくないのだろうか。
ふと、白猫はそんな事を思う。そして、直ぐに「何を馬鹿な」と思い直す。
必要でなくなったから帰って来ない。人や猫といった外敵の手の届かない空は魚にとって安寧の地。そこから態々、降りてこようなどと酔狂な奴は居ないだろう。
ふぅ、ため息を吐けば尻尾も下がる。
(やはり、無理なのだろうか。魚を喰う事は……)
「無理」と笑った虎猫の顔が浮かぶ。次に会えば、「ほら、言った通りだったろ」と言う姿が容易に想像できて眉を顰める。
いっそ漁で寄って来た魚を横取りしてやろうか。そこまで考えて、不意に腹が鳴った。そう言えば、朝から寝てばかりで何も食べていない。
「仕方がない。腹を満たすのが先か……」
白猫は立ち上がると、手擦りに沿って器用に人の間を通って適当な狩場へ向かう。縁の下や屋根裏もそうだが、日の辺りにくい場所は鼠の恰好の住処だ。
白猫は目に留まった呉服屋の角を曲がり、その裏手の路地にある壁の隙間から呉服屋の裏庭へ入り込んだ。
椿の木が一本と背の低い木々が植えられている廊下と面した庭だ。井戸があるせいか少しだけ空気が涼しく感じる。
人気は無い。縁の下は目の前だ。白猫は歩を進めた。その時だった。
「あの……」
「っ!」
人かと身構える。しかし、見渡す限り人気は無い。
「此方です」
言われて、声のする方に視線を向ける。井戸の直ぐ横に立て掛けられていた桶の影。そこから声の主は姿を現した。
白猫は息を呑み、固まる。何故、こんな所にと思わずにはいられない。
小さな赤、尾ひれも赤い金魚がそこには居た。
「貴方は猫さん、ですよね?」
おずおずと金魚が問う。
「あぁ、そうだが……」
条件反射。混乱した頭で頷く。すると、「良かった」と金魚は笑った。
「猫さん。いきなりで驚かせてしまってごめんなさい。実は頼みがあるんです」
「頼み?」
「はい」
頷いた金魚は白猫の側に寄る。目と鼻の先、襲えば一口で殺れるだろう位置に寄って来るものだから更に驚く。
金魚はパクパクと小さな口を開いた。
「どうか、猫さん。私を食べて下さいませんか?」
「…………は?」
これは幻か。魚を喰いたいと夢見た自分が創り出した幻。
たっぷり間を取って呆ける。その間も金魚は「お願いです」と懇願するのだった。