喰らう
白猫が南坂の社の方角へ振り向くと、随分と社は遠くなっていた。
真夜中で良かった。今まで駆けた間に人には一度も会っていない。道の灯りは無く、月光のみが足元を照らしている。金魚を隠す必要も無い。
「おい、次の角を左に曲がれ。そしたら、橋が見えて来る」
「分かりました」
案外、疲れを知らないというか体力馬鹿なのか前を行く金魚は息も上がっていない。
「もう直ぐ終わりだな」
どんな反応をするのか。
そう声をかけてみた。すると、金魚は直ぐに「はい」と頷いた。
橋が見えた。二匹は橋の手前で立ち止まり、その横、ひんやりと湿気を含んだ草が生い茂った土手を降りた。
目の前に川が広がる。白猫と金魚の終わりの地。夜を写した流れは暗く、月光を照り返す水面が眩しいと感じた。
「猫さん」
金魚が呼ぶ。白猫はゆっくりと金魚を見下ろす。
「少しだけ、お話を聞いて下さい」
「何だ。今更、約束を守らないのは無しだぞ」
「ふふっ、そんな薄情な話じゃないですよ。真面目に聞いて下さい」
「……何だよ」
「ありがとう、猫さん」
唐突な礼に白猫は一瞬、目を剥くが、直ぐにもとに戻った。
「急に何だ」
「私の願いは此処で叶います。これは猫さんのお陰です。猫さんが居なければ私は此処まで辿り着けなかった。だから、ありがとう、猫さん。私は貴方と友人になれて良かった」
「友人なもんか。友人は友人を喰らったりしない」
「友人ですよ。少なくとも私はそうずっと思ってます」
「ほんと、変な奴」
「ふふっ、それで構いません。私の次は貴方の願いが叶う番です」
どうしてそういう事を普通に言ってしまうのか。
金魚が自分で言った言葉の意味をどう思っているのか白猫が分からないまま、金魚は笑った。
「行ってきます」
「あぁ、行って来い」
「はい」
頷いて金魚は川へ向かった。
横びれを恐る恐る水に近づける。また拒絶されるのが恐いのだろう。けれど、それは杞憂で水は簡単に金魚を受け入れた。
「っ! 入れました。入れましたよ、猫さん!」
黙って見守っていた白猫に金魚は叫ぶ。
「おーじゃあ、次は尾ひれだ」
恐れは何処かにやってしまったらしい金魚は興奮気味に尾ひれも水に浸ける。それも水はすんなりと受け入れた。
後は身体を沈めるだけだ。金魚は目を瞑り、次の瞬間、一気に身体を水に沈めた。
冷たい。それが最初の感想。そして、ゆっくりと目を開け、その目の前に広がる光景に息を呑んだ。
身を包み込む水は透明で流れは優し気なそよ風のように鱗を撫で、草を、尾ひれを揺らす。下にある石は岸に上げられた石よりも黒々としていて所々に藻が蔓延り、水面から差し込む月光がまるで天の川のように何処までも続いていて、水中を煌めかせている。
(美しい。これが、私の故郷)
夢に見た水の世界。一匹で見るには勿体無い。
「ぷはっ、猫さん。中を見て下さい、凄いです!」
水から顔を出し、白猫を呼ぶ。
白猫は露骨に嫌そうな顔を浮かべた。
「嫌だよ。俺、水嫌いだし。水神の所でこりごりだ」
「そんな事、言わずに。本当に綺麗で凄いんですよ!」
「へーそうなんだ」
「そうなんです!」
気のない返事に対して騒がしい金魚に白猫はため息を吐いた。
「兎に角、嫌だから。お前だけで楽しめ」
「もう!」
ようやく諦めたらしい。金魚は水飛沫を上げて水中に戻った。それから、何度も顔を上げては白猫に水中の事を楽し気に報告して来る。
もっと、自分の事に水中に集中すればいいのにと思うが、言ってもどうせ聞かないので白猫は適当に相槌を打つばかり。
(跳ねて、踊って……)
魚が水を纏っている。上がってくる度に跳ねた水飛沫と潤いに満ちた身体は金魚の元気さも相まってキラキラ輝いて見える。これが、空魚が生まれる以前までは普通の光景だったのだろうか。
「ほんと、嬉しそうだな」
少しだけ頬を綻ばせた白猫は呟いた。金魚は水中。白猫の呟きは届かない。
気が済むまで、気の向くままに。
回転してみたり、底に沈んだ石に鼻を近づけてみたり。流れに逆らい、流れに乗って。やりたかった事をめいいっぱいに金魚は楽しんでいた。
「私、今凄く幸せ」
藤虎の店で見た天井のように揺れる水面を見上げ、金魚は笑う。偽物じゃない。本物の水の世界に金魚は心の底から嬉しそうに、幸せ者だと笑う。
ただ、ようやく故郷に戻った金魚はやはり魚ではなく、空魚であった。
(えっ?)
この時、金魚は何一つ気が付いていなかった。地上にあって水中に無いと考える方がおかしいのだ。
世は常に喰う側と喰われる側が存在している。理の輪の中に戻った金魚にそれが適用されない筈が無い。
影が金魚を覆う。金魚と同じくらいの大きさのそれは唐突に現れ、金魚を包み込んだ。
金魚は気付く。今、自分は喰われる立場に居る。それにようやく気付いたのは身体を裂くような激痛が走った時だった。
(おかしい)
金魚が上がって来なくなった。てっきり、泳ぐことに集中しているのかと思った。だが、頻繁顔を出していた金魚がもう数分出て来ていない。
「おーい、気が済んだら出て来いよ」
声をかけたが、返事は無い。聞こえていないのかもしれない。そう思った時に水面が不自然に揺らめいた気がした。
(何だ、今凄く嫌な感じが……)
水面に目を凝らす。すると、薄ら金魚の赤が見えたホッとしたのも束の間。その赤い身体に何か黒い影が張り付いているのに気付いた。
影は金魚を底の方へ引きずり込もうとしている。
「おい、金魚!」
堪らず、金魚は水に飛び込んだ。川は思いのほか深く、川岸の方で白猫の胸の高さはある。幸いにも金魚が居る場所はその程度の深さで済んでいるが、石の踏み場を間違えばあっという間に川の流れに足を盗られて溺れてしまうだろう。
「何処だ、何処に……!」
暗い水面にもう一度、目を凝らす。
(其処か)
見付けた。白猫は迷いなく水に顔を突っ込んだ。そして、予想外の邪魔に対処出来なかったのか金魚から離れなかった影に噛み付いた。
(くそ、なかなか離れねぇ。何なんだ、こいつ)
噛み付かれ、命の危機があるというのにそれは全く金魚を放そうとしない。金魚が衰弱していくのが視界の端に映る。
(くそっ!)
白猫は影ごと金魚を水中から引き揚げた。すると、水に遮断されていた声が白猫に聞こえた。
「殺す。お前らのせいで、お前らの……」
口の中の影の声だ。恨みの籠った身の毛のよだつ声。
今直ぐに口から吐き出したい感情に襲われるが、此処で金魚ごと放り出す訳にはいかない。白猫は岸に戻ると顎に全力の力を込めて影に牙を付き立てた。「ぎゃっ」と悲鳴が上がり、緩んだ腕から金魚が地に解放された。
白猫は影を放り投げた。そして、ようやく影の正体を知った。
川ではよく見る奴だ。朝も人の子に遊ばれていた水辺の生き物。ゲンゴロウだった。
「おい、しっかりしろ。おい、金魚!」
「ね、猫さん……」
力なく横たわった金魚だが、なんとか意識は保っている。だが、横腹に深い刺し傷があった。血が流れている。止まる様子は全くない。
白猫は怒りで震えた。
「お前らのせいだ」
息も絶え絶えにゲンゴロウが言った。
「餌のお前らが空に逃げなければ俺は家族を、仲間を、喰らわずに済んだのに。死ね、俺らのことを考えもしなかった水神もお前らなんて……死ねば……殺す……俺がころ――」
「ちょっと黙ってろ」
白猫は容赦なくゲンゴロウを踏み潰した。辺りが静かになった。ゲンゴロウを見れば息絶えている。
「糞虫が。おい、金魚。しっかりしろ!」
吐き捨てて、白猫は金魚を覗き込んだ。金魚は上手く息を吸い込めないのか、苦し気に口を動かしている。
金魚は加護が外れ、地上では生きられない。水中の中でなければ息も出来ない。
水中に戻さねばと白猫は咄嗟に金魚を運ぼうとする。しかし、それは叶わない。水面が蠢いている。異様に不快に。恐れる程に。
水飛沫が幾つも上がった。姿を見せたのはゲンゴロウや他の水の生き物だ。アイツらは待っているのだ。餌であり、恨みの対象である金魚が水中に来るのを。
これでは金魚を水中に戻すのは無理だ。
「何なんだ、アイツら。気持ち悪い。おい、取り敢えず、逃げるぞ」
白猫は金魚を拾い上げようと顔を近付けた。
不意に金魚が笑った。白猫の顔が止まる。
「何で笑うんだ。お前今、死にそうなんだぞ」
死相の見える顔。それでも、金魚の白猫を映す瞳の光は衰えない。金魚はか細い声で白猫を呼ぶ。
「猫さん」
「何だ?」
「私を食べて下さい」
時が止まったかと思った。一瞬の間の後、白猫は口を開く。
「今、それを此処で言うのか」
ふざけるな。
「俺が喰いたかったのは完璧なお前だ。誰かに傷付けられて弱ったお前なんかじゃない!」
白猫は怒りで毛を逆立てた。牙を剥き出し、怒りの形相で金魚に怒鳴るが、金魚は怯えるどころか微笑むばかり。
「ごめんなさい、猫さん。でも、私、満足なんです。一度は絶望したのが嘘みたいに夢を叶えて見たかったものを見て、感じたかったものを感じて凄く、凄く幸福で満たされてる。でも、死んでしまったらそれが抜け落ちてしまう気がするんです」
「土地神のところに戻れば傷ぐらい直ぐに治る」
「そうかもしれません。でも、私は其処まで持たない。自分の命の終わりくらい分かります」
流れ出る血は金魚の命そのもの。既に大量の血が流れ出ている。小さな身体にどれだけの時間が残されているかなんて白猫だって本当は分かっている。ただ、それを白猫は認めたくないのだ。
認めてしまえば白猫は金魚を喰らうしかない。約束でそれが白猫の願いだ。しかし、それを否定したい思いが白猫の中には在った。
(何で、今更……)
こんな思いを知らないとならないのだ。何故、今になって気付いてしまったのだ。幼い頃、初めての狩りで捕らえた鼠にだって憐れむ気持ちはあれどこんな感情は無かったというのに。
「きっと私は今が一番、美味しいです。アッチで騒いでる方々にじゃない。私は猫さん……喰われるなら貴方に全部渡したい。私は貴方の血肉になりたい。だから――」
白猫の気持ちを知らない金魚は言葉を続ける。
白猫は金魚と長く一緒に居すぎた。喰らう側と喰らわれる側。対極な間柄だというに深く関わり過ぎた。互いを知り過ぎた。
故に、これはきっと――
「猫さん、私を食べて」
情が移ったというべきなのだろう。
「お前は酷い奴だ」
白猫は困ったように笑った。
「そうですね……だから、猫さんの好きにしていいんですよ」
「そうだな。そうするよ」
白猫は静かに金魚に顔を寄せ、まず、傷を舌で舐めた。濃い血の味は慣れ親しんだ味。ゆっくりと血を呑み込んでから白猫は口を開けた。
「ありがとう、猫さん。大好きです」
バキリと身を裂き、骨を砕いた音が響いた口の中でそんな優しい微かな呟きが聞こえた気がした。