閑話 二神と猫又
「あー酒もまだ残ってんのに行っちまったよ、あいつ等」
駆けて行く二匹の後ろ姿を見送りながら藤虎は言った。笑う藤虎と対照的に半歩後ろでは水神が憂いを帯びた眼差しで二匹を見据えている。
これで良かったのだろうか。自分は間違えたのではないか。不安が募る。しかし、金魚が望んだ事だ。自分が何を思ってももう無駄なことなのだろう。
「良いご決断でしたぞ、水神様」
「土地神」
何処を見てそう言えるのか。呑気に酒を煽っている小柄な初老をジロリと睨めば土地神は静かに語り出した。
「かつて突如として空が魚の世界になった時、儂は驚きました。本来、生き物全ては自分が生きるべき場所が決まっているものです。人が地を歩き、鳥が木に巣を作り、ミミズが土の中で眠る。身体はその者が生きる場所に合わせて相応しいものに変わり、その場所から離れられぬ。一つも例外は無い筈でした。ですが、魚だけは違った。水神様、貴方様が聞き届けた願いによって無理やり変えたのです」
他愛のない昔話だ。かつて、水神は一匹の哀れな魚の願いを叶えた。そうして、生まれたのが空魚という存在だった。
「最早、空魚は水神様の加護故に生き物の在り方も理さえも越えております。金魚が幾ら試しても水に戻れなかったというのはその代償とも言えるでしょうな。そして、貴方のその幼き姿も」
「…………」
水神は居心地悪げに眉を顰めた。幼子の姿は酷く不安定な気持ちになる。昔の姿程、上手く表情を隠せないのが常だ。
土地神はにこやかに問い掛ける。
「かつてのあの艶やかな姿を拝見するのはもう無理でしょうか?」
「恨むぞ、土地神」
「ほほ、勘弁して下され。土地が枯れてしまっては皆が生きていけなくなりますからな」
軽やかに笑う土地神。水神に恨むと言われればもっと怯えるなりすればいいものをやはり神というものは感性がずれている。いや、金魚の魂を寄越して来る馬鹿をやらかすのはこの南坂の土地神くらいだろうからコイツが特別なのだろうと水神はため息を吐いた。
「土地神よ。何故、お前はあの金魚に手を貸した。生きている者の魂を取り出すなんて真似は例え神であろうと褒められる行為ではないぞ」
「水神様は勘違いをなされております。我らは魂など大層なものは取り出していませんよ。正確には写し取った身体に意識を繋げただけです」
「何?」
どういう事だと水神は眉を寄せた。土地神は懐から丸い硝子が付いた黒い板のような物を取り出して水神に差し出した。受け取った水神は初めて見るそれに益々訝しげな表情を見せた。
「これは……?」
「西方の国の物でカメラというそうです。昨年、秋の縁日で藤虎が賭……ごほん、商人から買いまして酒と交換で貰い受けたのです。なかなか、面白い物でしてな。筆を取らずとも辺りの風景も人も紙に写るのです」
「ほぅ……で、これが今回の件と何が関係あるというのだ」
「それは――」
「それはな、魂を写し取るんだよ」
唐突に割って入った藤虎は水神の手からカメラを取り上げると硝子、もといレンズを水神へ向けた。カチッとおはじきを指で弾いたような小さな音と一瞬目が眩みそうな光。「何をする」と水神が怒る前にカメラから吐き出された正方形の紙には藤虎を見上げ、驚いた表情で固まった水神の姿が映っている。
よく出来たものだ。色彩も鮮やかでまるで鏡越しの自分を見ている気分になる。
「よく出来てるだろ、写真って言うんだ。高名な絵師だろうと此処まで完璧には出来ねぇ。で、今回はこれをこう使った」
藤虎は写真に酒をかけ、何か異国の言葉なのか理解出来ない言葉を呟き、手から出した怪火の玉で燃やした。すると、消し炭になった写真の欠片が淡く光を宿し、改めて一つに集まったかと思えば、出来上がったのは水神の姿そのものだった。
人形にしてはあまりに精巧。言葉が出ない。
「……驚いた。まさかあのような奇特な術で此処までとは。これは式神か?」
「式神の一種と言えばそうなのでしょうね。ただ、それは普通の式神と違い、自立活動は出来ませんが、完璧に姿を写し取った謂わば自分自身の模造品。感覚は無理ですが、意識の同調が出来るという一点のみに優れ、数分で身体が薄くなり数刻で自然消滅します。意識が伴えば普通に動けるので制限付きの二つ目の自分の身体に近いです。金魚曰く、物に触れても感触すら無く、視界は白黒らしいですよ。写真は鮮やかなのに不思議な話です」
土地神は一つ息を吐いた。
「今回はこの身体に金魚の意識だけを繋いで貴方のもとに飛ばしました」
「割と大変だったんだぞ。最初は爺と同じように酒を介してしようとしたんだが、アイツ、酒にも弾かれるし、諦めりゃあいいものを、それでも、白猫を助けに行くって聞かねぇし。もう苦肉の策だよ」
「最早、新しい術ではないか。それを金魚の為だけに編み出したと……ははっ、呆れた奴ら。お前達には驚かされる」
そう小さく笑った水神はふと思い出したように問う。
「仮の身体か。ならば、何故あの時、金魚は魂と言ったのだ」
「あぁ、それはな。これに映ると魂が盗られるって言われてんだ。ただの道具だが作った西方の連中と違って疎いこっちの奴らは呪術の道具として使ってるぜ」
あっけらかんとカメラを軽く振りながら藤虎はとんでもない事を言った。
「……お前、よくそんな物を私に平気に使ったな」
「だって、盗られねぇし。言ったろ、魂を写し取る道具って。まぁ、金魚には面白可笑しく魂を盗る道具だって脅したからな。すっかり信じて面白かったよ」
金魚のどんな様子を思い出したのか。クスクス笑う藤虎は相当良い性格をしている。水神にとっては苦手な分類に入る奴だ。もしも、藤虎が水神の社に居たら確実に魚達に総攻撃を受けていたところだろう。水神の事が大好きな魚達は決して水神の側に不快なものを置くことを赦さないのだ。
今は社の外だ。嫌悪を隠さないまま藤虎から身を引く水神。
「何はともあれ、金魚は運が良い。何時死んでもおかしくない地上であの白猫に出会った事は幸運で運命とも言えるでしょう。もともとあの白猫の持つ縁の力は強い。望むままに儂らを金魚に結び付け、挙句に貴方の心までも動かした。金魚は白猫と共に在る限り、確実に願いを叶える術を得ていました。まぁ、選択によっては失敗もしていたでしょうが」
酒を煽った土地神の普通そのもの。話の合間に吞んでいたのだ。敷物の上に転がる酒瓶の数も見て相当呑んでいると思われるがまだまだ酔うには遠いらしい。
「白猫か……」
「おや、どうかなされましたか。そのような顔をして」
困った泣き顔のような暗い表情をした水神を土地神は見逃さない。土地神は珍しいものでも見たという風に目を丸めて水神を見つめる。
「土地神、私は白猫が嫌いだ。心の底から嫌悪してならない。けれど、私はアイツに見抜かれた」
――どれだけ罵ろうと結局、神って存在は自分よりも非力なものに対して慈悲深く、そして、弱い
息を吐く。乱された心を落ち着ける為に目を瞑る。
「昔、私は似たような事を言われた。その時、私に言った奴は私に重荷を背負わせてしまう事を死ぬ瀬戸際まで憂いていたが、決して願いを取り止めようとはしなかったよ」
「それは……」
何と言っていいのか言葉に詰まっている様子の土地神に水神は向き直る。
「土地神、我らは神だ。これは決して覆らない。私は改めて今日、それを思い知ったよ」
遠く、もう姿が見えない二匹が去った先を水神は見据える。
白猫が勝ち取った結果、金魚は願いを叶える権利を得て、水神はそれを赦した。あの二匹の結末は一体何処に辿り着くのだろうか。
「ふむ……なぁ、水神」
「なん――っ!?」
藤虎に呼ばれて振り向けばいきなり口の中に箸で料理を突っ込まれた。丁度よく茹で上げた、ほうれん草と甘い醤油の香り。仄かに香ばしく感じるのは胡麻が使われているからだ。
「っく、何をするか、猫又の分際で!」
水に沈めてやろうか。
呑み込んで、水神は藤虎を睨み付けて怒鳴った。しかし、藤虎は気にしない。
「そんな思い詰めんな。物事は簡単に考えた方が楽しく生きれるぞ。食って忘れろ、幸い此処には俺が手塩にかけて作った料理があるんだ」
「はぁ? 誰がお前の料理など口にするか!」
「もう一口は食っただろ」
「それはお前がっ!」
「ほれ」
「っ!?」
またしても、料理を口に突っ込まれた。今度は里芋の煮物だ。
神をも恐れぬ蛮行である。神に暴言を吐く白猫も大概だが、藤虎はその上をいく。
「怒鳴る事に口使うくらいなら美味いもん食う事に使いな。あっ、ついでに俺の嫁の話を聞くか? ちんちくりんのお前と違って良い女なんだぜ」
「知るか!」
「ん? まだ怒鳴るか」
「止めろ、その箸を下ろせ!」
騒がしい宴会だ。先程の重くなりつつあった空気が一変し、まるで父親が子供を構い倒すような光景に土地神はただ笑うしかなかった。