賭け
「本当に礼儀を知らぬな。余程、死にたいと見える。我の社で不浄が出るのは嫌だったから助けてやったというのに……あのまま溺れさせた方が良かったらしい」
「おいおい。お前が原因で此処に居るってんのに随分な言い草じゃねぇか」
「お前が勝手に付いて来たんだろう」
吐き捨てるように水神は言った。
「まぁいい。これでは話が進まん。おい、猫。お前に聞きたい事がある」
先に視線を外したのは水神だった。一度、頭を振ってため息を吐いた水神は改めて白猫を見据えた。
神からの問い掛け。一つ言葉を間違えば命を取られてもおかしくない。
「何故、あの金魚はああも水に帰りたがる。そして、お前は何故、金魚の手助けをする。お前は金魚の敵だろう。だというのに金魚はお前を友人と呼ぶ。理解に苦しむ」
不思議だ。辺りは優雅でゆったりとした流れに満ちているというのに耳に響く言葉一つ一つに威圧を感じる。水神と最初に会った時と同じ感覚だ。しっかり腹に力を入れていないと瞬く間にのまれてしまいそうだ。
なめるな。白猫はぎりっと奥歯を噛み締める。そして、ニヤリと不敵に笑う。
「言っただろう。俺とアイツの利害が一致した。ただそれだけの事だよ」
「それだけの事で? 本当はお前が金魚を誑かしたのではないのか」
何という言い草。白猫と金魚の出会いは偶然だった。水に帰りたいと願ったのは他でもない金魚自身。
「そんな訳あるか」
「いや、お前が金魚を誑かしたんだ。でなければ、あんな水に帰りたいなど言う筈が無い。野蛮な獣。お前は頭が回る分余計にタチが悪いな」
一方的な決めつけに白猫は眉を寄せる。いい加減にして欲しい。何故、そうまでして認めようとしないのだ。
「なぁ、何でそんなにアイツの思いを否定するんだ。アイツは俺に出会わなくてもずっと帰りたがってた。水に憧れてたんだぞ」
「お前が知る必要は無い」
「納得出来るか!」
白猫は怒鳴った。周りで様子を見守っていた魚達がびくりと身体を揺らしてしまう程の大声だが、水神は眉一つ動かさない。冷ややかな淡い水色の瞳を白猫は睨み据える。
「そうやって聞く耳を持たないお前の態度はいい加減に腹が立つ。大体な、何でアイツの願いを叶える事が駄目なのか理由を言えよ! ただもとに戻るだけだろ。理由も分からず駄目なんて納得出来るか。こっちは頭が悪い餓鬼じゃねぇんだぞ!」
「五月蠅い」
鬱陶しいと言わんばかりに水神は右手の人差し指で宙に孤を描いた。途端に空気の玉が不安定に揺れ出した。水神が何かしらの玉に干渉する術を使ったのだろう。今にも割れてしまいそうな恐怖が白猫を襲う。
「如何やら、お前には今の状況を再確認してもらう必要がありそうだな。ここは我の領域。地を這う獣如きが生きることは本来叶わぬ場所ぞ。我の慈悲無くば息も出来ぬ癖に。身を弁えよ」
水神の言う通りだった。所詮は神と猫。力ある者に下は従う他ないのが世の常であり、白猫はそれをよく理解している。
(此処までだろう)
諦めないと誓った筈だというのに自分の弱気な声が心に響く。
――猫さん!
ふと金魚が自分を呼ぶ声を思い出した。空から降りて来た無垢な金魚。白猫に喰われる事を良しとした愚かな金魚。
あの時、藤虎の店で見た天井の水面を飛び込みそうな勢いで見入っていたあの金魚はもしも、この場でこの状況になったら諦めるだろうか。
否、あの金魚は絶対に諦めない。馬鹿正直に何処までも願いの為に生き抜く。
「ハハッ!」
「何が可笑しい」
「いや、何。情けねぇ話だなってな」
(あぁ、馬鹿な奴)
真っ直ぐに迷いのない強い眼差しで水神を見上げた白猫は前足を綺麗に揃えてたった一言を言い放つ。
「俺は諦めねぇ」
「待て!」
勢い余って立ち上がった水神が止めるが早いか。白猫は爪で力一杯に玉を引き裂いた。瞬く間に水に襲われた白猫は息の出来ない苦しさにもがく他ないが、それは一瞬にして終わった。水神が改めて白猫を空気の玉に閉じ込めたのだ。
ずぶ濡れで少量ながらも口に入って来た水を吐き出す白猫を水神は罵る。
「一体、何のつもりだ。自ら命を絶つような真似、愚かにも程があるぞ。頭でもおかしくなったか」
「別におかしくなってねぇよ。ただ、隔てられたままだとお前に爪の先一つ届きはしないからな。いっそ死んで霊体にでもなれば例え水中でもお前に一泡吹かすのも出来るだろうと思っただけだよ」
ふらりと立ち上がった白猫は笑う。
「俺は諦めない。これはその覚悟の表れだ」
「愚かな!」
心の底から侮蔑を込めた声色で水神は言った。
「そうやって、身を犠牲にして何になる。我は神。お前はただの猫。それは霊体になっても変わらん。最初から勝敗は決まっているようなものだ。無駄な事だろう」
「どうかな。案外、霊体にならなくても勝てるかもしれない」
「何? どういう意味だ」
「二度だ。俺が溺れた時、お前は俺を助けた。お前の大切で可愛い魚達の敵の筈の俺なんて捨て置けばいい命だというにだ。これがどういう意味を持つかなんて簡単だろ。どれだけ罵ろうと結局、神って存在は自分よりも非力なものに対して慈悲深く、そして、弱い」
「っ……」
不意を突かれたとでもいうのだろうか。言葉に詰まったような弱った表情を見せた水神は両手で顔を隠しながら椅子に深く腰掛けた。直ぐに魚達が側に寄る。魚達は水神が心配で堪らないようだ。
「あの時と似たような事を言いよって……」
やがて、絞り出された声は白猫にはよく聞き取れない、小さな呟きだった。「何か言ったか?」と問おうとした白猫だったが、それより前に水神が口を開いた。
「一つ教えてやろう、猫。我が金魚を水に戻したくない理由を。空魚には我の加護が付いておる。その加護は生涯で一度だけ受けれる特別なもの。加護を外せばあの金魚は二度と空に戻れなくなる。一匹で広い水中で生きて行かねばならんのだ」
意外にも水神は理由を話す気になったらしい。再び顔を晒した水神は先程の弱った気配を微塵も感じさせない。流石だと言わざるを得ない。
「加護ね……それはまた、大層な。此処には他の魚が居るじゃねぇか」
「此処の魚はまた別の加護が付いておる。加護が受け取れない金魚は置けない」
「分かったか」と水神は続ける。
「我は祖先の故郷に帰る為に生まれた故郷を捨てろとは言えぬ。金魚に孤独を与えたくない。安全な空と違い敵も多いのだ。あの金魚は直ぐに死んでしまう」
「それでいいです!」
不意に響き渡った高い声。此処には居ない筈の金魚の声に辺りは騒然と声の発した場所を見据える。白猫の目の前、水神と白猫の間に割り込む形で金魚は唐突に現れた。
「捨てます、空の生活!」
「なっ!」
「お前、どうして此処に!」
水中には入れないのではなかったのか。というか、どうやって此処まで来た。そんな疑問を他所に金魚は心底嬉しそうに白猫に笑い掛ける。
「あぁ、良かった、猫さんに会えた! 土地神様と藤虎さんのお陰ですよ。お二人に無理を言って魂だけを飛ばしてもらいました」
「魂!?」
言われてじっと見れば金魚の姿は薄らと透けて向こう側が見えている。
「まさか……」
自分がやろうとした霊体化を金魚がやって来るとは思いもよらなかった。本当に金魚の行動は読めない。驚愕だ。
「ほんと、お前ってつくづく変わり者だよ」
「ふふっ、そういう猫さんだってずぶ濡れになっても命を懸けて私を助けてくれようとするのですからお互い様ですよ」
「……何処から見てた?」
「猫さんが高笑いをした辺りから」
「早く出て来いよ」
「すいません。あまりに猫さんの気迫に邪魔しちゃ駄目かなと」
「よく言う。変わり者か。確かにそうかもしれんが、お前よりはマシだな」
鼻で笑ってそう言えば、金魚は納得いかないのか「えー」と不満そうに身体を揺らした。水神の御前だというに何とも呑気な会話である。
「土地神とあの猫又か。成程、あの二人ならばやれるか……魂を操る秘術は禁忌近いというのに呆れた奴らめ……」
額に手を当てて苦虫を噛み潰したような表情の水神。
金魚は改めて水神に向き直った。
「水神様。私の願いをどうかお聞き届け下さい」
「二度と戻れなくなるんだぞ。下はお前にとって安全な場所ではない。武器になる爪も牙も抵抗する手足すらない小さなお前は直ぐに死んでしまうぞ」
心配も憂いも金魚は関係ないと言わんばかりに頷いた。
「いいです。もとより、私の命は私のもの。どう扱うかは私次第の筈。私は庇護されるだけの生き方ではなく、私の生き方は私が決めたいです。それが例え、自ら地獄に飛び込むことであっても私は後悔しません。だから、お願いします」
強い眼差し。はっきりとした物言い。迷いなど微塵も感じさせない。
「どうして其処まで……」
「猫さんに覚悟があるように私にも覚悟があるのです」
「…………」
水神は何か言おうと口を開きかけたが、何も言えなかった。目を瞑り、息を吐く。白猫にはそれが水神が遂に折れ、金魚の願いを叶える気になったのだと悟った。
「本当にいいのだな」
「はい」
「分かった」
水神は立ち上がった。すると、どうした事か辺りが一変、土地神の社に戻っていた。便利な術だ。唐突に現れた白猫達に藤虎と土地神が驚いた表情で迎える。
「ずぶ濡れじゃねぇか、白猫」
「……藤虎」
そのニヤニヤ顔に言いたい事が山ほどある。金魚を魂で飛ばして寄越した事は特に。だが、今は先に見届けるべきものがある。
肉体に戻った金魚と水神が桜の樹の下で向かい合っている。金魚は金色に輝いて見えた。金魚に翳した水神の右手にその光が吸い寄せられている。加護を返還しているのだ。
白猫は安堵のため息を吐いた。これで、ようやく苦労が報われたというものだ。
「今、お前に付いていた加護を弱めた。水に触れれば直ぐにでも私の加護は解けお前は普通の金魚になるだろう」
水神は光が淡くなった処で手を下ろした。金魚はお辞儀をした。
「ありがとうございます、水神様」
「息災で」
「はい。水神も。さぁ、行きましょう、猫さん!」
「はっ? 行くって何処に?」
寄って来た金魚に白猫は問う。
「決まっています。水辺に!」
「今から直ぐにか」
「そうです。さぁ、早く行きましょう!」
早くと急かす金魚に押される形で白猫は立ち上がる。もう願いが叶う手前だ。急く金魚の気持ちは分かる。
やれやれだ。白猫は疲労感がある身体をゆっくり起こして立ち上がった。その間に金魚はひらひら揺れる尾ひれを翻して黙って様子を見守っていた藤虎と土地神に振り向いた。
「お世話になりました。お二人共、お元気で」
「おう」
「また何時でもおいで」
二人は金魚に笑う。金魚は土地神の言葉には「はい」と答えなかった。ただ、微笑み返してお辞儀をした。
金魚と二人の再会は無い。金魚は分かっているのだ。願いが成就する。それはつまり白猫との約束を果たす時が来るという事だ。
「猫よ」
「!?」
不意に呼ばれて白猫は水神に振り向く。腕を組んで不服そうな水神と目が合う。
「お前の事は気に喰わん。だが、金魚の事、よろしく頼む」
「あぁ……任された」
白猫は頷いた。
風が吹く。頬を撫でる風は優しく、桜の花びらを舞い上がらせ月夜に映えた。
終りの時が近い。