水神
「…………」
「わっ!」
「小さい」と白猫の思わず出てしまった言葉に目を細めた水神は物を投げ捨てるようにして白猫を桜の樹に向かって投げた。驚く、一同。金魚に至っては悲鳴に近い声で白猫を呼ぶ。しかし、白猫は腐っても猫である。
咄嗟に身体を捻って桜の樹に足を付けるとそのまま今度は地面に向かって飛ぶようにして着地した。
華麗な猫の着地技術だ。犬ではこう上手くはいかないだろう。
最初に感じていた恐れは何処へやら。怒り任せに白猫はキッと水神を睨んだ。
「あぶねぇだろ。何、考えてんだ!」
「五月蠅い、猫風情が。我を侮辱したお前が悪い。もう一度、捕まえて今度は池に捨ててやろうか?」
なんて生意気な子供だろうか。容姿は良くて神であっても性格は最悪だ。
気に入らない。白猫も水神も同じ苛立ちで怒っている。
「あー何やってんだ、アイツ……」
「これ、お二人共止めなさい」
「や、止めて下さい、水神様! 猫さんも! 水神様、猫さんは私の友人です。友人に酷い事をしないで下さい!」
睨み合う両者の間に金魚が割って入った。白猫を背に水神と向き合った金魚に白猫は驚いたが、それ以上に水神は驚きで目を瞠っている。
「……金魚?」
水神から呟かれる呼び掛け。
一呼吸。金魚は口を開いた。
「そうです。初めまして、水神様。空魚となって久しい金魚です」
「ほう!」
跳び付かんばかりに満面の笑みを浮かべた水神は金魚の前にしゃがみ込むとその両手で優しく金魚を掬い上げた。白猫の時とは大違いの扱いである。
「会えて嬉しいぞ、金魚よ。我の世話をする中に其方のような赤い金魚は居らぬでな。黒と橙交じりの赤なら居るのだがやはり赤も美しくも愛らしい。空はどうだ? 日々快適に過ごせておるか?」
「はい。何の柵も無く、日々悠遊と過ごせております」
「なら良い。空は水よりも広い。小さき其方のような者は特に水中よりも自由であろう。して、此度は何故、地上に降りて来たのだ。ここは其方にとって生きにくい。人やそこの猫のような天敵が闊歩する危険な地ぞ」
金魚は頷いた。
「それは重々分かっています。ですが、私は水神様にどうしても叶えて欲しい願いがあってこの地上に降りて参りました」
「ほう、願いか」
「はい。水神様、どうか私を水へお戻し下さい」
一呼吸、間が空いた。先程まで始終笑顔だった水神の表情が消え、射抜くような視線が金魚に向けられる。
「まずは理由を述べよ、金魚。先程、其方は空で自由に過ごせていると言ったばかりではないか。それを何故、今更水へ戻ると願うのだ」
「それは私が水に憧れているからです。私は空で生まれ、空で泳ぐ事しか知りません。ですが、幾ら離れようと故郷は水。水中なのです!」
金魚は語る。白猫と出会い、裏庭で語った時のように夢という名の願いを。皆、口を閉ざし、金魚を見守る。
「私は知りたい。故郷がどのような場所なのかを。ただ見るのではなく、この身で感じたい。言葉にしたい。記憶に刻みたい。ずっとずっとそう夢見ていました。ですから、どうか私のこの願いを叶えて下さい。お願いします」
「駄目だ。聞き入れられない」
静かに。けれど、確かに響いた拒否の言葉。
金魚がびくりと身体を揺らし、土地神が目を伏せ、藤虎が珍しくため息を吐く。
「何でだよ!」
不意に口を挟んだのは白猫だ。間髪入れずに拒否した水神にこれでもかと牙を見せて叫ぶ。
「叶えてやれよ! アンタがソイツを空に上げたんだろ。行きだけ手伝って帰りは見限るのか」
「猫さん……」
「口を慎め。猫風情が我に意見するな」
(本当に自分でも何をやっているのか)
水神相手に何を。きっと、最初に水神に感じた恐れは水神が白猫を殺せるだけの力があるからだ。その相手に逆らう。白猫に不快も侮蔑も隠さない相手に無謀にも程がある。
しかし、白猫は止まらない。
「いや、するね。生憎、俺は故郷に帰りたいなんて思う経験は無いが俺にはソイツの夢が叶う事で成就する約束あるんだ。せっかくソイツの夢は叶う手前まで来てんのにここで駄目になるってんなら意見しねぇ方がおかしいだろ」
そうだ。金魚の為じゃない。自分自身の為だ。
「ふん。結局は自分の為か。これだから地上の生き物は嫌いだ。どんなに慈しみを持っても最後は自分の事しか考えられない」
不快だと鼻で笑う水神に白猫は不敵に笑う。
「そうだよ。俺は俺の事しか考えていない。でも、それでも俺の為の行動が結果ソイツの為になるんだったらこれ程一石二鳥な事はないだろう?」
「よく言う口だ」
「何とでも。なぁ、水神様。ソイツの願い叶えてやってくれよ。あんなに沢山の魚を空魚にしちまう力があるんだ。たかが一匹の金魚を水に帰すなんて俺を摘み上げるよりも簡単だろう。それとも全盛期が過ぎて力が弱くなったから無理なんて冗談は言わないだろ? まだ若そうな見た目だし」
「…………」
水神の表情が完全に消えた。途端に辺りの空気が冷えた。ざわざわと不安げに揺れる木々。「おいおい、マズくねぇか」と藤虎の呟きが聞こえ「その通りだよ」と白猫は思う。危険だ。白猫は次の間も置かずに来るだろう水神の攻撃に警戒態勢を取る。
「そこまでじゃ」
ふと響いた土地神の一言で視線が厳しい表情の土地神に集まる。
「ここは儂の土地。その溢れ出る気を治めなされ。如何に水神様とてここで流血沙汰を起こす事は赦しませぬ」
「チッ」
水神は不服そうだが、境内は正常に戻って行く。それを確認してから土地神は白猫に向かって言葉を続ける。
「白猫、お前も神相手に言い過ぎじゃ。もう少し言葉を覚えねばいつ身を亡ぼすか分からぬぞ」
「はい……」
「藤虎、お前もじゃ」
「はぁ? 何で今このタイミングで俺の名前が上がるんだよ」
意味が分からないと眉を寄せた藤虎に土地神は「惚けるな」と睨む。
「お前、本気で白猫を止める気など無かっただろう。ニヤニヤと口角が引き攣るのを我慢していた様子からしてあの状況を楽しんでおったな」
「……チッ。嫌なところ見やがる」
「馬鹿者。何年の付き合いになると思っとるんだ。さて、藤虎への仕置きは後にするとして先ずは……」
土地神は改めて腕を組んで不機嫌極まりないといった雰囲気を隠しもしない水神に向き直った。
「水神様、金魚の願いを叶えてやりなされ」
優しく諭すような口調で土地神は言った。まるで爺が我が儘な孫を言い聞かせる光景だが、たかが一区画の守り神でしかない土地神が水を統べる水神に言うには正しくない言葉である。案の定、水神は鋭く土地神を睨み付けた。
「何を言い出すかと思えば、其方も我に意見するのか」
「何、儂も神の端くれ。儂の土地に住む人を見守り、時には願いを聴いて叶えることもある。そこの金魚は己が身を危険に晒して故郷を見んとした強者です。かつて、貴方が最初に願いを叶えた魚と同様に願いを聞き届けるには十分な資格を持っているように思います。如何ですかな、水神様。幾世代から身体に刻まれ続けた故郷への念はそう簡単に消えるものではありません。現に空で生まれ、水を知らぬ金魚がこうして故郷を求めて降りて来たのが証拠。恐らく、あの金魚は折れてはくれませぬぞ」
「水神様、お願いします」
折れない。不屈な金魚はもう一度、水神に頼む。水神は金魚から視線を逸らした。
「断る」
「お願いします!」
「駄目だ」
「お願いします!」
「絶対に嫌だ」
「頑固な奴だな。いい加減、折れろよ」
「黙れ、猫。駄目なものは駄目なのだ」
頑固過ぎる。一向に金魚の願いを聞き入れない水神。それでも、金魚は諦めない。
「お願いします、水神様」
「駄目だ」
「もう諦めろよ。ソイツは絶対に諦めないから」
「そうです、諦めませんよ」
「変に結託するな。駄目だと言っておろうが!」
二匹対神一人。ぎゃあぎゃあと言い合いは勢いを増すばかり。
完全に蚊帳の外な藤虎と土地神は子供同士が喧嘩をしているとしか思えないその光景に呆れている。藤虎に至っては喧嘩を肴に酌を始めている。
「なぁ、爺さん。何で水神はあんなに頑なに拒否するんだ。たかが、金魚一匹を水に戻すだけだってのによ」
「あれはな、金魚の行く末を案じておるが故よ」
「止めねぇのか?」
「止まるように見えぬ」
深くため息を吐く土地神。ちょうどその時、遂に水神が我慢の限界に達したらしく、顔を真っ赤にして怒鳴った。
「もう、知らぬ。このような所に来るのではなかった。不快だ!」
「待って下さい、水神様!」
「待て!」
身を翻して場を去ろうとした水神を白猫は追う。逃がすかと地を蹴り、水神のそのひらひらと揺れる袖に噛みつこうと飛び掛かる。驚いた水神の顔が見える。白猫は見事に衣を捉まえ、水神を引き留める事に成功した。
しかし、本来ならば称賛に値する白猫のこの行動は失敗だったという他ない。
(あれ?)
落し穴に落ちる、引っ張られる感覚にぞわりと毛が逆立つ。それは一瞬の事で白猫にも周りにいた誰も止められなかった。
水神は元居た場所に帰ろうとしていた。空間を移動する術を使って。白猫はそれに自分から突っ込んで行って巻き込まれたのだ。
「猫さん!」
視界が歪む。遠くなる。対して、強く感じるのは深い水の香りと冷たさ。
最後に見たのは此方に向かって前ひれを必死に伸ばす金魚の姿だった。